PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<東京怪談ノベル(シングル)>


黄昏を染める色

 扉を開けると一面のオレンジ色が少年を出迎えた。西に浮かぶ夕日が海に反射してきらきらと輝いている。海に臨むこの宿は、眺望のいいことで有名だった。数メートル先は崖になっているため、しっかりとした柵が設置してある。少年は構わずその柵に向かって歩いていった。生暖かい風が少年の黒髪を躍らせる。真紅の瞳を細めてその風を正面から受けていた。
 軽く上半身を動かして、準備運動をし、2メートルはあると思われる柵を、軽々と越えて反対側に飛び降りる。数歩進んでから砂っぽい崖に腰掛けた。ここからだと視界をさえぎるものは無い。寝起きに部屋の窓から見たときよりも、ずっと大きな夕日が、少年を包み込んでいた。
 風道・朱理という名の殺人鬼。そう呼ばれるようになって久しい。彼の周りには常に死がまとわりついていたし、それが既に当たり前だと思ってきた。いつからだったかなど、考えたこともなかったというのに。心の片隅に住み着く幼い記憶が、疲れた体に夢を見せた。懐かしく、そして忌々しい夢を。

 まだ幼い朱理が半分ほど開いた部屋の扉の影に、隠れるようにうずくまる。窓の近くは夕日で燃えるような光を反射していたが、その反対側に位置する扉の付近は薄暗く、冷えきっていた。
「邪魔だっ。どけよ!」
 怒鳴り散らす男の声と、床に叩きつける木の音。朱理ははじかれたように音の方を振り返った。夕日を背にして立つ男の顔は、逆光になっていてよく分からない。しかしその右手に握られた木の棒と、怒声、そしてのしかかってくるような大きな体が、朱理の憎むものであることを伝える。記憶の片隅に追いやろうとしてきた父の姿。
 朱理は体をこわばらせる。ほんの数秒のことなのだろうが、身構える朱理にとって、それはとても長い時間に思えた。舌打ちする音が聞こえて、木の棒が軽い音を立てて床を転がる。
「片付けておけ」
 苛々とした口調で朱理に言葉を投げつける。わざわざ床を踏み鳴らして部屋を去る父親を、心だけでなく、毎日傷つけられ続けた体が、苦しいほど憎んでいた。憎いけれどどうにもできなかった。そんな自分がどうしようもなく情けなかった。

