マリィ・クライスは上機嫌だった。
彼女をよくよく知るものが――たとえば不肖の弟子だとか――が見たらむしろ警戒するくらい、上機嫌に見えた。
「好きなもの注文してね。私がもつから」
少女たちに向けて微笑む。
「あまり、お役に立ててるように思えないですけど」
苦笑まじりに、時永貴由が言ったが、マリィは意外なことを聞いたというふうな顔つきで、「とんでもないわ」と、言った。しかしながら、ふたりは護衛という名目で同行しているのだから、仕事らしい仕事もないまま、食事の席にまで同席するというのは差し出がましいのではないか、と、貴由は思っているようだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
しかし、光月羽澄はにこりと微笑を浮かべる。
貴由よりも、マリィの店とつきあいのある羽澄は、つまるところ、彼女は旅のあいだの話し相手が欲しかったのではないか、と思っていた。第一、護衛といったところで、大抵の出来事にはひとりで対処できうるだけの力をマリィは持っているのだから。
そして、三人は、食堂車のテーブルにつくのだった。
ボーイが、恭しく、飲み物の注文をとりにくる。
羽澄はペリエを、貴由はジンジャーエールを頼んだ。
マリィが、紅い唇に悪戯めいた笑みを上せて、言った。
「――は、あるかしら?」
「はい?」
マリィの言った酒の名を、ボーイは聴き取れなかったようだ。きょとんとした顔の給仕を見て、美貌の骨董店店主は、くすくすと笑った。
夜行列車『白やぎ号』――。
マリィたちがこの列車に乗り込んだのは、ある取引のためである。
羽澄と貴由は、それが何なのか、聞かされてはいなかったが、マリィが、コンパートメントで、夏も近いというのにコートの襟を立て、帽子を目深にかぶった取引相手から受取っていったのは、古びたノートのようなものだった。
それが往路の列車でのこと。
取引は滞りなく済んだようで、マリィは上機嫌のまま、彼女たちは復路の『白やぎ号』に乗り込む。
あと数時間……、夜が明ければ列車は東京に着き、羽澄と貴由の仕事も無事に終わる。
「羽澄、気づいてる?」
デザートの皿を前に、貴由が低く囁いた。
「ん……。マリィさんに誰かが見とれている――ってわけでもなさそうね」
羽澄は小声で応えた。
貴由はミルフィーユにナイフを入れながら、目だけで、周囲をうかがった。
食堂車はわりと混んでいるし、そのあいだを給仕が行き交っているので、その出所をにわかに突き止めるのは難しい。すなわち、さきほどからずっと、彼女たちにつきまとっている何者かの視線を。
当のマリィは、それに気づいているのかいないのか、貴由たちの囁きかわすのもそ知らぬ顔で、優雅にコーヒーカップに口をつけていた。
「あとでサロンカーに行きましょう」
カップをソーサーに戻しながら、ふいに、マリィが口を開く。
「せっかくだから……これのことを説明しておくわ」
彼女が、今も傍に肌身話さず持ち歩いている黒革の旅行カバンに、自然と、視線が吸い寄せられる。その中に、例の品がある。
「霊的な力は、とくに感じませんけれど」
羽澄が言った。
「そうね。これ自体はただの書き付けだもの」
「書かれている内容が、問題?」
貴由の言葉に、マリィはふふふと笑う。
「禁じられた緑の悪魔――とでも言えばいいかしら」
そのとき――
ざわり、と、なにものかの、声にはならぬどよめきのようなものが、食堂車のさざめく談笑の裏で、うごめいたような錯覚があった。
サロンカーは、ゆったりとくつろげる椅子に坐って、車窓を眺められるようにしつらえられている。
窓の外はすでに夜。今、どのあたりを走っているのだろう、まばらな人家の灯りが、ときおり、闇の中を流れ星のように過ぎてゆく。
「簡単に言ってしまうと、レシピなの」
マリィは、羽澄と貴由を前にして言った。
