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<東京怪談ノベル(シングル)>


『ねこあや 朝の修行』



 障子の隙間から、ひんやりとした外気と共に鳥の囀りが少女の耳に届いた。
 閉じていた双眸がゆっくりと開かれ、やがて猫の如き大きな瞳が天井を捉える。布団から伸びた腕は枕元に伸び、シンプルな作りの目覚まし時計へと触れた。秒針がカチカチと音を立て、時針と分針は今を五時と告げている。
「ふぅ」
 体を起こし、その小柄な肢体を伸ばして。
 少し乱れた薄い着物の襟元と裾を直し立ち上がる。
 ───開けた障子。廊下と外を阻む木造の扉を豪快に開け放つと、新鮮な空気が首筋を刺激した。早朝の空気は鳥たちの歌のように心が鮮明に洗われるような気になる。
 裸足のまま外に出て何度か深呼吸を繰り返す。
「鳥さんたち、おはようございます」
 鳥の唄声が彼女の言葉に答えるように鳴く。
 清浄な空気を体内に取り入れ、少女───森杜彩は朝で霧がかった空を見上げたのだった。



 小さな泉から、彩は桶を手に水を汲んでそのしなやかな身体へと注いだ。
 彼女の住む神社の裏手。そこにある小規模な泉は清水であり、行水用として毎朝使用している。今の時期ではその清水の温度も多少冷たいとはいえ心地良い。突き刺すような感覚もまた呆けた意識を覚醒させる効果をもたらして良いものだが、今日のように仄かな温もりを感じる優しい水の感触も彩は好きなのだ。
 水気を帯びた着物が彩の体の線をくっきりと露出させる。
 そこで、彩は突如かけめぐった寒気に身震いをした。まるで猫のような、ふるふるふる、という体を振わせる特徴のある動き。丸めた手で頬についた水滴を拭うその仕草。
 それはおそらく、彼女に流れる血のせいだろう。
 ───母親は猫の姿を取る獣人血筋の使い魔。彩にもその血は受け継がれ、彼女自身その姿を獣人へと変貌させる事が出来る。人間であるときも多少影響され、動きに猫のような仕草が表れる。今がまさにその『影響』だ。
 水滴の残る髪を軽く拭いて両脇を軽く赤色のリボンで結い、服を着替えて割烹着を上から被る。これで準備は一通り完了した。あとは台所へ行き朝食の用意を始めるだけである。
 彩は立ち上がって台所へ向かった。

 軋む廊下。一歩踏み出すごとにみしりと音を立てる廊下を進んでいた、そのとき。
 不意に部屋の一角から、何か丸い物体が転がって彩の傍で止まった。
 思わずその場で固まり、数秒沈黙してからそれをゆっくりと持ち上げてみる。ふあふあとした心地良い感触。触らずとも、見ただけでその正体は明らかなのだが。
「……どうして、毛糸玉がここに?」
 黄色い毛糸がこんもりと丸まって彩の手に納まっている。
 ───こつん。
 足元に何か気配を感じて視線を落とせば、そこには淡いブルーと緑の毛糸玉。否、ピンク、赤、橙など様々な色の球体が際限なく彩の元へ転がってくるではないか。
「えーと……」
 とりあえずしゃがむ。そしてその中の一つをころりと床に転がしてみた。
 ビリヤードのように次々と毛糸たちがぶつかり合って奇妙な円を描く。
 ぽふっ。ころころ。ぽふっ。ころころころ。ぽふっぽふっ。ころころころころ───…
「はにゃ〜……」
 いつのまにやら表れた猫耳と尻尾。手や足も猫のそれへと変化し、転がる玉をつついては別の玉に当て、つついては当て、を繰り返す。ついにはその毛糸玉のいくつかを持ち仰向けに床に寝転びごろごろと体を転がし始めた。ある意味滑稽な姿とも言えよう。
 ───十分後。
「にゃ〜にゃ〜にゃ〜…………はっ!?」
 じゃれるだけじゃれついた後に、彩の理性が現実世界に戻ってきた。
 こんな事をしている場合じゃない、と廊下に散らばる毛糸玉を近くの部屋へ放り、乱れた裾を整えて割烹着の埃を払った。誰も見ていないとはいえ、羞恥心で頬が赤く染まる。
 そして再び歩き始めたところで、またもや足元に何かが落ちていた。
 ───ねこじゃらし。
「……」
 絶句する以外何もできないではないか。何故ここにねこじゃらしが落ちていなければならない。この家では猫を飼っていないのだから、誰かの落し物である筈がない。
 アカラサマに故意的なものを感じ取り、彩はひくりと口元を動かす。
 しかし、ねこじゃらしはその一本だけではなく。
「……」
 転々と廊下に落とされたねこじゃらしたち。まるでヘンゼルとグレーテルがパンくずを目印に落として行ったような状況に、これは誰かの手によるものだと把握した。
 そして───…
「……お兄様……」
 その中の一本を手にして鼻に当てれば、所有者は一目瞭然であるわけで。
 優れた嗅覚。嗅ぎ取れたのはまぎれもなく兄の体臭。
「何を考えているのかしら……」
 呆れたように呟くと、彩はねこじゃらしを一つずつ拾いながら歩を進める。
 手中に増えるねこじゃらしは歩くたびに上下に揺れ、またもや猫の本能をくすぶった。うずうずとそれにじゃれつきたい衝動に駆られるが、今は朝。朝食の用意。これで遊ぶわけにはいかない。
 未だ変化したままの猫耳がぴーんと立ち、尻尾はふりふりと揺れる。
 理性を総動員するも、目の前でちらつくねこじゃらしが彩を誘惑し。
「………………………………………………………にゃ〜」
 結局勝てずにじゃれつき始めたのだった。



 またたび、焦げた秋刀魚。終いにはキャットフードまで廊下に放置されていた。
 普段は人の姿を保ち食事も人間と同じものを摂るのだから、キャットフードにつられるわけがないというのに。その場のノリでもキャットフードなんぞ食べるものか。兄は何を考えているのだろうか。
 どっと疲労を感じて台所に立ったときには既に七時。起床し、水を浴びたときにはまだ五時半。七時前には朝食ができている筈が、それも兄の仕組んだ用意周到な罠により二時間の遅れ。
 残るのは、盛大な溜息のみ。


 ───早朝修行、これにて幕。