PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Waterplant

 コンクリ剥き出しの寒々しい基地内の風呂の利点は、静かな所と広い所ぐらいなものだ。広いのは、広大な敷地を無駄に使用して建造された結果で、静かなのは現在時刻が真夜中である所為だ。こんな夜中に風呂に浸かっているのはあたしぐらいね、そう思うと翠は妙に愉快な気分になるのであった。

 …それともこの高揚感は、単なる肉体的な疲れから来るナチュラルハイかしら。

 すっきりとのびやかな両足を爪先まで存分に伸ばしても、風呂の向こう側には到底届かない。翠は後頭部を風呂の縁に預けて肩まで浸かると、目を閉じてひとつ背伸びをした。昼間の模擬戦の事を思い出せば思わず漏れ出る溜め息に、さすがに苦笑が浮かぶ。こんなにも疲れているのだろうか、と薄目を開けて灰色の無表情な天井を見上げた。
 疲れているのは身体ではなく、あたしの中身。MSと同調する度に起こる、この酷い頭痛や記憶障害。隊のドクターは、余りに親密にMSと同調をするから、その間だけはあたしは翠・エアフォースでなくなっているのかもしれない、そう言った。あたしであって、あたしでない存在。多重人格とも違う、このあたしが他の何者かに変わってしまう瞬間。それはそれで構わないけど、その事実を本人であるこのあたしが認識出来ないってのが一番納得出来ないのよ。
 身体のトラブルは医者が何とかしてくれても、心のトラブルには対処の仕様がない。これだけ技術が進み、一昔前までは唯の絵空事だった精神の力も活用されるまでになっていても、心は身体の一部のように、取り出して治療する事が出来ないのだ。
 案外不便なものね、と翠は細く息を吐く。その、一昔前には夢の未来だと皆が憧れていた時代と世界に住んでいるにも拘らず。

 だが、どの世界、どの時代に生まれ生きて行くのが幸せか等と言うのはその時々、そして個人によって違うのだ。ましてや生まれる時代を自ら選ぶ事はできない。精々、今の世ならサイバーへの道を選べる程度の話か。それさえも、個人のパーソナリティそのものの変革に繋がるとは限らない、己の世界観や周りの自分を見る目が変わって、色々なギャップやトラウマに翻弄されていく事で何かが変わって行くのを期待する他ないのだ。

 …何でこんな事考えてるのかしらね、と今更のように翠はぼんやりと霞む目許を擦った。感傷的になっているのかしら。でも何に?あたしには特別、憂うような事は何もないし、悲観するような状況にもいない。あえて言うなら、この頭が割れそうな頭痛をどうにかして欲しいものだけど、それもいつもの事だし、今更と言う気もするわ。

 それに、何をどう足掻いても、誰もあたしを助けてはくれない。救ってはくれないのよ。
 誰かに救って貰いたいと願う、その心自体浅ましいような気もするけれど、でも誰もあたしを見ていない、気にかけていない、そう思うと足元が急にぽっかり穴が開いてそこにまっ逆さまに落ちて行くような気分になる。そう、一瞬の浮遊感の後に視界が不意に上部へと流れ、重力に引かれるがままにそして辺りもブラックアウト………。



