誰かに呼ばれたような気がして、蘭は立ち止まった。
夜だというのに、賑わう雑踏の中である。
「きれーい」
無邪気に声をあげる雪彼。
そして、蘭をふりかえり、小首を傾げる。
「蘭ちゃん、どうかした?」
「……ううん」
微笑み返して、また歩き出す。
ライトアップされた夜桜の下には、どこもゴザが広げられ、それぞれの宴席に騒がしく盛り上がっていた。
その中を、蘭と雪彼は連れ立って歩いてゆく。
雪彼はあわいクリーム色のワンピースに、手にはバスケットを提げて。蘭の背中には、いつもの相棒・くまさんリュック。
「場所、空いてないね……」
きょろきょろとあたりを見回すが、国営墓地の並木はどこも先客たちでいっぱいだ。
「……雪彼ちゃん」
蘭は、雪彼の手を引くと、人ごみの中をすり抜けて歩く。
「蘭ちゃん? どこに……――、あ」
雑踏を抜けた先に、ぽっかりと開けた草地である。なだらかな丘の上に、夜空を背景に桜の樹が一本だけ立っている。まるで最初からこの場所を知っていたかのように、蘭は丘の上へ雪彼をともなって上っていった。
「蘭ちゃん、これ……」
「やっぱり。声が聞こえたような気がしたの」
「桜さんが――?」
雪彼は、きょとん、と桜を見上げた。
並木のそれとは違って、直接、照明を浴びてはいない。ただ道のほうから漏れてくる光と、中天に架かった月明かりを受けて、ぼんやりと夜の中に浮かび上がっているに過ぎない。それでも、見事な枝ぶりに満開の花は、白々と輝くようだった。
「蘭ちゃん。ここでお花見しよ」
雪彼は言った。
「この桜さん、ひとりぼっちで、なんだかさみしそうなんだもの」
「うん」
蘭は頷いて、リュックから出したビニールシートを広げる。
ふたりは並んで、ちょこんと座った。
花見の喧騒からはすこし遠く、それでいて、切れ切れに談笑する声がちぎれてきたりするのがかえって、この場の静けさを際立たせる。だが、それを気にしたふうでもなく、雪彼はバスケットを開いた。
「わぁー、おいしそうなのー」
中には雪彼お手製のサンドイッチとカットフルーツ。
魔法瓶から紅茶をついで、ふたりだけのお花見のはじまりだ。
「とってもおいしいのー♪」
「ほんと?」
ライ麦パンに、サニーレタスとポテトサラダ、ハムをはさんだサンドイッチに、蘭は目を輝かせる。
「昨日見た桜もどこもきれいだったけど――」
雪彼は言った。
「夜の桜は、なんだか、不思議な感じ」
そして、頭上を見上げる。
月光を浴びた花は、日の光の下でみる華やかさとはすこし違う印象をもたらした。あわい花色は、月の蒼さを得て不思議な燐光のような青白さを宿し、ぬめりさえ帯びたような、どこかあやしい艶を放つ。
ざわざわ――
夜風が枝をゆらすと、はらはらと雪のように、花びらが散り落ちた。
「桜さんが、蘭ちゃんを呼んでくれたのかな」
ぽつり、と、雪彼は言った。
「ね、蘭ちゃん。桜さんの声を聞いてあげて」
「……わかったなの」
もぐもぐしていたサンドイッチを飲み下して、蘭は、桜の幹へ向き直った。どっしりと太いところからみても、かなりの樹齢なのではないかと思われる。
「桜さん、ひとりだけ離れててさみしくないなの?」
ざわざわ――
枝が、そよいだ。
(待って――いるのよ)
蘭は聞く。桜の聲を。
(わたしはずっと、待っていたのだから)
(この場に立ちながら)
(ただ、ずっと――)
ごう――、と、強い風が吹いた。
ざああああああ、と枝が騒いで、吹雪のように、花が舞う。
その花の雨の向こうに、ふたりは、誰かの姿をたしかに見た、と思った。
*
「どうか、もう泣かないでおくれ」
「……ええ。ごめんなさい。いけませんね、私……」
男は、彼女が涙をぬぐうのを、困ったような顔で見つめている。