「それとも、製法、と言ったほうが正確かしら。あるお酒を製造する方法が記されているのよ。たぶん、正確に記録されているのは、この『アル・カポネの手帳』だけね」
「アル・カポネ!?」
貴由が、驚いて言った。その名は、映画などで耳にはするけれど。
「実際にアル・カポネのものだったのか、彼と関係があるのかは不明。そのへんは、正直、眉唾じゃないかと思うわ。……ただ、1920年代アメリカの品物だというだけで」
「あ、そうか。禁酒法ですね」
羽澄が口を開いた。
マリィは、出来のよい生徒を前にした教師のように頷く。
「そう。この記録がつくられたのは禁酒法の時代。少なくとも、公に酒を造ったり売ったりするのは禁じられていた時代よ。けれど、逆に、そのことが、マフィアによる密造酒やもぐり酒場の跳梁を生み……結果として、アメリカにおけるマフィアの財力や影響力を増長させることになった……ここまでは、歴史の教科書にも載っていることね?」
だが『神影』が取扱う骨董は、そうした歴史の闇に存在する、いわくつきの品物なのだ。
「このお酒はね……アメリカで禁酒法がしかれる前に、すでにヨーロッパで製造が禁止されていたものなの。アメリカでも、禁酒法にさきがけて1912年には製造が禁止されているわ」
マリィは、その赤茶けたノートのページを、ふたりの前でめくって見せる。
書かれているのは、件の酒の製法だけではないようだが、いずれも、くずれた字体の英語で、紙自体がかなり傷んでいるところも多く、判読は困難だった。だが、それでもマリィは、これに相当の価値を見い出しているようだ。
「どうして、禁止されたんです?」
「一言で言うと、人体に害があり過ぎたのね。このお酒はニガヨモギからつくられるのだけど……この植物はツヨンという物質を含んでいるの。これが向精神作用――つまり、中枢神経に作用をして、アルコールとは別の酩酊感をもたらす。強い依存性もあるわ。つまり、ほとんど、ドラッグだったということ」
「なるほど、それで……」
「ツヨン以外にも、精神作用をもつ物質が含まれているから……このお酒を飲み過ぎて、幻覚を見たり、中毒になる人も多かった。ヨーロッパで禁制品になるまでは芸術家たちに愛好されたというけれど、一説には、ゴッホもこのお酒の中毒で、自分の耳を切り落としたのはそのせいだとも言うわね」
あるページで、マリィは手を止めた。そこに書き付けられているのは……数字が並んでいるところを見れば、なにかの分量か。
そして、その脇には、英語ではない、何かの言語とおぼしきものが綴られている。
何語だろう、と羽澄は思った。見たこともない文字だ。
だいたいの古書や、魔導書の類は、一応、見たことくらいはあったと思ったが――。
「そのお酒にはいろいろな銘柄があるし、一部は、問題となる成分を抑えた形で復刻されてもいるわ。でも、この『アル・カポネの手帳』に記されている製法によるものは、禁酒法時代の、マフィアのネットワークを通じてもめったに取引されることのなかったものなの。なぜなら、これはただのお酒じゃなく――」
暗転――
サロンカーが、突然、闇に包まれた。
「っ!」
誰かの、息を飲む声ならぬ声。
「マリィさん!?」
叫んだのは、貴由だったか。
どかどかと、荒々しい足音がする。そして、大勢の人間の気配。
停電か――いや、違う、列車そのものは動いているのだし、停電などありえない。何者かが故意にこの車両の灯りを消したのだ。
「――……」
「刹那ッ!」
貴由が呼ばわった。
それに応えて、闇の中に黒い輪郭の獣が姿を見せた。それが、凛々しい狼のごとき風貌をそびやかすと、その前に、ぼう――、と鬼火めいた青白い灯りが、中空に灯る。
しかし……
照らし出されたサロンカーには、もう、貴由と羽澄の他は誰もいない。
「手帳が」
貴由は羽澄を振り返った。
テーブルの上にも、なにもなかったのだ。
