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<東京怪談ノベル(シングル)>


海に閉ざされて
 海霧の立ち込める波止場に響くのは水凪妃の砂を踏みしめる足音だけだった。
 沖に目を向けると、ぼんやりした影を残した黒いトロール船が地平線の向こうに消えようとしている。
 白い光線が足元に伸びてきて、水凪妃は眩しさに足を止めた。視線を上げると、巨大な灯台が崖の上に見える。
「あ……」
 しばらくすると、回転灯はまたも水凪妃の華奢な体にまばゆい光を投げかけようとする。自分を傷つける武器だというように水凪妃は体をすくませた。辺りの景色が真っ白く霞む場所に一人だけで立っていたくない。
 猫のようにくるりと身を翻した水凪妃は堤防から砂浜に滑り下りた。ざっと砂が舞って灰色のフードに細かい粒子が降ってくる。
 黙ったまま、水凪妃は小さな砂のきらめきを受けるように腕を伸ばした。それが自分にとってとてつもなく大切なものだというように。いつまでも与えられる喜びの証のように。だが、そんな筈は無かった。
「そうよ」
 怒ったように水凪妃は誰にともなく発した。
 灯台の先から出た白い光が黒い海の中に丸く大きな白い円を作っているのを見るともなしに眺めた。だが、心のうちでは水凪妃は別のものを見ていた。白い波が打ち寄せる砂浜でしゃがみこんでいた少年、あの日から時が止まったままの弟が満面の笑顔で走り寄ってきた。
 水凪妃、と弟は囁き、彼女に何かを渡そうとするかのようにすっと腕を伸ばした。
 促されて水凪妃はわずかに微笑み、同じように腕を伸ばした。在りし日の自分がそうしたように。
 腕を下ろした水凪妃の手には何も無かった。シロツメクサの冠を渡されたはずなのに。弟さえ水凪妃が見た幻想に過ぎない。
 だが、水凪妃はわずかな記憶を頼りに弟の日々を思い出していた。
 追想の中の水凪妃は不幸の種なんて聞いたことが無いという風に笑っている。その小さな肩をいつも双子の弟が抱きしめていた。水凪妃はまだ十歳にもなっていなかったから、水凪妃のナイトを自称していた弟もまたそのはずだった。
 二人はよく笑った。細かい石につまづいて転んだ時でさえ、水凪妃は泣きながら笑った。目線を合わせようとしゃがみこんだ弟が冗談を言ったからだ。
 春には弟と一緒にシロツメクサの花冠を作った。お互いに交換すると、水凪妃は頬に唇を押し当てられていた。

 ねえ、ぼくのお嫁さんになってよ、水凪妃。一番好きなんだもの。

 あれはいつのことだっただろう。
 幸せだった幼い時を思い出そうとすると、路上で売られている絵を眺めているような感覚に陥ってしまう。話したのも触れたのも確かに自分であるはずなのに、その実感だけがすっぽり抜け落ちてしまったような感覚。
 混線したラジオの出すようなざあざあと騒々しいノイズ。
 暗闇、タールのようにねっとり絡みついた漆黒の中で誰かが何かを叫ぶ悲痛な声。あるいは泣き声なのかもしれない。
 それから、眩しくて目をあけることもできないような白く割れた光。
 断片的な恐怖の欠片――恐らくそれが記憶を失う以前の最も新しい記憶なのだ――が示そうとしているものは何なんだろう。暗喩に満ちていて、謎を解くには自身は余りにも非力すぎる。
 脳の中に海霧よりも厚いカーテンがさっと引かれたが最後、その先にある記憶にはたどり着けやしない。
 一切の唯一の拠り所である記憶からはいつの間にか年月の感覚がすっぽり抜け落ち、茫洋として掴み所の思い出に変わってしまっている。昆虫学者が愛でる美しい蝶の標本のように弟との思い出、家族の優しい愛だけが鮮やかに固定されたまま……。
 いつの間にか水凪妃は泣いていた。黒い双眸から溢れた涙が頬を伝い、水晶のように輝きながら顎を滑った。
 今でも水凪妃には弟の眼差しを思い出すことができた。既に力強い意思が表れていた瞳は双子ながら水凪妃のそれとは全く違っていることを父も母も認めていた。姉である水凪妃を見つめると、光線のような強い光がふっと和らぎ、すぐ後ににっこり笑う……そんな弟が好きだった。
 彼が今どこにいて何をしているのか見当もつかない。最も彼に近しいものは双子の片割れである自分のはずだというのに。
 コートの中に冷たい潮風が入り込み、水凪妃を駆り立てるようにばたばたとはためいた。コートの中に着た水色のスカートまでもが揺れたが、気にしなかった。
 夜の海は街中ではない。さざ波の他は気味悪いほど静かだ。警戒のために頭からすっぽり被ったフード付きのマントも必要無いだろう。
 家族を失ってすぐは、水凪妃の男装に声を掛けてくれる人物を探して街を渡り歩いた。自分と同じ顔をしている弟を探すために。
 だが、長く旅を続けるうちに水凪妃は別のことを考えるようになっていた。永久に会うことの出来ない永遠の別れ、この瞬間にも人々に嘆きの声をあげさせる死という悪夢を。
 自分が男装を解けば、弟がこの世から完全に消えてしまう気がした。二度と水凪妃の前には姿を現さないまま。
 美しく装って通りを歩く少女たちを見かけるたびに胸を貫かれても、弟を失うという恐怖のためだけに重いフードを取るのは人目が無い時だけになった。
 鏡やショー・ウィンドウに映る自分の姿を見る度にフードに隠れた水凪妃の瞳は誰かに問い掛けるように揺れた。
 いつまで?
 いつまで自分は女であることを隠さなければいけないの?

 ねえ、ぼくのお嫁さんになってよ、水凪妃。一番好きなんだもの。

 不意に弟の言葉がよみがえり、水凪妃は手で顔を覆って砂地にしゃがみこんだ。喉が破裂でもしたように嗚咽が漏れた。
 ボクにこれ以上どこへ行けというんだろう。
 膝をついたまま、渾身の力で砂を掴む。指の間から零れ落ちる砂をまたかき集めた。気に入っていた空色のワンピースが土に塗れたが、何度も何度も砂を集め続けた。
 水凪妃はそのまま横たわった。
 何も考えたくない。家族を当て所もなく探す苦しみも、弟を失う悪夢も、全て。
 散らばった髪に波が打ちつけるリズムに聞き入りながら水凪妃はゆっくりと目を閉じた。
 遠く、波止場の反対側から青年が一人見つめていることにも気付かずに。