「なーなー、アレ凄かったな、アレ! アスレチックの、ロープ捕まってゴーッってやつ!」
「光クン、かっこよかったよ。かーくんはね、丸太渡るの、怖かったの。でも、楽しかった〜」
「一日中遊び回ったからな。疲れただろ。温泉でゆっくりしよう」
脱衣場から、賑やかな話し声と笑い声、次いで、カラリ、と戸が引かれる音。
「うお、すっげー!」
もうもうと湯煙立ち上る大浴場に、御崎・光夜の声が響き渡った。
「大きいのー、すごいのー。あのね、かーくんびっくりなの」
こちらのぽややーん、とした話し方は光夜の弟、御崎・神楽のもの。
「風呂場で走るな、危ない」
そのふたつを追いかけて響く、二人の兄御崎・月斗の制止。
「なぁなぁ、湯船いくつあるんだ? 全部入りきれっかな!?」
「ひとつ、ふたつ、みっつー‥‥いっぱい!」
両手の指を折り終えても足らず、足の指も使おうか考えている神楽の手首を掴んで、光夜が走り出す。
「とりあえず、一周しようぜ!」
「わーい」
「いい加減にしろ!」
ついに怒鳴り声を上げた長兄月斗。キキッ、と立ち止まった光夜が、しぶしぶといった風に戻ってくる。
「ちぇっ」
「ニ人とも、まずは体を洗ってからに‥‥神楽、桶は被るものじゃない」
「はいはい」
「はぁーいっ」
今日一日、寺根スポーツワールドで遊びまくった三人は、どこもかしこも泥だらけだった。最も、自主的に汚れたのは光夜と神楽の二人で、月斗はそのとばっちりを食った形になるのだけれど。
それぞれ、蛇口の前、プラスチックの腰掛に座って、さあ洗おう、とした、その時。
ぺった、ぺった、ぺった、ぺった‥‥
聞き慣れぬ足音に、三人が振り返った。
「‥‥‥?」
かぽーん。
湯煙の向こうから現れたのは。
「ぺんぎんクン!」
白と黒のツートンカラーが特徴的。今も昔も女子供のアイドル、飛べない鳥の代表格ぺんぎん。正確には、ぺんぎん型もののけ。職業は温泉ぺんぎん、ぺんぎん・文太。
「‥‥‥イワトビペンギンにそっくりだな」
呟く月斗。
「へ〜、ペンギンって、湯に浸かって良いんだな」
感心する光夜。
さぁ? でも彼は、流離いの温泉ぺんぎんですから。小脇に抱えた檜の桶が、放浪の月日を物語る。
「ぺんぎんク〜ン」
がばぁっ、と満面の笑みで抱きつく神楽。
「‥‥‥‥っ」
二、三歩つんのめった文太。
「こら、見ず知らずの人にいきなり!」
叫んだ後で『人』? と己の言葉を反芻する月斗。
「‥‥‥。」
泥だらけの腕で抱きついた所為で、黒い羽がべったりと汚れてしまっている。
「‥‥‥。」
しかし長兄の心配を他所に、文太は怒った様子も無く、ほてほてと脇を通り抜け、カラリ、と腰掛を引いて座ると、蛇口を捻った。
「‥‥‥。」
ざぶざぶと体を流し、器用に背中を手拭でこする。
何となくじーっ、と見つめてしまってから、は、と月斗は我に返った。
「さ、俺達もさっさと洗って、入ろう」
「ん。月兄ぃの背中、流してやるよ」
「あのね、かーくんも、やるの〜。月クンの背中、洗うの」
「ああ。‥‥おい神楽、そっちは水‥」
「きゃ〜冷たい〜」
遅かったか、と溜息の月斗。
「うるさくて、ごめんな」
隣の文太に声を掛けたものの。
「‥‥‥。」
相変わらず、彼は体を擦っているだけだった。それは、無我の境地にも見えた。
「月クン、気持ちいい?」
目一杯泡立てたタオルで、神楽が月斗の背中を擦っている。
「ああ、ありがとう」
振り返って、微笑む。
「どういたしまして〜」
ほにゃ、と笑顔を返し、立ち上がりかける神楽。
「あ、こら神楽、動くなって」
さらに、その背中を流していた光夜が、神楽の肩を押えた。
「きゃ〜」
反動で、神楽が尻餅をついた。背中に弾かれた腰掛が、カラン、とひっくり返る。
「あ、悪い」
ぽーん‥‥
慌てて無意識に握り締めた光夜の手から、石鹸が滑り飛んだ。
‥‥ぱこっ!
