●露天風呂にて
大阪を発ち一路東京を目指していたツアーバスは、その途中で熱海を訪れることとなった。
熱海――古来からの温泉地であり、江戸時代では将軍家や多くの大名家が訪れていたり、近代だと文人がこの地を舞台とした作品を描いていたりする。それ以外にも新婚旅行の定番であったり、団体旅行で賑わったりした時代を経てきて現在に至る訳だが、そういった時代に比べると今はあまり芳しくないと言えるだろう。
そういった時期だから、今回のツアーのような団体旅行客は貴重である。まとまったお金を落としていってくれる訳だから、ホテル側のサービスにも自ずと力が入るというものだ。
まあそんなことはさておき、宿泊地となったホテルは大小様々な温泉があることが売りであった。大露天風呂はもちろんのこと、内湯から家族風呂まであれこれと。熱海の街の共同浴場などと合わせれば、宿泊客は実に多くの温泉を楽しむことが出来るのだ。
ツアー客は自分の好きな時間に、自分の入りたい温泉へと向かう。多くの客が入っている賑やかな時間帯や温泉を好む者も居れば、ひっそりとした静かな時間帯や温泉を好む者も居る。このツアーに参加していたマユラセラス・エンカウンターの場合は、もしかしたら後者だったかもしれない。
さほど大きくはない露天風呂に、マユラセラスの姿はあった。2度3度、その筋肉質な身体にかけ湯をしてからゆっくり静かに露天風呂へ足を浸けてゆく。一瞬ぴくりと眉が動き、声が漏れた。
「くっ……ふう……」
眉はすぐに元の状態へ戻った。足を浸けた瞬間は少し熱く感じたが、一旦入ってしまえばそうでもなかった。
そのまま静かに肩まで身体を沈めるマユラセラス。湯が少し溢れ、岩造りの湯舟の外へと流れ出た。目の前には月明かりに照らされた桜、そして遠くには熱海の海が見えていた。
「綺麗……」
ぽつりと感嘆の声を漏らすマユラセラス。ゆったりと温泉に浸かりながら、月明かりに照らされた夜桜と夜の海を堪能しているのは、何と贅沢なことだろうか。他にこの露天風呂に入っている客は誰も居ない。つまり、1人占めだ。なお贅沢ではないか。
(こんな綺麗な光景、あの人にも見せてあげたい……)
マユラセラスの脳裏に『あの人』――すなわち今回のツアー旅行に誘ってくれた相手、ハートライド・バードラグの顔が浮かんだ。
「ああ……綺麗だ」
そんな時だった。マユラセラスの背後で、男性の声が聞こえたのは。
「えっ?」
はっとして振り返るマユラセラス。するとそこには、微笑み浮かべた優男が立っていた。マユラセラスがこの光景を見せてあげたいと思っていた相手……ハートライドである。
「ハッ! ハ、ハ、ハッ、ハーデ……!」
とてもびっくりしたのだろう、マユラセラスの口からちゃんと名前が出ない。それでもしっかり両腕で胸元を隠しているのは、ある意味冷静かもしれない。
「そんなに驚いたかな」
一方のハートライドは、不思議そうにマユラセラスを見た。
「ど、どうしてここに……?」
上目遣いでハートライドを見ながら、マユラセラスが尋ねた。
「ここは混浴だよ、マユ君」
くすりと微笑み答えるハートライド。
「……そ、そうだったんですか……」
どうやらマユラセラス、混浴とは知らずに入っていたようだ。しかし、だからといって恥ずかしくない訳ではなく。特に愛する人、愛してくれる人の前だから余計にそう思ってしまう訳で。
(ど、どうしよう)
何だか上がり辛くなってしまったマユラセラス。うつむいてじーっとしていたのだが、ハートライドが突然こんなことを言い出したことによってそうはいかなくなってしまった。
「そうだ。マユ君にはいつも世話になっているから、今日はお礼に背中を流してあげよう」
「え……」
マユラセラス、絶句。ただ、ふるふると恥ずかしそうに頭を振るだけ。
「遠慮しなくていいから」
けれどもハートライドはにっこりと、満面の笑みを浮かべてそんなことを言ってくる。「さあ」
ついには湯舟の中のマユラセラスに向けて、手を差し出してくるではないか。さすがにここまでされると抗い続けることも出来ず……マユラセラスは湯舟から出ることとなってしまったのだった。
