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<東京怪談ノベル(シングル)>


過去の光に背を向けて
●路地裏の出来事
 今宵は満月――月が地上を静かに照らしていた。いや、地上だけではない。空に浮かぶ白き『環』をも照らしている。あの『審判の日』以降、変貌した地上を見下ろしている『環』も。
 月明かりは、それが何であれ等しく照らす。けれども照らされた物は、必ず影を生じる。それは地上における、華やかな表通りと路地裏の関係にも似た物。
 その路地裏を、1人の少女が歩いていた。茶色の髪に緑の瞳、そして小麦色の肌を持った小柄な少女だ。
 けれども普通の少女であれば、よっぽどのことがなければ路地裏など通ることもない。路地裏の多くはスラムで、常に危険と隣り合わせであることは知られているのだから。
 となると、この少女はよっぽどのことがあるのか……あるいは、普通の少女ではないのかのどちらかだ。この少女――マリオン・ミラーの場合は後者であった。
 『路地裏の女子学生』、そう言えばこの辺りのスラムではマリオンは少し知られた存在であった。よくも悪くも、色々な意味でだが。
 知られている理由として一番大きな物は、人とつるむことがないということだろう。要は一匹狼だということだ。
 これはある意味、一目置かれたりもするが、その反面で敵を作ってしまうことにもなりかねない。そこを仕切っている連中にしてみれば、目障りで仕方ないのだから。
 事実マリオンは、そんな性格から多くの敵を作っていた。血を見るような事態も、1度や2度どころの騒ぎではない。
 路地裏をまっすぐに歩き続けるマリオン。すると、だ。物陰から数人の人影が現れ、マリオンの行く手を阻んだ。見覚えのあるチンピラどもだ。
 マリオンの背後でも気配がした。振り返らずとも分かる。ご丁寧に退路をも断ってくれたらしい、このチンピラどもは。
 チンピラどもは、ニタニタと卑しい笑みを浮かべてマリオンのことを見ている。そして、リーダー格らしき男がマリオンに話しかけてきた。

●甘い言葉、苦い回答
「なあ……どうだ? この間の話、もう1度考えてくれないか?」
「くどいよ」
 男の言葉に、マリオンは吐き捨てるように言った。
「そんなつれないこと言うなって。うちのボスだって、お前さんのことは注目してんだ」
 などと言って、マリオンの身体をじっと見る男。手下でこれじゃあ、ボスだってどういう意味合いで注目してるんだか、分かったもんじゃない。
「な、悪いこたぁ言わない。俺たちに逆らっても、一銭の得にもなりゃしないぜ。仲間になりゃ、お前さんだっていい目見れるんだからよ。ボスは別に、愛人でもいいって言ってるぜ? ま、その方がよっぽどいい目見れると思うけどな」
 男がそう言うと、チンピラどもは一斉に笑い出した。卑しい含み笑いだ。恐らくボスの本音としては後者の方が大きいのかもしれない。
「愛人にも仲間にもなりはしないよ、囲われるのは真っ平御免」
 マリオンは髪を掻き揚げ、きっぱりと言い放った。どちらもマリオンの性には合いはしない。ましてや、こんな奴らとではなおさらだ。
「……ほう。断るってかい」
 男の表情が厳しくなった。マリオンは何も答えない、無言だ。
「てめぇ……下手に出てりゃいい気になりやがって。1人で粋がってても、何一ついいこたぁねえぞ。何ならその顔、ずたずたに切り裂いてやってもいいんだぜ」
 低い声で脅しにかかる男。けれどもマリオンは毅然としたものだった。
「はっ! 大勢とつるまなきゃ、女1人と話も出来やしない腰抜けどもと比べてほしくないね」
 臆することなく、マリオンは男に言った。さすがにこの物言いには、男も頭にきたようだ。男は仲間たちに命令した。
「おい……やっちまえ! このアマの身体に、しっかりと教えてやれ!!」
「腰抜けども! ナイフの錆になりたきゃ、かかってきな!」
 男が命令を下すのとほぼ同時に、マリオンはポケットからナイフを抜き放っていた。チンピラどももナイフを抜き、一斉にマリオンへと襲いかかる。
 その時、空の月に雲がかかり、路地裏を照らしていた月明かりを遮った。

●変わる物、変わらぬ物
 それはほんの僅かな時間だったろうか。月にかかっていた雲が晴れ、再び優しい光がスラムに注がれた時にはもう全てが終わっていた。
「う……うう……」
「つぅ……ぐ……」
 8割方のチンピラが、腕やら脇腹やらを押さえて路地裏にうずくまっていた。その中心では、マリオンが肩で息をしながら立ち尽くしていた。手に、赤黒い液体のついたナイフを持って。
「……まだやるかい」
 マリオンは顔面蒼白な男を睨み付け、静かに言った。
「ひ……引け! 退却だ!!」
 男がそう命令すると、無事だったチンピラたちが傷付いた仲間を抱え、慌ててその場を逃げ出していった。
 マリオンは逃げるチンピラどもを見送りながら、小さく溜息を吐いた。途端に、軽い痛みがマリオンを襲った。
 さすがに多数相手では、こちらも全くの無傷という訳にはいかない。両腕に数カ所、軽く切り付けられている。いずれもかすり傷程度なのが幸いか。
 マリオンはすっと顔を上げ、頭上の満月を見付けた。
(月だけはあの頃と変わらないね)
 ふと感傷的な想いに囚われるマリオン。そう、月だけは逃げ出した家に居た頃と変わりない。ただ甘やかされ、管理されるだけだった家……。
 マリオンは、手に握り締めたナイフに視線を向けた。ナイフについた赤黒い血が、感傷に囚われていたマリオンを一気に現実に引き戻す。
(いや……自分の力で生きていくんだ)
 マリオンはゆっくりと頭を振った。そして、布を取り出して血を丁寧に拭き取り、ナイフをポケットに仕舞った。
 再び路地裏を歩き出すマリオン。その姿がやがてスラムの闇に紛れ、消えてゆく。
 月光を背にして――。

【END】