桜の花がはらりと散る。
哀れに鳴いたヤギ達は、奉行によって制圧されたテーブルに背を向けて立ち去っていった。
白いヤギと黒いヤギとが柵の向こうで鳴いている。
足元にどこまでも続いているのは、目に眩しいほどの若草色だ。それが穏やかな風に吹かれてはたはたと揺らいでいる。昼日中であれば温かな陽光に照らされて、それはのどかな、まさに牧歌的な景観を広げていたに違いない。
が、今は夜。日はとうに西の端に沈み、筋雲のたなびく碧空に代わり、今はぽっかりと円い満月と、それを囲む数多の星の光が夜の漆黒の中を彩っている。
「見てください、鎮クン、夜刀クン。東京ではなかなかお目にかかれないような満天の星空ですよ」
和装の袖を夜風になびかせながら、侘助が嬉しそうに眦を細めた。
「ん〜、んあぁ、ほんとだよな、侘助」
返された鎮の声は、しかし、ひどく素っ気ない。
「桜も、こちらでは今が見頃なんですねえ。……薄墨の色もまた見事な」
侘助は鎮の応えに中身が無いのを気に留める事もなく、再びのんびりと呟いた。
「なあ、おまえ、侘助つったっけ。んなのどうでもいいからさ、とっとと始めようぜ」
次いで口を開けたのは夜刀だった。
侘助はようやく視線を地上へと落とし、テーブルの向かい側に座っている兄弟の顔を検める。
「……そうですね。ではそろそろ始めましょう。ああ、でもその前に。夜刀クンにお会いするのは初めてですね。……弟クンにはいつもお世話になっております」
丁寧な所作で腰を折り曲げた侘助に軽い会釈を返し、夜刀はもしゃもしゃと頭を掻きまわす。
「こいつから話は聞いてるよ。よく聞く名前だったから、なんか初めて会うっていう空気でもねえな」
「そうですね。俺も、鎮クンからお兄さん方のお話はかねがね。今度機会があったら遊びにいらしてください。歓迎します」
「ああ、うん、そうだな。まあ暇があったらだけどな。……っつか、さっさと肉焼こうぜ。腹へったよ」
「俺も俺も。はやく肉食おーぜー」
「そうですね。じゃあそろそろ準備を始めましょうか」
じたばたと身じろぎしている鎮に向けて穏やかに微笑んだ侘助に向けてうなずくと、鎮と夜刀は互いの顔を睨みつけるようにして視線を交わした。
屋外の特設会場に設置された、木製のテーブル。いくぶんか離れた場所には柵が続き、その向こうにはこちらを妬ましそうに見ている何匹ものヤギがいる。
会場のすぐ後ろにはちょうど見頃を迎え、見事な花を咲かせた桜の木々が立ち並び、見る者の目を存分に楽しませてくれている。
日本縦断 お花見・食い倒れバスツアー。
闇お好み焼きではあらゆる素材の投入されたお好み焼きを堪能し(あるいは悶絶し)、温泉で日頃たまりにたまった心身の疲れを癒した。枕投げではありえないほどに白熱したし、いっそ地の果てまで続いているのではないかと思うほどに長い行列に耐えて食したラーメンは絶品だった。それから一風変わった場所での夜桜を巡って、最後にやってきたのがツアーのとりを飾るに相応しいジンギスカン会場だったのだ。
会場のあちこちで見知った顔が同様にジンギスカンを味わっているのを横目に流しながら、鎮と夜刀はそれぞれに割り箸と皿を持ち控えながら、まさにじりじりとした面持ちを満面に浮かべてテーブルの真ん中を凝視する。
侘助が手馴れた動作で肉と野菜とを鍋の上に広げていく。
「鉄網とかじゃねぇんだな」
夜刀が独り言のように呟く。
「ジンギスカンはジンギスカン鍋で焼いて食べるものだそうですよ。アウトドアの場合には金網や鉄板を使ったりもするそうなんですが、こちらの会場では専用の鍋を用意してくれたんですねえ」
穏やかな笑みを浮かべながら肉を広げ置いていく侘助に、兄弟は揃って「へぇ」と一言だけを返す。
鎮の目も夜刀の目も、見定めているのは焼けていく肉だ。どれが一番大きくて、どれが一番早くに食べられそうか。そればかりを考えながら肉を見定めているふたりの視線には、もはや汁溜まり部分で肉と同様に焼けていく野菜の存在など、まるで映されてはいない。
――そして、だからこそ、この時、鎮は気がついてはいなかったのだ。
初見となる夜刀にとってはまだしも、鎮にとり、侘助という存在はもはや馴染みの深い友人だった。
いつだって安穏と微笑んでいる侘助が、よもやこのジンギスカン会場で、これまでは見せた事のない別の顔を見せるなどという事に、鎮はまるで予想していなかったのだ。
◇