「‥‥‥く。」
‥‥ちゃぽん。
「‥‥‥‥‥‥」
沈黙する三兄弟。
放物線を描いた石鹸は、見事、近くで背中を擦っていた文太の脳天に着地‥‥しようとしたものの、再び跳ね上がって近くの湯船に落ちた。
「‥‥‥ああっ、湯に!」
最初に我に返った月斗が、桶をひっつかんで湯船に急行、多目の湯ごと、石鹸を掬い出した。そして、ニ度、三度、浮いた泡ごと湯をかき出す。
「ふう‥‥」
何とか湯船が泡に侵食されるのを防ぐと、息をついて、文太を振り返る。
「ごめんな。大丈夫?」
声を掛けられた、ぺんぎんのもののけは。
ぴた、ぴた。
羽で、二度程頭を抑え。
きょろり、きょろり。
のんびりと周囲を見回し。
きょろ‥‥じぃ‥‥っ。
やがて月斗が手に持った石鹸に目を止め、見つめ。
‥‥‥こく。
小さく頷くと、再び何事も無かったかのように背中を擦り始めた。
「‥‥‥。」
「ゴメン‥‥ごめんなさい」
「ぺんぎんクン、大丈夫〜?」
光夜と神楽の言葉にも、ちらり、と視線を向けるのみ。
背中を擦る事こそ、今己のすべき事であり、その他の事など瑣末にして無用‥‥といわんばかりの態度である。実際そんな小難しいことを考えているかは分からない。でも、数刻後には全て忘れるので、本人にも周囲にも、どうでも良いといえばどうでも良い。
しかし、その姿は兄弟二人に、ある種の感銘を与えたようで、
「ぺんぎんクン、かっこいいの〜。でもかわいいの〜。どっち〜? 両方〜?」
「渋い。渋いぜ。これが男の背中ってやつか‥‥っ!」
しきりに感心する神楽と光夜の姿があった。
その後も、兄弟三人、特に光夜と神楽が大騒ぎしながらも体を洗い終え、温泉に浸かって、ほっと一息‥‥つく間も無く。
「光夜、温泉で泳ぐな」
「だって、こんな広いんだぜ? 泳ぐためにあるような‥‥うわっ」
ざっぶーん。
「きゃ〜」
後ろから神楽に飛びつかれて、勢い良く湯に倒れこんだ。
「やったな、神楽!」
ばっしゃーん。お返しとばかりに、湯を跳ね上げる。
「わぁっ」
普通ならば、こういった状況でとる行動は主に二つ。避けるか、庇うか、である。神楽は避けた。‥‥上方に。
「おーい、降りて来いって!」
子供が、宙を浮いていた。当然、周囲はどよめく。一体何が起こっているのか、と。
「べぇっ」
声を掛けた光夜に、楽しそうに舌を出してみせる神楽。
―何だあれ‥‥
―子供が浮いてる!
―え、映画か何か?
―おとーさーん、ぼくもあれやりたーい。
神楽を見上げ、あるいは指差す老若男女。そう、老若男『女』。
浴場中央に立てられた仕切りよりも高く飛び上がった神楽の姿は、仕切り向こうの女湯からも見えていた。‥‥当然、神楽にも女湯が見えていた。
―きゃー!! 覗きっ
カコーン。
バッシャーン。
ポーン。
バタバタバタ‥‥
女湯から、神楽に向かって桶が飛び、石鹸が飛び。次いで、慌てて湯に飛び込む音や、浴場を出て行く足音が響いて来た。
「のぞき?」
首をかしげる神楽。彼の精神年齢は五歳である。その為、彼には『覗き』とか『女湯立ち入り禁止』という概念が無い。しかし、外見上は十二歳であるので、見られた側にとっては、とかく、同じ年頃の女児達にとっては、覗き以外の何者でもないのだ。
―あらあら、どうやって浮いているのかしらね?
