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『魔術師の鐘』
微かな風に新緑がそよいでいた。だが、不意を突くような突風が、緑の葉を奪い去って天に駆け上がる。
そんな中で、和紗束紗……いや、この地では御神楽束紗を名乗る彼は、小太刀を振るっていた。日課に近い、訓練だった。
無論、ここは市街地とは離れている。この付近には一般人は立ち入りを禁じられているので、真剣を抜いて訓練していても、誰かに怯えられることはなかった……仮に禁じていなかったとしても、おそらくこの辺りまで足を踏み入れる者はほとんどいないだろう。危険とわかっている場所に近づく物好きが、どれだけいるものか。
それを物語るように、付近には人影はない。
だが、自然は危険の中にも変わらぬ眩しさを届ける。抜ける蒼弓の天と、みずみずしい緑。天然の輝きに囲まれて汗を流していると、そんな危険の中に身を置いていることなどは束紗も忘れてしまいそうだった。
それでも忘れられないことはあるのだが……
それは、大切な人たちの面影。
大切な幼馴染みたちの横顔。
大切な妹の笑顔。
大切だからこそ心配で、それを思えば無心にはなれない。
空に舞い上がったひとひらの葉が、くるくると風に乗って戻って来た。足元を駆け抜ける旋風が、束紗の横で舞う。
「はっ!」
束紗の懐から閃いた白刃は、その一葉を間違いなく貫いた。
ゆっくりとその葉を貫いた刃を手元に引き寄せ、束紗はそれに目を落とす。
「まだ、足りない……?」
呟きを聞く者は誰もいない。
まだ少年の年齢に、迷いは尽きなかった。
束紗は、その緑に吸い込まれるようにして、昔、強くなりたかった理由を思い出していた。束紗が強くなりたかったのは、大切な人たちを守りたかったから。
自分は大切な人たちを守れているだろうか。
……その自らへの問いに、束紗は胸を張って答えられない。
誰も、誰一人、彼の腕の中だけに留まっていてはくれなかったからだ。幼馴染みたちも妹も、軽やかに、その翼を広げて飛び立って行く。束紗の前を、その心配など知らぬげに、飛び去っていってしまうのだ。その自由の鳥たちを、地上に留めることなど出来はしない。
置いていかれたような……わずかな不安。
「もう……要らないのかもしれないな」
束紗は蒼い空を見上げる。
白い鳥が、何かを束紗に示すかのように高い空を飛び去っていった。
外敵から雛を守る籠は、安全な場所に縫い止めておく力は、もう巣から飛び立つ力を貯めた若鳥たちには不要なのかもしれない。
そんな想いが束紗に去来した。
束紗の大切な雛たちは、終わりを告げる死神の鐘と共に、その産毛を脱ぎ捨てていく。
もう、自分は要らない……?
束紗は刃を飾っていた緑の葉を取り去って、またそれを風に戻した。
ひらりと風が、緑を運んでいく。
ならば、もう、剣の修業も要らないのだろうか。今度は刃の輝きに視線を吸われながら、またも束紗は自問する。
だがこれには否という答えも、沸き上がった。
束紗か強くなりたかった理由のもう一つは、父を超えたかったからだ。そして、父は超えられただろうか。
それにも、まだ答えはない。絶対と言える答えはなかった。
まだ、修業は足りない。
行き着くべきところまで行き着いたと言うことは、束紗にはできなかった。
次の風が舞い上がる頃、再び束紗は刀を振るい始めた。
まだ足りない、という想いだけが、束紗を駆り立てる。
埋めようのない喪失感を、今はそれだけが支えていた……
「あ、こんなとこにいたぁ」
「おーい」
不意を突くような突風が、束紗の髪を舞い上げる。
そして、風は不意の声も運んできた。
振り返れば、そこに彼らがいるだろう。
まだ、失ってはいない……彼らが。
彼は知らない。
そう、まだ知らないだけなのだ。
まだ気付かないだけなのだ。
この喪失感こそが、すべての始まりだということに。
始まりを告げる魔術師の鐘が打ち鳴らされ、雛は飛び立つ。
それは彼らの成長を祝う、祝福の鐘。
守るためだけにあった束紗の大切な雛たちは、彼を支える手を得、共に歩むための足を得た。その手を束紗に差し伸べ、共に歩み始めるために。
そして、始まりの鐘は束紗の頭上にも鳴っているのだ。気付かぬだけで……
小太刀を振るう力が、その鐘の囁きを反射していることに。
鍛えるとは、成長すること。
守る力は、支える力に変わってゆく。
その過渡期にあることに。
もう少し。
もう少しで。
気付くだろう。
失った物よりも大切な物を得たことに。
……否、何一つ失ったものなどなかったことに。
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