「いや、いけないのは僕のほうだ。君を泣かせるつもりなんてなかったのだけれど」
女は首を横に振る。
三つ編みを垂らした、小柄な娘だった。簡素な麻の白シャツと、紺のスカート。女学生だと知れた。
「これを――」
少女はおずおずと、手にしたものを差し出した。
「せめてこれを。他に、私に、あげられるものなんてないですから」
「しかしこれはきみが大切にしていた詩集だろう?」
「いいんです。……貴方に、もっていてもらいたい。私は一緒に行くことはできないから」
「……では有難く。大切にするよ。君だと思って」
「どうか――ご無事で……」
「帰ってきたら――」
勢い込むように、青年は言った。
「結婚しよう」
青年のいでたちは、カーキ色の軍服だ。
風が吹く。
花を散らせてゆく。
遠くの空が、見る見る赤く染まっていった。
そして、耳を聾せんばかりの音を響かせて、頭上を過ぎゆく戦闘機の群れ――。
逆巻く風が、桜吹雪で、視界を奪った。
「……?」
雪彼は、はっと身を起こした。
いつのまに、眠り込んでしまったのだろう。
「蘭ちゃん――?」
きょろきょろとあたりを見回すけれど、蘭の姿は見当たらなかった。
静かだ。
遠くに聞こえてきた喧騒も、今はない。もうお花見は終わってしまったのだろうか。
「蘭ちゃん? どこか行っちゃったの?」
「……みんな、どこかへ行ってしまったの」
声にふりむくと、桜の幹にもたれて、ひとりの少女が、草のうえに座っていた。
三つ編みの女学生である。
「みんなみんな、消えてしまったわ」
「……どこへ……?」
「さあ。どこでもないところ。人はみんな、最後はそこへ行くの」
けだるげに、娘は言った。
はらはら――、はらはら――。
舞い落ちる花びらを、てのひらに受ける。
「桜の花が、どんなにきれいでも、いつか散ってしまうように……人の一生なんて、はかないものなのだわ」
「……おねえさんは」
雪彼は訊ねた。
「どこへも行かないの?」
「私は待っているの」
彼女は応えた。その横顔が、ひどくさみしそうだったので、雪彼は胸をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。
「ずっとずっと待っているの」
「……」
「でもみんな……消えてしまったわ」
遠くの空が赤く染まっている。かすかに、サイレンの音さえ聞こえて。
「でも――」
雪彼は言った。
「待ってたら、いつか来てくれるかも」
少女は、ふっと笑みをもらした。
「やさしいわね。でもいいの。……さあ、貴方はもうみんなのところに戻りなさい。こんなところにいてはだめ」
「おねえさんは?」
「私はここで、待ち続けるわ」
「じゃあ、雪彼も待つ」
「だめよ」
目を丸くして、言った。
「貴方まで、どこへも行けなくなってしまう」
「だって……雪彼が行ったら、おねえさん、ひとりぼっちになっちゃうでしょ? 雪彼、蘭ちゃんと来たんだから、欄ちゃんを待たなきゃ。それまでは、おねえさんといっしょにいてあげる」
風が、ふたりのほほをなでた。
そして、花びらが、後から後から散りはじめ……
「雪彼ちゃん?」
蘭は、はっと身を起こした。
いつのまに、眠り込んでしまったのだろう。
きょろきょろとあたりを見回すけれど、雪彼の姿は見当たらなかった。
静かだ。
遠くに聞こえてきた喧騒も、今はない。もうお花見は終わってしまったのだろうか。
「桜さん、雪彼ちゃんは?」
樹に訊ねてみるけれど、いらえはない。
「雪彼ちゃーん?」
声に出して呼んでみる。
そして桜の樹のまわりを一回り。
「……」
どこへ行ってしまったのだろう。
「これは事件かもしれないの!」
くまさんリュックから取り出したのは、虫眼鏡。七つ道具のひとつだ!