その年頃、もしくはそれ以上の子供を持っているようなご婦人方は、泰然とした態度であったのだけれど。
「そろそろ降りて来いって。いい加減羨まし‥‥じゃなくって、月兄ぃが怒ってるぞ〜」
光夜の後ろには、がっくりと肩を落とし、頭を抱えている月斗の姿があった。
「‥‥神楽、降りて来い」
「は〜い」
何となく、潮時、というか、逆らってはいけない時というのは、察せられるものだ。すとん、と降り立つと、大人しく湯に浸かった。
「どもども、おっさわがせしました〜」
光夜が、ギャラリーに向かってひらひらと手を振った。
しばらくざわめきは止まなかったが、神楽が大人しく湯に浸かっているのと、あまり見つめていると、月斗の鋭い視線に見舞われるのとで、徐々に皆離れていった。
ちなみに。
「‥‥‥。」
男湯女湯巻き込んでの大騒ぎの間、唯一我関せずを貫いた人物‥‥『人物』? ‥‥存在は、言わずもがな、文太であった。
文太は、見つめている。
三人の、同じ顔の子供達。
先程、宙を浮いていた、一筋だけ、髪が白い子供。それが、今度はもう一人の、同じように、一筋だけ銀髪の、元気の良い子供と、湯潜り競争―どっちが長い間潜っていられるか―をしている。数ある湯船をひとつずつ巡って、その度に一戦。
今の所、銀髪が優勢のようだ。何気に、あの年で己の体をコントロールすることを知っている。呼吸もまた然り。武術の心得でもあるのだろうか。
白髪も検討しているが、いかんせん、勢いだけで動いている感が否めない。素直に頑張り、素直に喜び、素直に悔しがり。最終的にはぽわん、とした笑顔で全てをくるみ込む。周囲を和ませるあの雰囲気は、ある意味得難いものだろう。
少し離れて、二人を見つめているのが、やはり同じく、一筋だけ金髪の子供。白と銀の戯れには交ざらないが、その神経は常に二人に向いている。ある程度好きにさせ、度が過ぎそうになると、丁度良い拍子で声を掛け、諌める。正確や行動パターンを熟知しているからこそ出来る、ある意味、阿吽の呼吸だろうか。
‥‥‥‥あ。
白い方が、ぷかー、と浮いた。うつ伏せで。これは、ちょっとやばいかも知れない。
銀の方は、まだ潜っていて気付かない。金色が、血相を変えて駆けつけ、引っ張り上げ、べしべしと頬を叩く。目を回していた白が、ぱっちりと目を開けると、何事も無かったかのように、ほにゃららと微笑んだ。
金が、白と銀、それぞれに一言、二言、注意をして、溜息をついた。
上目遣いに金を見つつ、頬をかく銀。やっぱりほにゃん、と笑っている白。
そういえば、銀色が『月兄ぃ』とか呼んでいた。とすると、金が三つ子の長男で、銀か白が次男で‥‥
ぽちゃん。
背中に、天井の雫が落ちた。その冷たさに、びく、と震える文太。
「‥‥‥?」
その瞬間、それまでの思索は霧散した。何を考えていたのかも、忘れた。
「‥‥‥。」
ああ、今日も良い湯だ。
それだけで、文太は満足だった。
湯潜り対決にも飽きた光夜は、神楽と共に、大人しく湯船を巡っていた。
「ねーねー、光クン、つぎ、あっちいこ!」
「おお‥‥すっげ、滝じゃん。あの下行って、滝行するか?」
「ええ〜。それ、寒いの」
「ははっ、湯だから寒くねえよ」
ざばざばと、湯の中を歩く二人。
「ん〜‥‥かーくんね、ちょっと暑くなってきたの」
「ずっと動いてたもんな。風呂上がったら‥」
言いかけて、
―風呂上がったら、コーヒー牛乳買ってな、お父さん!
