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<東京怪談ノベル(シングル)>


look up into the sky

「にいちゃん、ナセルのにーちゃん!」
転げるように駆け寄ってきた少年少女達、その先頭が制動が効かずに足にしがみつくようにしてようやく止まるに、エドワード・ナセルは若葉色の瞳で見下ろした。
「どうしたんだ、坊ら。俺はまだ仕事だから遊べへんぞ」
アヤシいイントネーションの混じった公用語に、息を切らして座り込む子供達は答えられない…難民キャンプに身を寄せて様々な髪、瞳、肌の色を持つ彼等は、子供である、ただ一つのそして絶対の共通点を足場に種族、国籍を越えて友となる。
「にーちゃん、シリィの猫が…」
膝に手をついて上体を支え、濃い琥珀の肌の少年が荒い息に唾を飲んで訴えた。
「シリィの猫が、井戸に落ちて…」
「はよ言わんかい!何処の井戸や!」
同道していた青年の胸に書類を押しつけ、エドワードは迷わずに駆け出す。
「西の…」
声は角を曲がる途中に途切れたが、最後まで聞かずとも子供達の遊び場所は把握している。
 戦渦に家族とはぐれ、言葉を失ったかのように無口な少女は、片耳と尾だけが黒い子猫を抱いて人の輪に入ろうとしない。
 その少女がいつも居るのは西の広場、その片隅に最近掘られたばかりの井戸…命知らずに好奇心の旺盛な子猫なら、目新しさに覗き込んで落ちかねない。
 エドワードは全力で西に向かうに、干されたシーツに突っ込み、水の入ったバケツを飛び越え、生活感の漂う障害物をクリアしながら疾走した。
「エドにーちゃん!」
赤毛の子供が大きく手を振って名を呼ぶに、靴底を鳴らして直角に曲がり、目的の場所へとたどり着く。
「にゃんこは?」
「桶の外側に掴まってるけど、落ちそうで上げられないの」
肩に力を込めたまま、立ち尽くしている金髪の少女…シリィ、の肩を抱いて少し年長の濃い肌色の少女が答える。
「了解」
短い答えに井戸を覗き込めば、木枠で半ば水に浮いた桶の外側に白い毛玉が張り付いているように見える。
 生活用水を意図に掘られた…地下水脈からの水は冷たく、小動物の体温など容易に奪ってしまう。
「にゃんこ、ちっと辛抱せぇ!」
エドワードはうっかりと…高所恐怖症である自分を忘れて迷わず、円に穿たれた垂直の穴に飛び込んだ。
「にーちゃん!?」
子供達の驚愕と、籠もる水音が響くは全く同時だった。


 突如として子猫は跳ねる水の勢いに空中に投げ上げられ、野性の本能が天地の位置を知らせるに身体を半捻って…ぽすり、と妙な感触の地面にしがみつく形に安定した。
「いたたたッコラ、爪を立てるな!」
トットットットッと、早い鼓動に子猫が四肢でがっしりと納まりよく頭の形に嵌るのを剥がそうとするが適わず、エドワードはその力に少し安堵する。
 案じていた程に、弱ってはいないようだ。
 子猫がしがみつく桶を避けて飛び込んだ井戸、水は胸程の深さに着水の衝撃を吸収するが、その冷たさは身を切るようで思わず身震いした。
 それに合わせるかのように、頭の上でミーミー鳴く子猫を軽く撫でてやる。
「もう大丈夫だからな」
呼び掛ける言葉はどこかアヤシげな発音の混ざる公用語でなく、彼の母国語であるアラブ言語。
 今は遠い故郷の言葉と、薄暗い井戸の底はいつだったか…弟が涸れ井戸に落ちた時の記憶を蘇らせた。
 姿が見えずに探し回っていた時に、ふと覗き込んだ井戸の底に銀の髪を認めて名を呼んだ。
 決して泣かない気丈さに口を引き結び、真っ直ぐに見上げる黒い瞳に…何故か青空が映ったようだった記憶に、その幼い姿は鮮明だ。
 光の加減に青に見えたのではなく、空とそこを流れる雲の流れを水面が映し出したような。
 弟の迷いのない眼差しの強さは長じても変わらず。
「…懐かしいな」
声にした呟きは胸中に。 
 民族としての血の絆は濃さは、絶対なる神を奉ずる更に繋がりを強く…そして敵を排するに容赦のない。 
 『死の風』が顕れるようになって10年、欧州を凍結より救っている気象制御装置『カルネアデス』が吐き出すナノマシンに因ると知り、UMEが連邦に侵攻を開始して1年が経過している。
 弟は、軍人としてよりも幼い兄弟達の命を、病で戦争で奪ったカルネアデスへの復讐の為に戦場へ身を投じ…自分は、誰の命も奪わずに生きる道を探して此処にいる。
 まるで意地の悪い数式のように、命は命で贖うのみに、中庸の許されない世界。
 許しのない。
 誰もが愛しい者を守れるように、共に在れるように…必死に生きている、ただそれだけですら、狂って行く。
 ひとつ深く息を吐く。
 軍を追われて中立を保つエヴァーグリーンに難民として身を寄せた…この選択は過ちではなかったか。
 願うのは、いつか、あの幼い日のように共に暮らせる日々。
 故郷よりも遠い記憶の底で、戻らぬ日々は蜃気楼のように揺らいで惑わせ、道を進むべきかを焦らせる。
「にーちゃんだいじょぶかー?」
不意に声が降りかかるに、エドワードは顔を上げた。
 頭上に円く青い空が見える…その端から覗き込む、様々な髪、瞳、肌の色の子等。
「心配あらへん、にゃんこも無事や」
水の中でブーツを脱ぎ、桶の中に放り込む。
「悪いが、靴だけ先に上げたってや」
滑車のカラカラと回る音に、水を吸ってすっかり重くなったブーツを入れた桶が頭上高く上がっていく。
 相変わらず頭にしがみついたままの子猫は剥がすのは諦め、裸足になった足と両手とを井戸の壁にあてて、再度上を見上げた。
 人種の別なく覗き込む、沢山の顔達。
 焦っても仕方ない、とエドワードは苦笑した。
 差し当たってはあの空の下、あの輪の中に戻るべき。
 エドワードは筋力を頼りに井戸を上るべく、四肢に強い力を込めた。