羽澄は、しかし、落ち着いた様子で、頷く。
「列車は走り続けているわ。どこへも行けはしない。……ここは動く密室なんだもの」
(……ルグトムブグトラグルンブルグトム……)
地を這うような、低い詠唱。
マリィが目を開くと、狭い室内には、人がひしめいていた。
皆一様に、目深に帽子をかぶり、コートの襟を立てた男(おそらく)たちだ。マリィは自分が椅子に縛られているのに気づき、唇に人知れず笑みを浮かべた。小賢しいこと。
このようないましめ、脱せぬマリィではないが、しばらく様子を見守ることにする。
列車が走行する震動を感じるので、『白やぎ号』のどこかのコンパートメントには違いないようだ。
ちいさな丸テーブルの上に、例の手帳。そしてグラスと……一本の壜があった。
(…………)
マリィの金の瞳に、すっと光が宿った。
それは、濃い緑色のガラスの壜である。ラベルには、髑髏の印。
(イア! イア! ハスター! ハスター クフアヤク ブルグトム ブルトラグルン――)
男たちは小声で、呪文めいた囁きをぶつぶつと続けている。
そして、儀式めいたおごそかなしぐさで、テーブルの上の仕度を進める。
グラスのひとつに、茶漉しに似た銀の器具が渡されており、その上に乗っているのは……角砂糖のようだ。グラスには氷の浮いた水。
男のひとりが、壜から、スポイトでその中身を吸い取った。
スポイトのガラスの中に、美しく透き通ったグリーンの液体がすうっとたまる。
角砂糖に液が垂らされた。じわり、と砂糖にしみる緑。
別の男が、マッチを擦って崩れてゆく砂糖に近付けると、青白い炎がぼう、と灯った。それが高濃度のアルコールであった証だ。
コンパートメントはうす暗く、それだけに、燃える砂糖の炎は、どこか夢の中で見る光景のようだった。それも、熱にうかされた頭で見る、とりとめもない悪夢の中の出来事である。
ぽたり、ぽたり、と、炎によって溶け出した砂糖と混じり合った液が、下のグラスにしたたっていく。すると不思議なことに、その液が落ちるや否や、グラスの中の水がぱっと白く濁るのであった。
(ブルグトム ブルトラグルン ブルグトム アイ! アイ! ハスター!)
その炎に煽られるように、男たちの声に興奮がつのってゆくのがわかる。
マリィは、その詠唱に呼応するように、どこか遠くで響く陰鬱なフルートの音を聴いたような気がした。
「刹那は念のために列車の外を探して」
貴由が命じると、狼はぶるると身体を振って、すっと空気に溶けるように消えた。
「無事だよね」
「もちろん。むしろわざと捕まったんじゃないかと思うけど」
羽澄の手の中で、鈴が、ちりりと小さな音を立てる。
「穏便に……というのは無理にしても、なるべく騒動にならないようにおさえたいわ。あと数時間で東京に着くっていうのに」
「このタイミングを狙ってたのかな。ずっと私たちを見張ってたでしょ?」
「かもね。……コンパートメントのほうへ行ってみましょう。悪事をはたらくなら、室内だと思うから」
ふたりは客車へと向かう。
コンパートメントが続く車両は、通路が狭い。
そろそろ夜もふけて、最後の車中泊の、就寝の仕度をするものもいる頃合であろう。
「ひと部屋ずつノックしていくわけにもいかないし」
貴由はそう言って、かくしから取り出した呪符を、羽澄に渡した。
「たぶん、結界を張るなり何なりしてると思うから……、これが反応するはず。何もないときは、反対に、これで保護できるし」
「OK」
ふたりは足早に通路を進みながら、ドアに呪符を貼ってゆく。
そして、いくつかの客車を過ぎ……
リィン……
「羽澄!」
前方から、おぼつかない足取りで歩んでゆくる人物がいる。
帽子を目深にかぶり、コートの襟を立てたその姿は……
「貴方は」
羽澄は怪訝そうに眉を寄せた。
それは、往路の列車で、例の『手帳』をマリィと取引した人物ではないのか……? ならば、この列車に乗っているはずがないのだが――。