●ちょっとした意地悪を
ハートライドに背中を向け、椅子に腰掛けたマユラセラス。前をついつい隠してしまうからか、自然と背中が丸まってしまう。
スポンジを泡立てながら、ハートライドは空いている方の手の指でつつ……っとマユラセラスの背中を撫でてあげた。ぴくっ、とマユラセラスの頭が上がる。
「あ、あの、やっぱり結構です。私、肌は日焼けしてますし、身体もごつごつしてますから……」
マユラセラスが申し訳なさそうにつぶやいた。ハートライドが背中を流してくれるのは嬉しくないと言えば嘘になるけれども、自分のようないわゆる一般的な女の子らしくはない身体を流してもらうというのは、何だか悪いように思えてしまうのだ。
「そんなことないさ」
ハートライドは泡立てを続けながら言った。
「知的さと逞しさを兼ね備えた、魅力あふれる美しい人だよ」
この言葉に嘘はない。筋肉質な身体――日焼けして健康的な小麦色となった部分と、そうではない普通の部分との肌のコントラスト。それが何とも言えぬ不思議な魅力を醸し出していた。知的さの下に隠れているのだから、なおさらだろう。
「……あ……」
瞬く間に顔が赤くなり、もじもじし始めるマユラセラス。赤くなったのは顔だけではない、身体全体がだ。日焼けしていない部分の肌も、見事に真っ赤だった。これは温泉の効果だけでないことは明らかである。
「うん、準備完了」
ハートライドはそう言うと、十分に泡立ったスポンジでマユラセラスの背中を優しく流し始めた。小さな円をマユラセラスの背中でハートライドは何度も描いてゆく。上へ下へ、左へ右へと場所を変えながら。
その最中もやはり恥ずかしいのか、マユラセラスはもじもじしっぱなし。そういった恥ずかしがる様子は、ある種の者には何かしらの悪戯心を呼び起こしてしまうようで……。
「ここも洗わないとな……」
くすっと笑みを浮かべてつぶやくと、ハートライドは泡たっぷりのスポンジをマユラセラスの右脇を通して前の方へと運んでいった。
「ひあっ!?」
マユラセラスの身体が突然のことでピクッと動いた。スポンジはしばし身体前方、喉よりやや下の辺りを洗った後に、左脇を通って背中へと戻ってきた。
さて、そのまま背中をまた洗い続けると思いきや――スポンジは一気に下、椅子の辺りまで降りていってしまった。
「……あっ……?」
また身体がビクッと動き、マユラセラスの口から小さな声が漏れる。顔は恥ずかしさのためなのか、より一層赤くなっていた。マユラセラスのもじもじも、さらに激しくなっている。
「そんなにもじもじすると洗えないよ」
などと言うハートライドだが、顔には意地悪な笑みが浮かんでいる。マユラセラスの反応で遊んでいるのは明らかだろう。まあ、誰がそうさせているのかという話なのだが……。
「さあ、綺麗になった」
マユラセラスの背中に湯をかけて、ハートライドは泡を流してあげた。そしてもう1度、指先でつつぅ……っと撫でてみた。背中を流す前より、マユラセラスの肌が艶やかになっているように感じられた。
「あ……ありがとうございました……」
振り返り、マユラセラスは礼を言った。その顔には笑みが浮かんでいた。
●一緒だから幸せ
その後、マユラセラスとハートライドは一緒に湯舟へ入った。そして2人並んで、月明かりに照らされた夜桜と夜の海を見つめる。風に吹かれ時折舞う桜の花びらが、2人の居る湯舟へと飛び込んでくる。
「私……一緒に来られてよかったと思います。本当に、心から……」
ぽつりとつぶやくマユラセラス。それは偽りない、彼女の本心。
そんなマユラセラスを、ハートライドが背後からぎゅっと抱き締めた。そして耳元に口を寄せ、何事か囁く。その様子を見つめているのは、目の前の桜と頭上の月のみ。
「…………」
無言でこくんと頷くマユラセラス。その表情はとても嬉しく、とても幸せそうであった――。
【おしまい】
※この文章をホームページなどに掲載する際は、必ず以下の一文を表示してください。
この小説は株式会社テラネッツが運営するオーダーメイドCOMで作成されたものです。
|