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<東京怪談ノベル(シングル)>


笑みをあなたに

「行って来るよ」
(駄目よ、笑わないと)
 そんな思いとは裏腹な、自分の表情。目を伏せ、今にも涙が溢れそうだ。
「どうしたんだい?」
(駄目。絶対に、笑って見送らないと)
 相手が望んでいるのは、今の自分の表情ではない。安心して行って貰うべき顔の筈だ。
「……行って来るよ。早めに帰るから」
(あっ……)
 ぐっと涙をこらえ、顔をあげる。いつもの、穏やかな笑みを浮かべたまま自分を心配そうに見つめている。
「い、行ってらっしゃい」
 やっとそれだけ言う。結局、最後まで口に出来たのはそれだけで、最後まで笑みを携える事は無かった。

「……全く、もう」
 エリューラ・焔龍(えりゅーら ふぉろん)はそれだけ言って口を尖らせた。左右で微妙に違う色の赤い目は、うっすらと涙を携えたままだ。
「どうして、笑えなかったかなぁ」
 エリューラはポケットに入れている鏡を取り出し、にっこりと笑って見せた。そう、今ならば笑えるのに。
「出張、か」
 エリューラの大事な旦那様、5歳年上の旦那様。今日から出張に行かなければならないと寂しそうに言っていた。エリューラは軽いショックを受けた。寂しさから、いつもとは違う風景を見てしまうことから。
「ああ、もう!」
 突如そう叫び、エリューラはすっくと立ち上がる。いつまでも未練がましく座っていても仕方が無い。出張は永遠のものではないし、明日には夫も帰ってくるのだ。そう考え直してその場を後にする。彼女が座り込んでいたのは、夫が出ていった玄関先であった。
「こうなったら、隅々まで掃除してやるんだから!」
 赤い髪が、ざわりと揺れた。「おっと」とエリューラは呟いて苦笑する。
「勢いづいて、燃やさないようにしないとね」
 発火能力とは、火事の危険と隣り合わせである。

 エリューラはリビングにごろんと寝転んだ。辺りを見回しても、汚れの目立つ所は無い。全てが綺麗に磨かれ、輝いてまでいるようだ。
「……少し、気合を入れすぎたかしら?」
 小さく息切れをしながら、エリューラは微笑んだ。
『ほら、すぐに君はむきになるんだから』
(まただわ)
 目を閉じれば、ふと気付けば、夫の声が頭に響く。
『リビングになんて、寝転ぶもんじゃないよ?』
 やんわりと彼が言っているようだった。
「何よ、今いないんだからいいじゃない」
 ぶう、と頬を膨らませてエリューラは想像上の夫に口答えする。
『ほら、そういう所が可愛いんだから』
「どうせ、私は実際年齢より若く見られるわよ」
 エリューラは19歳である。だが、実際はもっと年若く見られる。彼女自身の持つ若々しさか、それとも気持ちの問題か。いずれにしろ、夫と5歳の年の差を持つということを考えれば、それは克服すべきものであった。勿論、夫はそのままで充分なのだと諭すのだけれども。
「会いたいなぁ」
 ぽつりエリューラは呟く。平日の昼間、夫が家にいない事は当然の事だ。今とさして変わりの無い状況だ。だが、いつもならば彼は帰宅するのに、今日は家に帰ってこない。それだけで、妙に寂しい気持ちになってしまう。不思議だ、と妙に冷静な自分もそこに存在している。
「会いたいわぁ」
 しみじみと、エリューラは口にする。それから突如くすくすと笑い始める。自分の中にあるこの感情は、彼と出会い、彼と結婚したから生まれたものだ。それが妙に嬉しくて、妙に可笑しくて。つい笑ってしまったのだ。
「あっ」
 エリューラはふと時計を見て起き上がる。時計はいつの間にか4時を指していた。
「いけない、お夕飯の支度しないと!」
 慌てて立ち上がり、エプロンをつけたところでエリューラははっと気付く。今日の夕食は一人なのだと。途端、料理をしようとする意欲が失せてくる。
「どうしよう……一人だしなぁ」
 一瞬、ピザでも頼もうかと考える。が、すぐに考え直してエプロンをもう一度きゅっと結びなおす。
「こうなったら、うんと凄い料理を作ってやるわ!帰ってきたとき、料理名人になって驚かせるんだから」
 うん、と大きく頷いてエリューラは料理に取り掛かる。彼女は気付いていない。一日で名人になれる筈が無い事を。