「……ウ――……ア……」
男はよろよろと、壁に手をつきながら、こちらへ向かってくる。苦しげなうめき声。いや、ごぼごぼいう、なにか、粘液が泡立つような、この不快な音は何だ。
「……仲間――に……バレ、た……『手帳』――売って、しま……った……こと…………ヤツラが……とり……返し――に…………」
カッ、と白い光が、窓から差し込んで客車内を真昼のように照らし出す。
雷光だ。
いったいいつのまに雨が降り出したというのだろう。
滝のように、車窓のそとを豪雨が流れてゆく。
羽澄は見た。
雷が照らし出した、男の顔は――すでに生きた人間のそれではなかった。
一日前は、たしかに生きていたはずの男が、今は腐り果てた屍体だったのだ。腐肉の表面に、無数の蛆がうごめき、波打っていた。
雷鳴――
そして、ガラスの割れる音。
「!」
貴由が、羽澄をかばった。
「穏便になんて、とても言ってられる状況じゃない!」
彼女の手の中で、呪符が青白い燐光をおびた。それを、暴風と豪雨とともに、窓の外から入り込んでこようとくるものへと投げ付ける。呪符がそれらにふれた瞬間、じゅっと肉の焦げる音がして、奇怪な叫び声が響き渡った。蝙蝠の翼を持つ、爬虫類とも、昆虫とも、腐った屍体ともつかぬものが、窓から転げ落ちて、後方へと消え去っていった。
「イア! イア!」
人間には発音できぬその咆哮は、なにものかへの祈念の言葉なのだろうか。
敵はまだいる。
「この奥の客車! つきあたりに特別室があるって……、きっとそこだ。ここは私が――」
貴由が皆まで言うより先に、羽澄は走り出していた。
かろやかな鈴の音。
浄化の波動が、死してなお、動かされ続ける男に解放をもたらす。
ぐずぐずと崩れていくものを一息に飛び越えて、羽澄は走った。
そして、特別室のドアを力まかせに開け放つ!
「…………」
窓が開いて、雨が入り込み放題になっている。
マリィがひとり、椅子にかけていた。
テーブルの上には、いくつかのグラスと、ガラス壜。
「行ってしまったわ」
マリィが言った。
「『あの手帳』は?」
「持って行ったみたいね」
グラスのひとつをつまみあげると、マリィは、羽澄に手渡す。
うすく緑がかった、白濁した液体に顔を近付けると、アニスの香りがふわりと嗅覚を包みこむ。
「これが……」
まじまじとグラスを見つめる羽澄に、マリィはもうひとつ、グラスを持ち上げると、羽澄のそれと、ちん、と打ち合せた。
「乾杯。今日はどうもありがとう。あれの効能まで、しっかりと確かめられたわ」
「要するに『黄金の蜂蜜酒』と、似た効能を持つ一種のマジックポーションだということね。一定の儀式に使用することで、生身のまま星の世界へ渡ることを可能にする。あの連中は、後生大事にそれを継承して……製法も秘密にしてきたのよね。でも……ふふふ」
マリィ・クライスは上機嫌だった。
その手の中には――古びた一冊の手帳。
「じゃあ、マリィさんは、やつらが奪い返しにくることも予想してたわけ?」
貴由が、あきれたように言った。
「だからこその『胡弓堂』さんへの依頼でしょ。ただの護衛ならバカ弟子で十分だもの」
「現物がないのに、イミテーションだなんて……、それらしいものを見繕うの、ちょっと苦労したんですよ」
と、苦笑まじりに、羽澄。
「さて、と。……東京まで、あと2時間くらい? すこしなら眠れるけど?」
マリィの問いに、顔を見合わせる羽澄と貴由。
「今さら眠れないなら、もうすこし付き合ってくれる? 未成年にお酒をすすめるわけにはいかないけれど、珈琲とお喋りなら、いいでしょう?」
ゆっくりと、夜明けの兆しがさす東の空のしたへ。一路、『白やぎ号』は走り抜けてゆくのだった。
(了)
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