手がかりをもとめて、あちこちに虫眼鏡を向けてみる。
と、そこへ――
草を踏みわけ、丘を登ってくる人影を、蘭は見る。
「……?」
くすんだ色あいの見慣れぬ格好をした青年だった。それを復員服というのだと蘭は知らなかった。彼は松葉杖をついている。よく見れば、片足が、ない。
「君」
青年は蘭に呼びかけた。
「ここで、女の子を見なかったかい? 十七、八くらいの、小柄な娘なのだが」
蘭はかぶりを振った。
「そうか。ではまだ来ていないのだろうか。それとも……もう行ってしまったのか」
「誰かと待ち合わせなの」
「ああ。約束したんだ」
青年は、樹にもたれかかった。
「ずっと昔にね」
そして満開の枝を見上げる。
「僕たちは何度も、この樹の下で待ち合わせをした。いつも僕は遅れた。彼女は笑って待っていてくれたけれど……とうとう、愛想をつかされてしまったのかもしれないな」
浮かべた笑みは自嘲気味。
「探しにいけばいいなの」
「え?」
「待ってたら、ずっと会えないかもしれないの。会いたいひとがいたら、探しにいったほうがいいと思う」
蘭は言った。
そして、ぽかんとした表情の青年の手をとった。
「ぼくも、雪彼ちゃんを探さなきゃ。いっしょに行こうなの」
風が、ふたりのほほをなでた。
そして、花びらが、後から後から散りはじめ……
「蘭ちゃん!」
「雪彼ちゃん!」
花の雨の向こうに、ふたりはお互いの姿を見る。
走りよって、手を握り合う。
そして――
「――さん」
娘が、青年の名を呼んだ。
「待たせたね。すまない」
「……ええ。私、待っていました。ずっとずっと」
ぽろぽろと、女学生は涙をこぼす。
「戦死の報せをもらっても、ずっとずっと待ってました。毎年、桜の季節には、この樹の下に。……他の人に嫁ぐこともしませんでした。貴方を、待っていたから――」
蘭は、目をこすった。
雪彼は、蘭の手をぎゅっと握る。
ふたりは、そこに、髪の白い、老婦人の姿を見た。青年が、不自由な足で、それでも彼女に歩みより、そっとその肩にふれる。
響くサイレン。
空を飛び交う戦闘機。機銃掃射と、爆撃の音――。
「南方の密林の中でも、君のことは忘れなかった。あの詩集も、ずっと持っていたんだよ。……戦友たちが、死んだあとは、同じ梢に咲いて会おうと言ったけれど……僕は靖国の桜じゃなくて、この樹の枝に咲きたいと思った。そしたら君に、また会えるから」
風が、吹く。
時の流れという、はげしい風が。
誰も止めることのできない流れに、花が散り、すべてを覆い隠してゆく。
*
ふたりは、はっと身を起こした。
いつのまに、眠り込んでしまったのだろう。
花見の賑わいも、もうだいぶ下火のようだ。
ふたりはしばらく、無言で、ただじっとそこにいる。
「……桜さんも、待ってたなの」
蘭の言葉に、雪彼は頷いた。
「ふたりのことを、ずっと見守ってきたんだね」
応えるように、枝がざわざわとそよいだ。
「そのために、蘭ちゃんを呼んだのかな?」
「……なんだか、もう――」
桜を見上げて、蘭は言った。
「もう、さびしそうじゃないみたい」
ふたりは仲良く丘を降りる。
最後に振り返ったとき、桜の樹の下で手をふる男女の姿を見たような気がしたのは、夜桜が見せたまぼろしだったのだろうか。
(了)
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