 7時。3時間もかけて完成した料理たちは、エリューラの想像以上に上手く作る事が出来た。エリューラは「うんうん」と嬉しそうに頷く。
「これなら、きっと喜んでもらえる筈よね」
 エリューラはお皿に料理をよそいながら、そう呟く。そしてふと気付く。いつものように二枚お皿を出していた自分に。溜息をつきながら、お皿を一枚しまう。今日は必要のないものだから。
「いやあね。……寂しいじゃない」
 苦笑し、エリューラは料理を口に運ぶ。美味しい料理だったが、あまり味は感じられなかった。いつもならば、二人で食べている食事なのだから。
「作りすぎちゃったわね」
 エリューラは鍋や皿を覗き込み、小さく笑った。到底一人で食べられる量ではなかった。タッパーやラップに保存しながら「ふふ」と笑う。
「明日、食べてもらおう」
 きっと、驚く筈だ。こんなにも作ったのかと。それから、微笑むだろう。よく頑張ったね、と。
「ここは、労いのお言葉を頂かないとね」
 エリューラはそう呟きながら食器を洗う。
(いつもなら、今日は何があったかを一杯聞かせてくれる瞬間なのに)
 ザー、と流れる水の音に紛れ、夫が話してくれる。聞こえなかった所は、途中で聞き返しながら。
『……なんだよ』
「えっ?」
 エリューラはぎゅっと水道の栓を閉じて振り向く。勿論、そこに夫の姿は無い。また一つ、溜息。
「嫌だわ。幻聴まで聞こえてくるようじゃ、駄目ね」
(会いた過ぎて)
 再び皿洗いを始め、エリューラは苦笑する。今日一日、一人しかいないと思ったらどうもいつもの調子が出ない。この水道の音でさえも、もの寂しげに感じるようだ。
(そう、水道……水道?)
 エリューラははっと気付く。洗い物をする前に、お風呂の湯を張り始めていた事に。
「ああ!溢れてるかしら?ねえ、見てきて……!」
 思わず口にし、あっと口を閉じる。いないのだ。見に来てくれる夫は、今日はいないのだ。いつもならば「君と言う人は……」と苦笑しながらも風呂の湯を見に行ってくれる、「一緒に入ろうか?」等と言ってくれる夫は今日いないのだ。
「寂しいなぁ」
 エリューラはそう呟き、風呂の湯を止めに行く。もの悲しさは、風呂に入っても消えなかった。

 布団に入り、部屋の明かりを早々に消す。二人だと丁度いいサイズの布団も、今日は一人だけ。別に端に寄る必要も無いのに、真中にいけないのは癖だろうか。
「広いわね」
 二人用の布団に、一人だけ。何て贅沢な、と思いつつも寂しい気持ちは消せない。ごろんと横になると、見えていた人が今日はいない。
(いつもなら、二人で寝るのに)
 妙に広い布団。一人だと、果てしない草原かとも思われるような、広さ。家の中の一つ一つが、今日は一人なのだと思わせるかのようだ。広い布団、広い部屋、広い家。エリューラの目に、じんわりと涙が浮かんできた。
 ピルルル、と突如電話が鳴る。エリューラは目に浮かんでいた涙をぎゅっと拭い、慌てて飛びつくように電話に出る。
「もしもし、まだ起きてた?」
 夫からだった。エリューラの顔が一気に綻んだ。あまりに嬉しすぎて、声が一瞬出ないほど。長い長い間、会っていなかったかのようだ。
「もしもし?」
 返事をしないエリューラを心配しているような夫の声がし、エリューラは慌てて「もしもし」と答える。小さく震えていたかもしれない。だが、エリューラは自身全く気付かない。
「寝てたの。もう、寝てたんだからね」
 エリューラは、そう言って笑った。受話器越しに「ごめんごめん」と言う声が聞こえる。
(嘘。本当は、眠れなかったんだから)
「今日、一人で寂しかった?」
「うーん……ちょっぴり」
(嘘。本当は、凄く寂しいんだから)
 愛しそうに受話器を握り締めながら、心の中で呟く。
「明日は早く帰るよ」
「約束ね」
「うん。約束」
 受話器をおき、エリューラは微笑んだ。明日は「お帰りなさい」を連発してやろうと心に密かに決める。勿論、笑顔を携えて。

<夫の帰りを心待ちにしつつ・了>