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瑠璃色の過去と琥珀色の今
誰も知らない廃墟の路地に、小さな影がうずくまっていた。
素足で、傷だらけで、ボロボロの布切れをただ身体に巻きつけただけの子供……
全体的にかなり薄汚れた印象だったが、琥珀色の瞳だけが、透き通った輝きを秘めて、美しさを放っている。
その瞳が向いた先には、何かの塊が横たわっていた。
白い毛並みの、犬だ。
ただし、その身体は四肢をただ冷たい地面の上に伸ばし、ピクリとも動かない。
腹のあたりには開いたざくろのような傷があり、赤黒い肉が覗いていた。
既に血は流れなくなって久しいのか、全て固まっており、傷口の周囲と、流れ出した地面の上にべっとりとこびりついている。
周りに飛び交う、無数の蝿。色濃い死臭……
犬は……やはり死んでからもう随分と経つようだ。
その姿を、じっと子供が見つめている。
綺麗で、そして空ろな瞳だった。
膝を抱えて座った体が、ほとんど動いていない。
時々思い出したようにまばたきをするだけで、それがなかったら、その子もまた死んでいると、誰もが思ったろう。
しかし、それはある意味、正しかった。
その子供は今、半分死んでいたのだ。
目の前で冷たい屍を晒している犬は、その子の親であり、全てだった。
彼は自分の本当の親を知らない。
いつ、どこで生まれたのかも、知らない。
破壊しつくされた廃墟の中に、ある日ぽつんと置かれた乳飲み子。それが、この子供だ。
そんな彼に近づき、育ててくれたのが、この野良犬だったのである。
子供と犬は、共に駆け回り、吼え、遊び、同じ物を食べ、同じ物を見てきた。
まだ物心もつかない子供にとっては、それが全てであり、世界だった。
そしてある日……それらの一切が、壊れてしまった。
近くで巻き起こった小規模の戦闘。その流れ弾が、あっけなく犬の命を奪ったのだ。
時代は、いつ果てるとも知れない戦火が世界中を覆い尽くした、暗黒の世である。
生と死は、常にありとあらゆるものの側にあった。
その片方が、彼らの下にも、静かに訪れたのだ。
が、子供には、そんな理屈など理解できない。
ある日突然動かなくなった、とても大事なもの。なくてはならないもの。
死を目にして、子供の心もまた、半分が死んだ。
大好きで、温かかったその身体を引きずってここに運び、それからただじっと見つめている。
穢れのない琥珀色の瞳が、目の前の死を、見つめている……
……そうして、一体どれだけの時間が過ぎたろう……
暗い路地に、ひとつの足音が響いた。
「こんにちわ」
柔らかい微笑みと共に現れたのは、1人の女性だ。
「……」
子供は、何もこたえない。そちらを見ようともしない。
「こんな所で、何をしているの?」
それでも、彼女は気にした風もなく、話しかけた。
「こちらのワンちゃんは、あなたにとって、よほど大事なお友達だったみたいね。でも、彼はもういないの。それをわからないと、あなたまでこの世からいなくなってしまうわよ」
「……」
子供の反応は、やはり何もない。表情も、身体の動きも、何も……
「……綺麗な瞳ね」
女性が、子供の前にしゃがみこみ、顔を覗き込んだ。
「その瞳で、もっと多くの事をご覧なさい。あなたの目は、そのためにあるのよ。決して目の前の死を見つめるためだけにあるのではないわ」
「……」
子供の顔が、初めて上がった。
ただし、それは彼女の言葉が届いたからではない。
とても大切な屍が、彼女の影になって見えなくなったからだった。
「……グルルルル」
喉を鳴らし、牙を剥く子供。
その顔を、優しげな微笑が真正面から受け止める。
「苦労をしたようね……可愛そうに。いいわ。私と一緒にいらっしゃい。大した事はできないけれど、とりあえず、1人よりはマシだから……ね」
そう言いいつつ、小さな身体をそっと抱きしめた。
「……っ!?」
ビクッと、子供の身体が震える。
「大丈夫。恐がらないで……」
あくまでも優しい声の女性。
そして、その美しい声が、何かのメロディを紡ぎはじめた。
ごく普通の、どこにでもある子守唄……
子供にとっては、初めて耳にする種類の”音”だった。
聞いていると、なんだか懐かしいような、誰かがどこかで同じような事をしてくれたような……そんな不思議な思いが胸に浮かんでくる。
それと同時に、女性から感じる温かな体温と、甘く切ないような香り……
「……う……」
何か、とても熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
そして、ポロポロと、目から雫がこぼれ始める。
初めて流す、涙だった。
彼には、これが何なのか、なんでこんなものが出るのかすらも理解できない。
恐れと、戸惑いと、そしてなんだか分からないが、津波のように強烈な感情が押し寄せてきて、心をかき回していく。