「あ、その肉。その肉俺の!」
一番初めに並べた肉が焼けた。そこにすかさず箸を伸ばしたのは鎮だった。
「っが! おま、それ俺の狙ってた肉だぞ!」
「へっへ、バカ夜刀。一番乗りは俺だもんね〜」
歯噛みする夜刀を小ばかにしながら、鎮は侘助の顔を仰ぎ見る。
「ははは、まあ、仲良く食べましょう、ふたりとも。順番に取ってあげますから」
侘助は言いながら器用に肉をつまみあげ、鎮の皿へと肉を投じる。
「空いた場所に肉置いていこうぜ」
すかさず夜刀が肉を鍋に広げた。
「ああ、これももう大丈夫ですね。夜刀クン、どうぞ」
「うお、俺のか! あれ、これ鎮のよりもデカくね?」
「んあ? あ、ホントだ! 俺のよりデカい! 侘助ぇ〜」
「またすぐに焼けますから、ちょっと待っていてくださいね」
「あ、また空いた。ここにも肉、肉」
夜刀が再び肉を鍋に置いた。
「野菜も肉汁を吸っておいしく焼けてますよ。ああ、ほら、このキャベツなんかも」
言いながら野菜を箸でつついて示すが、兄弟はどちらも助が述べたその言には関心を示そうとしない。じりじりとしながら肉の焼けるのを待ち侘びているのだ。
「あ、なあなあ、侘助。そっちの肉ももうイケるんじゃねえ?」
鎮が示した肉に視線を落とし、侘助がにこりとうなずいた。
「そうですね。じゃあこれは鎮クンので」
「鎮、おまえはコレ食っとけよ」
横手から伸びてきた夜刀の箸が鎮の皿に投じたのは、まだ火の通りが甘いピーマンだった。
侘助の片眉がわずかに跳ねる。
「ば、これ肉じゃねえじゃん! しかもまだ固ぇし!」
鎮はピーマンを一口かじり、いかにも苦いものを食べたというような顔をして、ピーマンを再び鍋の上に放りやった。
「おま、口つけたの戻すなよ。最悪だなおまえ。……あ、それそれ、その肉ももういいんじゃね?」
夜刀は鎮の行動を横目に捉えて批難を顕わにしてみせながらも、鍋の上で焼けていく肉の姿に視線を戻す。
「焼けてるよな。これ俺の」
続けてそう言いながら箸を伸ばし肉をつまみあげた夜刀に対抗心を燃やし、鎮もまた同様に箸を伸ばして肉を物色し始めた。
「あ、じゃあこれ、この肉は俺のな。俺んとこ、くーちゃんの分ももらっとかねえとさ」
肩に愛するくーちゃんを乗せ、ほくほくとした顔で鎮が見つけたその肉は、まだ片面しか焼けていない、未完成のものだった。
「もういい感じだよな。ひっくりかえしちゃうよ〜」
言いながら肉を返そうとした。
その瞬間だった。
「鎮クン!」
侘助の声が鎮の箸の動きを遮ったのだ。
「ひえ!?」
「その肉はあと十秒ほど焼いてから返すんですよ」
「じゅ、十秒!?」
「細けぇなあ。大丈夫だって、焼いちゃえばみんなおんなじだっつうの」
ひやひやと笑いながら別の肉を返そうと箸を伸ばした夜刀だったが、侘助の目はそれもきっちりと捉えていた。
「夜刀クン、それはまだ置いたばかりですよ。あと二十秒は焼かなくてはいけません」
「大丈夫だって。食えりゃみんな一緒」
夜刀は片手をひらひらさせながら侘助の言を流し、制止を無視して目指す肉を裏返した。
「あ、なんだよ、じゃあ俺も〜。くーちゃんのはこっちの肉な」
「きゅう〜」
語尾にハートマークがついているような甘い声でうなずいたくーちゃんにデレデレしつつ、鎮もまた夜刀を倣って目的の肉と、ついでにその隣にあった肉を返す。
肉汁が汁溜まりへと流れ込む。そこに並べられていた野菜は、先ほどからひとつでさえも減ってはいない。むろん、鎮が戻したピーマンも然りで、それはもう充分に火が通った状態となっていた。
「あ、ほら、もう焼けたじゃん。うまそー」
言いながら肉を頬張り、また新たな肉を並べていく夜刀と鎮の兄弟。そのふたりを見つめる侘助の顔に浮かんでいる微笑みが、今は日頃とは異なる色を浮かべている。
「鎮、おまえ野菜も食えって。さっきのピーマンぜんぜん焼けてんじゃん」
「うわ、夜刀のバカアホ、おまえこそ野菜食え。このニンジンはだいすきなおにいさまに進呈してやるよ」
「ちょ、やめろよ。皿ん中に肉置けなくなんだろ! 野菜っつうなら、おまえの肩にいるそいつに食わせとけばいいんじゃねえ? ほら、くーちゃん、ニンジンだぞ〜」
「きゅ・きゅう!」
「ニンジン食べるくーちゃんもプリティ〜」
「あああ、これも焼けたじゃん。ひっくりかえそうぜ」
「ここにも肉置けるじゃん。肉、肉にく〜」