 だから求めた。
 自分を救うことのできる力を。
 状況を変えることのできる力を。

「所詮、人とは弱いものだ」
 聞き覚えのない声に、驚いて首をめぐらせる。父親の立ち去ったこの部屋に、自分以外の気配など感じなかったというのに。
「弱きもの、ゆえに更に弱きものを求める」
 不快感のない、頭に響き渡る声。男性の声だと思うのだが、確信はない。窓の方へ這うようにして近寄ると、振り返って声の主を探す。何かあればすぐに逃げられるように、中腰のまま身構える。
 朱理の隠れていた扉から、黒に近い灰色のコートを身にまとった男が、音もなく姿を現した。フードを被っていて目などは見えないが、唯一覗く血のように真っ赤な唇が、男を不気味なものとして印象付ける。
「弱きものは生きる支えのために、自分よりも弱きものを求める。そうとは思わないかね」
 朱理は何も答えることができず、吸い込まれるように男のその真紅の唇を見つめていた。
「……お前の心の不協和音を取り除きに来た。我が耳に聞こえるは、逃げる心と迎えうつ心の不協和音。どちらか一つ選ぶがいい」
 男は、金縛りにあったかのように動けなくなっている朱理に、一歩ずつ近づいてくる。
「このまま虐げられるだけの『弱者』と、自ら相手の生死を握る『強者』と」
 男は朱理の目の前までやってくると、視線を合わせるかのように朱理の前にしゃがみ、皮の鞘に入ったナイフをその目の前に差し出した。ナイフをよけようとして、朱理はしりもちをついた。
「選ぶがいい。どちらになるか」
 パチンと左手で鞘のホックを弾いて、ゆっくりとナイフを抜いた。夕日を反射してナイフがオレンジ色に輝いている。男の言葉に突き動かされるかのように、朱理はナイフに手を伸ばしていた。
「承知した。お前の望み、叶えよう」
 男は言って鞘を懐にしまいながら、反対の手で朱理にナイフを握らせる。まだ幼い朱理には握るのもやっとの大きさだ。
「お前の名前は、風道・朱理。これからそう名乗るがよい」
 手を朱理の額にかざす。
「お前の心の音、一つの音だけのみ響くだろう。それがお前そのものとなり、お前の心を満たすだろう」
 不思議と男を怖いとは思わなかった。かざされた手からは、自分の心を軽くするような、そんな暖かさすら感じていた。
「その音は人の命。生きたいと思う力。求める心。その強い音が、お前の心に響くだろう」
 真紅の唇はにやりと笑う。
「それはお前と同じものを望む心。『強者』たることを望む心。お前はそれを奪う者となる」
 心臓が脈打つのが聞こえた。男の笑みに魅入られて、心まで奪われてしまったような、そんな感覚が残る。
 男はかざしていた手をゆっくりと戻した。朱理の様子をしばらく観察していたかと思うと、そこから立ち上がる。このまま逃がしてしまってはいけない。そう思った。
「……あ……あなたは……」
 左手にナイフの柄を握り締めて、朱理はやっとの思いでかすれた声を発した。
「なんだ?」
「あ……あなたは誰……?」
 乾いた喉を潤すものはなく、乾燥した声で男に問いかける。
「我は力を求める『強者』を見守り、『支配』するもの」
 男は言って背を向けた。朱理は目で追っていた。男は口元に笑みを浮かべたまま、少しだけ振り返る。
「また、会うこともあろう」
 余韻のように残して、男は振り返ることなく暗がりの中に溶けていく。立ち去ったようには到底思えなかった。音もなく、そしてどこへともなく消える。朱理は慌てて立ち上がった。消えた男を追って扉を開ける。廊下の少し先に、黒っぽいコートが見えた。まだ男はこの家にいたんだ。
 ……と、突然、男を刺したいという衝動に駆られて、左手に握っていたナイフを両手に握りなおした。
「ぐぁっ!」
 両手に伝わる鈍い感覚。苦しげな父親の声。朱理はごくっとつばを飲み込んだ。
「ようやく吹っ切れたか」
 耳元で男の声がした。甘ったるい、魅惑的な声。

 初めて人を刺した。
 引き抜いたナイフの先から鮮血が飛び散っていく。今まで感じたことのない胸の高まり。
 これが男の言った『音』だというのだろうか。

 朱理は腰の辺りをあさると、愛用のナイフをとりだした。夕日にかざしてオレンジ色の光を反射させる。既に半分くらいを海に沈めた夕日は、よりいっそうオレンジ色を濃くしていた。まるで消え行くのを拒むかのように。
 あの男は、自分を救ってくれた親切な男だったのではなく、人の死を喜ぶ、死神だったのではないか。そんな気がしてナイフに視線を動かす。あの時両手で握ったナイフは、今では丁度いい大きさになっていた。あの男は、本当に存在するのだろうか。音も無く現れ、音も無く消えた男。黒っぽい服と、真紅の唇だけ記憶に残っている。
「あなたは誰なのですか」
 生ぬるい風の中に問いかける。
「我は『支配』するもの」
 声が聞こえたような気がして、手の力だけで崖から飛び上がると、体を反転させてナイフを片手に身構える。しかしそこには誰もおらず、ただ無機質な柵が朱理の前にそびえていた。自嘲気味に笑ってナイフをしまう。もう一度夕日の方を振り返った。丁度夕日が水平線に吸い込まれていくところだった。
 その瞬間はあっけない。けれど深く紅く瞳を燃やす。
 強い風が吹き付ける。朱理はゆっくりと瞳を閉じた。夢に幕を下ろすように。