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人の赤、覆う黒
体を叩きつける雨が、上から押し付けるように少年の身に降り注ぐ。重たく冷たく、辺りの景色に白い斜線を描き続けている。
朝から降り続く雨は、砕かれたコンクリートの切り口をどす黒く染め、景色に暗い影を落としている。水分が服に染み込み、少年の体を重くする。しかし彼はそれには構わないのか、ゆっくりとしたものではあったが、変わらぬテンポで歩いていた。少年の頬を、溜まった雨が大きな粒となって流れた。体温を奪われ、血の気を失った頬の白がその粒の中に反射している。
日が落ちて、どれくらいが経っただろう。あの重たい雲の向こうには、月が昇っているくらいだろうか。しかし今、少年の姿を照らす光は何一つなかった。漆黒の髪も、白い肌も、全て雨の中に薄れる。唯一、鋭く赤い光を宿した瞳が前方を見据える。その瞳は目的地など映しておらず、ただ障害物を確認するためだけに前方へと向けられている。
「あの人、邪魔でしたね……。今日は面白くなかった……」
白い息を漏らす。少年の名は風道・朱理。殺人を生業とし、人を拒絶して生きてきた。人と交わり、助け合ったりすることを拒絶し、他人とは明確な一線をおいてきた。
不意に足を止めると、朱理は空を仰いだ。月も星も見ることはできなかった。ただそこにあるのは重たく垂れる雨雲と、そこから落ちてくる雨だけだった。雨が目に入りかけ、反射的に目を閉じて顔を背けた。
人殺し。
言われ続け、慣れてしまった。
殺人鬼であることに慣れてしまった。そこに感じるものは何もない。
だから今日だって女に殺人鬼と呼ばれても、何も感じられなかった。ただ、走りこんできた女に邪魔をされたという思いが蘇ってくる。
血に濡れた男の身体を抱きかかえ、泥に足をうずめながら髪の長い女が朱理を睨み上げていた。
「人殺しっ!」
鋭く叫ぶような声が朱理の耳に届く。だからなんだというのだろう。朱理はそんな気持で女を見下ろしていた。
朱理にとって、この女は計算外の存在だった。いつものようにナイフに人の血を味あわせていたとき、頭に響く悲鳴が背後から聞こえた。目の前で血を流す男に走りより、彼を抱き上げた女の映像は、録画されたものを見ているかのように、現実味のない遠い物でしかなかった。
余韻を味わっていた朱理は、興ざめな甲高い女の責める声に無理やり現実に引き戻された。おかげで先ほどから、充実できない中途半端な気持が朱理の身体にうずいている。
「何とか言ったらどうなのっ! この人殺し!」
「何を言うというのです? 私に何を求めるのですか?」
冷めた口調で朱理が答える。女は目つきを鋭くして唇を噛み締めた。
「許さないっ! 私は絶対許さないわよっ!」
絞り出したような声が、感情のためか裏返る。頭に響くような声に、朱理は迷惑そうに右目を細めた。全く興ざめだ。朱理の心にはそんな気持しか芽生えない。
「――謝ったらどうなの? でも謝ったところで許しはしないわ。あんたが謝ったところでこの人が帰ってくるわけじゃない、そんなのは分かっているけど……」
女は視線を落とした。その肩が震えている。朱理はそんな女に物を見るかのような視線を注ぐ。
「殺してやりたい。……あんたを殺してやりたいっ」
抱きかかえた男をそっと地面に降ろすと、鈍い赤に染まった細かく震える両手を、確認するかのようにゆっくりと握り締めていく。
「殺してやる……。あんたを殺してやるっ!」
悲鳴に似た声をあげたかと思うと、よろよろとおぼつかない足で泥を踏みしめ、立ち上がった。武器らしい武器も持たず、女は朱理のほうへ体当たりしてくる。朱理は女の慣れない動きを読んでいたかのように、ほんの少しの動きだけで避けた。女は朱理の横を通り過ぎて、バランスを崩しながらもどうにか立ち止まった。
「それこそ無意味ではないのですか? それにあなたに私を殺すことなんて、無理ですよ」
やんわりとした朱理の言葉が、逆に女の感情を刺激したらしい。振り返った女は怒りに目を吊り上げ朱理を睨み付けた。そして再び朱理に向かって飛び掛ろうとする。しかしやはり朱理は苦もなく避ける。
「だけどっ。帰ってこないのだって分かっているわ。あなたを殺しても意味がないことくらい分かっているわよっ!」
何度目かの突進の後、女は急に力を失って朱理に背を向けたまま場に座り込んだ。泥が飛び散ってスカートや髪に絡まっている。天から注ぐ雨が髪に付いた泥を流してスカートにしみを作っていった。そのまましばらく座り込み、じっと地面を見つめていた。
「――ねぇ、じゃあ私を殺して……。せめてあの人の許にいさせて……」
不意に開いた女の口から、かすれた声が漏れる。それは女にとって大きな決心だったのだろう。
「今日は気が乗りません。そのうち、気が向いたら」
朱理は血に濡れたナイフを左手で拭うと、ナイフを腰に戻し、女に背を向けた。
「あんたは鬼よっ! 鬼よっ! あんたは……鬼よっ……」
女の罵声が涙声に変わる。朱理はそれに構うことなく歩きだした。鬼、とだけ繰り返し紡いでいた女の口は、やがてその言葉すらも失い、ただ感情を吐き出すだけの嗚咽を繰り返す。
鬼、それでもいいだろう。肌身離さず持つナイフも、自分の心も、人の血を人の命を求め続けるのだから。
朱理はもう一度空を仰いだ。今度は左手をかざして雨を防ぎながら。雨を受けて手に付いた血液が雨と混じって腕を流れていく。服も手も、まだあの男の血液で赤茶けた色を帯びたままだった。
女に背を向けてから、ずっと歩き続けてきた。そうすることに何の意味があったわけではない。何かに流されるかのように歩みを進めていた。
雨と闇にまぎれ、景色の中に溶け込んでいく。冷たくなった身体は、雨の刺激も感じなくなっていた。
それは朱理自身を象徴しているかのようだった。生きることの目的を持たず、ただ人の命を求め、走り続ける。その先には目的地など見えておらず、冷たく周囲からの刺激を拒絶する。
朱理の心に、女の罵る声が蘇る。人殺し。今までにも何度となく浴びせられた言葉。それに刺激を感じることはもうない。
ただ自分が自分らしくあるのは、他人の鮮血に我が身とナイフを濡らす時だけ。
「鬼……ですか……」
ほんの少し笑みを浮かべる。その血の気を失った頬に、かざした左手から水滴が落ちる。血管を流れる血のように、赤い雫が一本の筋を作って流れ落ちた。
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