夜刀と鎮の兄弟は、眼前にいる侘助の面持ちが豹変している事に気付いていない。ただひたすらのんきに、時に熾烈な争いを繰り広げてみたり、時に知略を巡らせてみたりしているばかりだ。
「きゅう〜」
そう。だからそれに気がついたのは、鎮から貰った肉を頬張ってご機嫌なくーちゃんだった。
肉を頬張りつつ、何とはなしに侘助に顔を向けたくーちゃんの目に映ったのは、くーちゃんが知る侘助とはどこかが違う侘助だった。
「きゅううう!」
小さな悲鳴にも似た声をあげて鎮の背中に身を隠したくーちゃんに気付き、その時ようやく夜刀と鎮の箸が動きを止める。
「ん? どうしたん、くーちゃん」
背中に隠れてブルブルと震えているくーちゃんに気を配る鎮の横、夜刀が久々に侘助の顔に目をやって、そうして思わず箸を動かすのを止めた。
「な、なあ、鎮」
言いながら弟の袖を引く。
「んだよ。あ、肉、これももうひっくり返せそうじゃね?」
対する鎮は、未だ侘助の豹変ぶりに気がついていない。何故か箸を止めた兄の動きを幸いに、目ぼしい肉をひょいひょいと続けて裏返していった。
「……鎮クン」
その時降って来た侘助のその声音は、ひどく落ち着き払ったものだった。だからその中に異変が含まれていた事には気付かずに、鎮は続けて野菜を拾い上げて兄の皿に移動させる。
「このカボチャとタマネギとキャベツは夜刀のな。んでこの肉とこの肉とそっちの肉のは俺の皿な」
「鎮クン」
「……おい、鎮。ヤバいって」
侘助の声と夜刀の囁きとが同時に鎮の名を呼んだ。
「もう〜、なんだよさっきから」
言いながら顔を上げた鎮の目に映ったのは、満面の笑みを浮かべた侘助の顔だった。……ただし、その笑みはいつものそれとは明らかに異なる、どこかに圧力を含んだものだ。
「あ、あれ?」
その笑みがいつもと違うのを見て、鎮もまたようやく事態の異変を知った。
「鎮クン、夜刀クン」
侘助がにこりと頬を歪める。
眼鏡の奥の眼光が怪しい光彩を閃かせた。
「きみたちは野菜を食べないんですか?」
「え、や、いや、食べるよ、うん、食べる食べる。うわー、カボチャもタマネギもキャベツもすげえうまそう〜! このキャベツなんかちょっと焦げちゃって、すげえうめえ!」
「きゅ、きゅう〜!」
夜刀とくーちゃんとが先に野菜を口にする。が、鎮の皿には野菜はひとつも乗っていない。
侘助が微笑んでいる。
鎮は急ぎ、あらゆる野菜を皿に取った。その中には戻したピーマンもある。
「うーわー、このピーマン、イイ感じに焼けてる〜!」
「……鎮クン、夜刀クン」
侘助は未だ微笑んでいる。
鎮の背中でくーちゃんががくがくと震えていた。
「きみたちは肉汁のなんたるのかを考えた事はありますか?」
「はあ!?」
「ジンギスカンは強火で焼いて肉汁を中に閉じ込める。流れ出た肉汁を吸って焼けた野菜のうまみはなんとも言い難い。その双方を楽しんでこそのジンギスカンでしょう」
「に、肉汁?」
「それを、よく考えもせずに裏返して……野菜も不要なほどに焼けてしまったじゃないですか。……焦げ付かせるなど、まさに不届きな」
「ふ、不届き?」
兄弟は互いにちらりと視線を交わし、その後に再び侘助の顔を窺った。
微笑みを浮かべていた侘助は、ふたりのその視線を真っ直ぐに受けて表情を一変させると、言い聞かせるような口ぶりで口を開いた。
「いいですか。ジンギスカンというものは中国料理カオヤンローに影響を受けたと見られる日本料理で、」
「「ひィィィィィ!」」
兄弟の声が揃って夜空に消えていく。
憐れむように、ヤギが一声だけ鳴いた。
◇
「ああ、夜刀クン。その肉はもう大丈夫です。裏返してもいいですよ」
「了解しました!」
「鎮クン、そのへんの野菜はもう丁度いい頃合ですね」
「うわーお、うまそう〜」
「きゅう〜」
「ああ、しかし、このタレはなかなかですね。後で隠し味なんかを伺ってくるとしましょうか。そうしたら今度は四つ辻でもジンギスカンが出来ますからね」
「四つ辻でもジンギスカンか〜」
「楽しみでしょう、鎮クン。ハハハ」
「は は は は は は」
「夜刀クンもぜひいらしてくださいね。夜刀クンもなかなか肉好きのようですし」
「は は は は は は」
桜の花がはらりと散る。
哀れに鳴いたヤギ達は、奉行によって制圧されたテーブルに背を向けて立ち去っていった。
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