すぐ側で発せられた声に、何となく振り返る。
―ああ。母さんが待ってるから、買って、外で飲もうな。
親子連れ。子供の方は、自分達と同じ位の年頃だ。
「父親、か‥‥」
呟く光夜。
「光クン?」
溜息をついた光夜の顔を、神楽が覗き込んだ。
「ん、何でもない」
神楽に答え、ふと視線を感じて、親子連れとは別の方向に振り返る。
「月兄ぃ‥‥」
月斗が、こちらを見ていた。視線が会うと、ふっ、と微笑み、次いで、ぱくぱくと口を動かした。
「『あ、ん、ま、り、は、しゃ、ぐ、な、よ』ってか?」
その動きを追って、自らの口に乗せる。
「ったく、心配性なんだからな! それで、自分は俺が居ないと駄目なんだからなー」
にぃっ、と、笑い返し、親指を立て、突き出した。
「うん。俺達には月兄ぃがいるし。月兄ぃには俺達がいるし。何も問題なし! むしろ完璧。‥‥あ、風呂上がったらフルーツ牛乳買ってやっからなー」
「わぁい」
満面の笑みを浮べた神楽の頭を、光夜が、ぽんぽん、と撫でた。
「あー、コーヒー牛乳もいいよなー。でもフルーツも捨てがたいっ。両方買って、半分ずつ、が王道か? 月兄ぃも混ぜて、イチゴ牛乳も買うか。あれ、イチゴって、フルーツに含まれる? だったら、ちょっと損なのかな。でも、あれはあれで美味いよな。とりあえず、瓶で置いてあるよな? パックだったらがっかりだ」
「がっかり?」
「うん、温泉にパックはがっかりだ。瓶であってこそ温泉だ」
「ん〜、かーくん、わかんない」
「へっ、まだまだだな。‥‥さ、滝行こうぜ滝!」
「いく〜」
張り切って走り出す。その様子に、「風呂場で走るな!」と月斗の怒号が飛んでくるまで、あと少し。
そして、その会話を聞くこともなく聞いていた文太は。
「‥‥‥。」
フルーツ牛乳(瓶)が王道だ‥‥、とか考えていた。
そして、数分後。
散々暴れ回ったせいか、早々にのぼせてしまい、脱衣場に戻った弟二人。その賑やかな笑い声は、浴室内にまで届いてくる。
「ったく、落ち着きが無いんだから‥‥」
「‥‥‥。」
呟き、文太の隣に座る月斗。文太には、落ち着き以外は何も無い。
「いっつも、俺ばっかり後始末役で‥‥」
「‥‥‥。」
ぷぅかり。
煙管を離し、ドーナツ型の煙を浮べる文太。
「あーあ! この先、ずっとこんな感じなんだろーなぁ」
ちらり。文太が、月斗に視線を向けた。
「‥‥‥。」
その黒い瞳には、奥深い思索が宿っているのか、何も考えていないだけなのか。
考えていたところですぐ忘れるので、どちらであっても変らない。
「どうして、やることなすこと、騒ぎを振り撒くんだ。ちょっとくらい、大人しくしててくれれば、俺だって楽なんだ」
文太はただそこにいる。温泉求めてただ彷徨う。それだけが、変ることのない真実だ。
「‥‥まぁ、さ。あーゆう、無邪気にはしゃげる弟達を守るのが、俺の選んだ役目なんだけど」
愚痴りながらも、そこはかとなく、誇らしげな響きが宿る。
「‥‥‥。」
ぽふ。‥‥わしわしわし。
黒い羽が、月斗の頭を撫でた。
「‥‥へへっ」
「‥‥‥。」
くい、と嘴が上を向く。ガラス張りの大きな窓の向こうに、満月が見えた。
「綺麗だな」
かぽーん‥‥
湯煙の向こうのまあるい光。
ぷぅかり。
文太が吹いた煙が、再び綺麗な輪っかになって、ゆらゆらと昇ってゆく。
―神楽! そのシャツ俺のだって。
―光クンの? かーくんには、大きいの。変なの〜。
―あ、あ、伸ばすな、気に入ってんだから。
遠くから聞こえてくる光夜達の声。
―フルーツ牛乳〜。
―あ、ちょっと待ってろ。月兄ぃが出てからな。
―うん。月クンも一緒に飲むの。
月斗には、一瞬、文太が目を細めたように見えた。それは月影の錯覚かも知れないけれど。
ちゃぷん‥‥
天井から滴った雫が、湯面に重なる円を描いた。
ちりちりちりちり‥‥
目を瞑ると、どこからともなく虫の音。
「いい夜だな」
「‥‥‥。」
煙管の先が、微かに、上下に動いた。ほっこりと、煙と湯気が立ち上る。
苦労性の少年と、もの語らぬもののけ。
体がすっかり温まるまでの、もう少しの間。
一人と一匹は、並んで、秋の月を見上げていた。
〈終〉
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