「……悲しい時は、泣けばいいの。思いっきり、泣きなさい」
人の言葉さえ分からなかったが、なんとなく意思は通じた。
「う、ううううう……うああああああーーーっ!!」
声を上げて、子供が泣き始める。
彼女は彼が疲れて眠ってしまうまで、ずっと身体を抱いたままでいた。
子供は、この時ようやく、人間としてこの世に誕生したのかもしれない。
彼の胸には、由来も知らない瑠璃石の首飾りが、蒼い輝きを放っていた……
それは、まだその子に、名前もなかった頃の話である。
「こんちくしょー! これでも食らいやがれーーーっ!!」
「ば、馬鹿野郎! まだ早い! 落ち着け!!」
仲間の静止する声にも耳を貸さず、カムフラージュした茂みの中から飛び出すと、手にしたアンカー銃を空へと向けてぶっ放す男。
茶色い髪を後ろで束ねたその顔は、まだ若い。少年と言ってもいいだろう。
丸い琥珀色の瞳が捕えているのは、夜空に浮かぶ全長20メートル程の飛行船だった。現在は約30メートル上空をゆっくりと飛行している。
破裂音と共にガス圧によって飛び出したアンカーが、そのゴンドラ部分に見事に突き刺さり、引っかかった。
「ほれみろ! 充分いけるじゃねえか!」
「射程ギリギリだろうが!! いばんじゃねえ!!」
仲間が歯を剥いて男を睨みつけたが、すぐに背後に振り返り、
「おい! ライトだ! それとウインチをすぐに動かせ! 急げよ!!」
荒々しく、命じる。
それを聞いて、残りの仲間が一斉に茂みから飛び出し、ただちに準備を開始した。
夜の闇をサーチライトが切り裂き、飛行船全体を浮かび上がらせる。打ち込んだアンカーから伸びるワイヤーはただちにウインチに繋げられ、巻き取られ始めた。それにより、ぐんぐんと巨体が地上へと引きずり下ろされてくる。
乗っているのは、最近このあたりの村を襲っている野党だ。
小生意気にも飛行船を駆り、夜陰に乗じて村を襲っては去っていくという奴らだった。
戦時のドサクサとはいえ、許される連中ではないだろう。
そこで、被害のあった村々が人を集め、野党撃滅のためのチームが結成されたというわけである。
とりあえず待ち伏せての奇襲はうまく行ったが……問題はこれからだ。
……まずは飛び道具で威嚇して、投降を呼びかけてみるか。
と、リーダー各の男はプランを立てていたのだが……
「おい、あの若いのはどうした?」
ふと、さっきの男の姿が見えないのが気になり、手近な仲間に問いかける。
「さあ、なんかさっき、あっちの方にえらい勢いで走っていきましたが……あ、あんな所に!」
「な……お、おいこら! てめえ何やってやがる!!」
問題の若い男は、猿並みの器用さでもって、木にするすると登っているまっ最中だ。
しかも、その木はどうみても飛行船に一番近い木で……何をするつもりなのかは一目瞭然だろう。
「へっ、チンタラ待ってなんかいられっかよ! 見てろよ、俺が乗り込んで、全員叩き落してやらあ!」
「てっ、てめえ! 勝手な事ばっかすんじゃねえ! チームワークってもんをわきまえろ!」
「そんな難しい言葉なんか知らねえよ! いくぜ! うりゃーーー!!」
声と共に、一気に飛行船へと飛びかかっていく。
空中で彼の手には、光り輝く長い斧槍が出現していた。
彼は自らの意思で自在に物質を生成し、操る事ができる能力を持ったエスパーなのである。
その武器は、鋼鉄の装甲でガードされた飛行船のゴンドラをあっさりと切り裂き、大穴を開けた。
「おらおら! どっからでもかかって来い悪党共!!」
そこから、まっすぐに男が中へと身を踊りこませる。
ややあって、悲鳴と怒号が渦巻き、片っ端から外へと凶悪な顔をした男達が放り出されてきた。
「……やってくれるぜ……まったくよ……」
思わず、顔を手で覆ってしまうリーダーであった。
──30分後。
「うぅん……腹減った……」
なんて寝言をほざく若者を乗せたトラックが、夜道を走っていた。
後ろの荷台には、気を失った野党達をまとめて拘束して満載してある。
あとは事の顛末を依頼主である村に報告し、悪人共を軍に引き渡せばこの仕事もおしまいだ。
「……しかしまあ、とんでもねえ野郎だな……」
ハンドルを握りながら、隣で寝ている男を横目で見るリーダー。
こうして見ると、寝顔にはまだ幼さが残っているが……腕は一流だ。それは実際に見せてもらったから間違いない。
そして、やる事はムチャクチャだが、どこか憎めない奴でもある。
「できればまたどこかで組めりゃあ面白いとは思うが……大変そうだな。やっぱ言わねえでおくか。ははは」
と、苦笑する。
聞こえているのかいないのか、小さくクシャミをした若者の胸には、瑠璃石のペンダントが光っていた。
琥珀色の瞳を持つ、凄腕のエスパー。
彼の名は、瑯琥珀(ろう・こはく)といった。
■ END ■
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