薄い青の空の一角には、鈍色(にびいろ)の雲が垂れ込める。
そこから、淡い日差しが地上へ差し込み。
すっかり葉を落とした梢は、寒風に晒されて震えていた。
そんな冬の光景と窓一枚を隔てた部屋は、エアコンによって適温が保たれ、部屋の片隅では加湿器が蒸気を吹いて、乾燥しがちな空気を潤している。
寒さに弱い植物を守る環境にも似た部屋で、ピアノの音色と柔らかな声が響いていた。
優しく流れるメロディは、転調して寂しげな色が混ざり。
再び変わる前の調に戻って、サビに入る‥‥ところで、ぱたんとピアノの音が途切れた。
「またですね‥‥すみません」
音が失せることが判っていたのか、反射的に慧が謝る。
「あんまり、身構えなくてもいいんだけどね」
ピアノの前に座る川沢一二三は譜面を手に取り、止まった部分をとんとんと指で叩く。
「やっぱりここで調が変わるのは、感覚的に難しいかな?」
「いえ、そんなことは‥‥ないと思うんだけど。もう一回、いいです?」
「構わないよ。じゃあ、最初から通そうか。転調する時は、少し力を抜いてみた方がいいかもしれないね」
「判りました」
何度か軽く肩を上下に動かして、慧は自分をリラックスさせ。
そして再び、同じフレーズが奏でられた。
ピアノを弾きながら、川沢は曲の進行に合わせてアドバイスを告げていく。
先ほどと同じところで一瞬また慧が眉をひそめるが、今度は川沢の伴奏は止まらず。
最後まで、彼は歌い切る。
「う〜ん‥‥ちょっと、休憩にしようか」
「でも、まだ歌えますし‥‥さっきのフレーズも、直ってないですし」
口惜しそうな慧へ、楽譜を揃えた川沢は苦笑を返した。
「熱心なのは、いいけどね。でも、根を詰めることが必ずしもいい結果を出すとは限らないし、気分転換は大切だよ。それから喉を休めることも、ね」
両手で揃えた楽譜をピアノの上に置くと、川沢は椅子から立ち上がる。
「ホットミルクでも、作ろうか。それとも、ミルクティーの方がいいかな?」
「あ、僕がやりますから」
急いで慧は、スタジオの扉へ向かう川沢の後を追いかけた。
○
暖かい色の照明が照らす休憩スペースに、いい香りと湯気が漂う。
「やっぱり、曲の途中で変調するものや、こう‥‥前後の音の高さの差が大きいと、声が落ち着かない感じが、ちょっとしますね」
肩を落として嘆息する慧の前に、川沢がマグカップを置いた。
「声にも、それぞれの個性が出るからね。どちらかといえば、緩やかなコード進行の曲の方が、君の声の滑らかさを出すのにはいいと思うけど‥‥」
いま歌おうとしている曲は、どちらかといえば慧の苦手なコード進行が含まれている。だが彼は、あえてそれに挑戦していた。
「得意なパターンの歌ばかり唄っていると、何だかそれだけになりそうで‥‥いただきます」
軽く頭を下げてから、慧は大き目のマグカップを両手で包む。ミルクと紅茶の香りを楽しんでから立ち上る湯気を吹き、マグを口へ運んだ。
「自分の可能性を開拓することは成長する上で不可欠だし、そういうチャレンジ精神を持つのは、大事だと思うけどね」
言葉を区切ると、川沢はいつものやたらと熱くて濃いブラックコーヒーを満たしたカップへ手を伸ばす。
「やらなくて出来ないことと、やって出来ないこととは違うし、やってみて新しく出来るようになることだってある」
「はい。何だかこの頃は、作詞や作曲にも興味が出てきたんです。興味がなかった訳ではないですし、今までも書いてましたけど‥‥やっていくうちに奥が深いなーって、思えるようになって」
まだまだ難しいですけどと苦笑する慧に、カップを手にした川沢は目を細めた。
「それで‥‥どうだい? 最近は」
近況へ話を振ると、慧の表情が少しはにかんだような笑顔に変わる。
「はい。実は先日、『Limelight』でハロウィンのパーティをした時に、プロポーズをして」
「‥‥っふ、げふっ」
「あれ、大丈夫ですか?」
急にコーヒーでむせる川沢に、きょとんと慧が首を傾げた。
「いや、ちょっと‥‥ね。そうか、彼女にプロポーズをしたんだ」
「ええ。彼女も、OKしてくれて‥‥それから、何だか色々やってみたいことが増えきてて。式とか細かいことは、まだまだこれからですけどね」
楽しげに語る慧は、ミルクティーで暖まった身体を一息つかせるように、ふっと息を吐く。
「結婚か‥‥あいにく、僕も佐伯も仲人は出来なくて残念だけど、式にはぜひ呼んで下さいね」
「もちろん。むしろ、『Limelight』でやりたいかも‥‥二次会か、三次会になると思いますが」
「ああ。佐伯に言えば、喜んで貸し切ってくれるよ。万が一渋るようなら、僕からも言うから」
「ありがとうございます」
おそらくその際に繰り広げられるであろう『攻防』を予想だにしない慧は、無邪気な笑顔で礼を言った。
「でもお二人は、結婚しないんですか?」
胸にわいた疑問を、彼はそのまま言葉に出す。
笑顔に微妙な表情を混ぜた川沢は「んー」としばらく唸り、それからまたコーヒーを一口飲んだ。
「もう、焦って恋愛相手を探しに走る歳でもないしね。お互い」
「だけど‥‥」
ふと、純粋に気になった。
尊敬する音楽業界の『先輩』二人がどんな恋愛をして、今に至る変遷を辿ってきたのか――。
物問いたげな視線に気付いた川沢は、小さく肩を竦める。
「あいつとも、長い付き合いだからね。二人して、同じ相手を好きになったこともある‥‥もう、昔の話だけどね」
それだけ告げると、川沢は残ったコーヒーを胃へ流し込んだ。
「誰かを好きになることは、素晴らしい経験だと思うよ。だから悔いのないよう、自分の思いだけでなく相手の思いも大切に‥‥先達として言えるのは、これくらいかな」
神妙な顔で話を聞く慧の前から空になったカップを引き上げると、川沢は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろレッスンを再開しようか」
○
先ほどと同じ曲が、スタジオに流れる。
奏でるメロディは、慧にとって『難所』である変調部分へ差しかかり。
ほとんど意識せず、すとんと、思う声で彼は歌を紡いでいた。
それに気付いて思わず顔をほころばせる慧へ、ピアノを弾きながら顔を上げた川沢は、小さく頷き。
そして、伸びやかな歌声は響く。
初冬の風景の中で、少し早い春の暖かさを感じさせながら。
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