 ふと、翠が目を覚ましたのは、不自然に濡れる自分の頬の感触が気になったからだ。重い手を持ち上げて自分の目許と頬に触れてみる。その理由が、自分が泣いていた事だと知ると、翠は思いがけなく驚いてしまった。だが、その直後、彼女はもっと驚く事になる。
 「目を覚ましたか?」
 そう彼女に声を掛けて、ベッドに横たわる翠の顔を覗き込んだのは、シーレィだ。一瞬にして、翠の中から音を立てて血の気が引き、水を打ったように意識が研ぎ澄まされる。彼の事は決して嫌いな訳ではない。シーレィの才能と能力、そして魅力は充分に認めている、いや、認めざるを得ない。ただ何故だろう、彼と向き合うと頭の中や胸の中が、まるで自分のものでは無くなってしまったかのようにおかしくなるのだ。多少違うとは言え、同じ土俵にいるからこそ分かる、彼の抜きんでた有能さは、最早妬むとか羨むとかの域を越えている、それは分かっている。それでも、他の女性達と同じように、一心不乱に熱く羨望の眼差しを彼に贈る事はできない。それは、自分もMSパイロットとしての意地があるからなのか、それとも。
 だから敢えてこの男に対する感情を説明するとするなら……苦手、これしかなかった。
 「……どうしてあたし、ここに……?」
 風呂に浸かり過ぎた所為か、掠れた声でそう尋ねる。上体を起こそうとしてふと、自分が何も着ていない事に気付き、慌てて胸元まで落ち掛けていたシーツを掴んでまた上へと引き上げた。その翠の行為を知ってか知らずか、シーレィは口元で笑いながら立っていき、冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルを彼女へと差し出す。枯れた声への労りだろうが、そのあまりにさり気無く、そして嵌まり切った堂々たる隙のない完璧な仕種に翠は、一種嫉妬のような感情を覚える。だが、痛む喉は現実としてあるので、翠は小声で礼を告げるとそれを受け取った。片手でシーツを押さえて上体を起こし、ボトルに口を付ける。程良く冷えたミネラルウォーターが、熱を帯びた身体に心地好く染み渡っていく。今までずっと湯ではあるが水の中にいて、それでも身体が乾く事に、妙な不自然さを覚えた。
 「……で、どうしてあたしがあなたの部屋にいるの?」
 流され掛けた質問を、幾分元に戻った涼やかな声で翠は尋ねる。壁に寄り掛かって腕を組み、彼女を見詰めるシーレィの姿は見事としか形容し得ないぐらい、腹が立つ程に決まっている。それを素直に素敵だと言えない自分が何処か腹正しく、そして何故か誇らしい。そんな彼女の思惑なぞ知った事ではないと言わんばかりに、シーレィは掛けたサングラスを立てた中指で位置を直しながら、
 「たまにはいいぞ、ああいう可愛い言動も。見直した」
 翠の質問を全く無視した形なのか、それともちゃんと彼なりに答えているのか。それは計り知れないがとにかく、彼の答えは翠の、貧血とその他で青ざめた顔と頭に血を昇らせる事には成功した。
 「な……あなた、何を言ってるのか分かってるの…?」
 多少語尾が震えていたかも知れない、翠の抗議にもシーレィはただ軽く肩を揺らして笑うだけで。その長身から溢れ出る、カリスマ性と同じぐらいあり余った様子の余裕に、翠はぎゅっと指の間接が白く浮く程に胸元のシーツを握り締めた。
 「…そんな事、言って…あたしが他の女性達と同じように、喜ぶとでも思っているの…?ふざけないで、あたし、認めないわよ!」
 何に。それはシーレィ本人をか、それとも、奥底ではシーレィを認めようとする自分自身をか。認めないと言うよりは許せない、かもしれないと翠はこれは心の中だけで苦笑いと共に呟いた。
 そんな胸中の呟きは届かなかっただろうが、翠の、本人も得体の知れない憤りはシーレィに伝わったようだ。口元の笑みに、多少困ったような色合いを含めながら、シーレィは腕を組んだまま、自分の腕を指先で軽くとんとんと叩いた。
 「そんな事は言ってないし、思ってもいないさ。ただ私は、お前にはいい素質がある、いいパイロットになると思っただけさ。それ以上でもそれ以下でもない」
 そして、いい女にもなる。だがそれは胸の内だけに。彼にとっては最上級の誉め言葉でも、今の彼女にとっては侮辱とも取られ兼ねない言葉だったから。
 そんな、震える肩を自分で抱き締め、伸ばされる腕を意地とプライドだけで振り払って独り立っているような、気高くもか弱い翠が、シーレィはいいと思ったから。
 「いい素質があって、いいパイロットだから…だから、…だからあたしを利用すると言うの……?」
 噛み締めた奥歯から絞り出すような翠の声。静かなその声は聞きようによっては穏やかな響きだったが、だからこそ、その奥底で滾る、怒りとも憤慨とも、そして哀しみとも理由の付かない感情が色鮮やかに響き渡るのだ。
 「……この世界の為に、その才能と閃きで活躍して欲しいと思う、その結果、全て私の功績になってしまうと言うのなら、利用していると言えばそうなのかも知れないな……」
 呟き漏らされるようなシーレィの言葉は翠に届いたか届かなかったか。ただ、その心地好い声の響きが、疲れ果てた翠には子守唄の効果をもたらした事は事実で、彼女はまた無意識に涙を零しながら、まるで電池が切れたかのようにことん、と眠りに落ちていった。静かな寝息、時折子供がしゃくりあげるような呼吸音を混ぜながら眠る彼女の姿を、いつの間にか近寄り、ベッドの縁に腰掛けたシーレィは、静かな眼差しで見守っていた。

 だがその眼差しは誰も知らず。それは彼の表情を遮る、サングラスの所為でも無く。




☆ライターより☆
 この度はご依頼誠に有り難うございます、ライターの碧川桜です。今回、ツインノベルのご依頼でしたが、翠のエピソードをメインにしてお送りしました。私の独自の解釈などもしばしば見られますが、もしもご想像と違った場合はご容赦くださいませ。少しでもお気に召して頂けたら光栄です。
 それでは、またお会い出来る事をお祈りしつつ…。