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ある選択の結果と一つの選択
晴れた日だった。
天は高い。何処までも高い。雲ひとつない青空は天の果てしなさを何処までも強調して、遠い。
眩暈がするほどの天の遠さだった。その先にあるものを思うだけで目も、そして気持ちも眩む程の。
「……行くがいい」
窓越しにその果てしなさを感じていた男は、そう呟くと窓を開け放った。一見しただけでは性別のわかり辛い容姿だが、その声は紛れもなく男のものだった。中性的で優雅な顔立ちで、上品な風貌である。だが繊細さを感じないのはやはり男だからだろうか?
男が淡い栗色の髪を揺らして振返った室内には特に物は置かれていない。寝る為だけの場所だと主張するかのように家具らしい家具もない室内である。しかし一点のみが、異彩を放っている箇所があった。
男が振返ったのはその箇所。そしてそこに居る生物だった。二羽の梟である。ぬいぐるみを思わせる丸い身体に愛嬌のある丸い目。しかし猛禽類の証明に止まり木に掛かっている足の爪は見事な鉤型をしている。
その愛らしくも猛々しい生物は、男に促されても微動だにしなかった。
男はふと小首を傾げ、次いで破顔した。
「――昼か、そう言えば」
どこか自嘲的に笑った男は一旦窓を閉めた。
梟は夜行性の鳥だ。この大空を羽ばたいて野生に還るところを期待した己が愚かだった。
「ではまた夜に」
男は少し表情を引き締め、部屋の中央に据えられた止まり木に鎮座している梟を見つめた。
その顔には憂いが濃かった。
男――鈴帯島・世隼(すずおびじま・よはや)の顔には。
――その夜、星空に二羽の梟が飛び立った。
突如として訪ねてきた少女に、世隼は面食らった。少女、エウロペ・ヒュエイン(えうろぺ・ひゅえいん)は新たに手に入れた玩具に夢中でこんな所まで足を運ぶ暇などないはずだと言うのに。それでなくともそもそも余り他人に興味を示さない彼女が、わざわざ自分の元を訪れるなど稀有を通り越して空前のことである。
しかし世隼はその驚愕を表に出したりはしなかった。
エウロペが珍しくも感情を顔に昇らせている事とは全く対象的に。
エウロペは勧められた椅子に見向きもせず、ぎっと世隼を睨み据えている。
「どういうことなの?」
唐突に口火を切ったエウロペに、世隼は口元に拳を当てて軽く笑ってみせる。
「どういうこと、とは?」
「質問しているのはわたくしよ。答えなさい!」
感情的に怒鳴りつけてくるエウロペに、世隼は今度は皮肉げに口元を吊り上げる。
「なら、答えられるように質問をしてくれないか。なにをさしての『どういうこと』なのかが私にはそもそもわからない」
悠然とした態度に勢いで噛み付きかけたエウロペは、しかし寸でのところでそれを堪えた。この男のペースに巻き込まれれば聞きたい事は何一つ聞けないままにただ不快感だけが蓄積されるのだという事を知っていたからである。
呼気を整え、エウロペは言った。
「――梟を、放してしまったのですって?」
低い、呻き声のような言葉に、世隼はああと頷いた。その顔に一瞬だけ過ぎった翳りにエウロペは気付かなかった。
「そうだが、それが『どういうこと』なのか?」
「他に何があるというの?」
「何かあると思っていたがな」
世隼は苦笑した。
わざわざやってくるから何かと思えばと、その態度が雄弁に語っている。
エウロペはその子面憎いほどの平静さに激しい感情がせり上がって来るのを感じていた。
自分にも世隼にも家族はない。その世隼が家族同然に慈しんだ梟の仔を野性に還したと聞いて、その行為に疑問を感じてわざわざやってきたというのにこの平静さは一体なんだ?
「……なんでもないことだというの?」
押し殺した声でエウロペは世隼に詰め寄った。世隼は眉根を寄せうんざりとしたようにエウロペを見下ろす。
「そうだといっているのが分からないのか?」
「あなたはあれほど愛しんだものを手放す事がなんでもないことだと言うの!」
「エウロペ」
世隼はすっと目を細めた。低い声で名を呼ばれ、エウロペは押し黙る。
そこにある感情の揺れを今度こそ感じ取れたからだ。
「我々は一体なんだ?」
「……なんだとはいったいなに?」
「所属と立場の話だ」
先刻と立場を入れ替えた会話に、世隼はうんざりと肩を竦める。エウロペは質問の意図がわからないながらも、律儀にその質問に答えた。
「プラハ平和条約機構“エヴァーグリーン”所属の平和巡察士よ?」
「そう、私達は平和巡察士、秩序を守るために存在している」
――名目上は。
心中でそう付け加える。己の陣営を客観的に、そして冷酷に見るにはこの少女は余りにも幼い。プラハ平和条約機構“エヴァーグリーン”とて所詮は武力を持って要求を通そうとしている一陣営の一つであると、その正義をある程度疑っていないエウロペに告げる気は世隼にはなかった。エウロペは己を善人だとは全く思っていない、どころか悪人の内に分類しているのであろうが、己の属する団体を『善悪などないもの』と理解はしていまい。偽悪者めいた自己評価と、現実を客観的に見つめる目とではそもそも分類が違いすぎる。少なくともそれが出来るようになるまでにはエウロペにはもう暫し時間が必要だった。
エウロペはきょとんと世隼を見上げた。
「何を今更……?」
「世界の秩序を護る為のエスパーとして造られた私達が野生動物を束縛する事は赦されない」
淡々と、世隼は言い諭すようにエウロペに語る。
未だ幼くともエウロペは感の鈍い少女ではない。その諭しが己に向けてのものであると同時に、世隼本人への戒めである事に、即座に気付いた。
「……何故、そんな無理をするの?」
「私は無理などしてはいないよ」
「当然の事のように言わないで頂戴。秩序とやらのために自分を犠牲にするの? 心が壊れてしまうわそんな事をすれば!」
叩きつけるように言ったエウロペに、世隼は感情の昂ぶりを押えかねた。
書類が積み重ねられているだけで他には何一つとてないデスクにドンと拳を叩きつける。
「分からないお嬢さんだな。私は平和条約機構という名を自ら貶める気はない!」
――それが名目上のものであるからこそ。これ以上は。
エウロペはその激しい動揺に息を飲んだ。
それほど、少し突付いた程度でポーカーフェイスを崩すほどに別れが痛かったのだこの男は。
「……どうしてそんな強情を……」
いっそ哀れむように己を見上げるエウロペに、世隼は最早苛立ちを隠せなかった。
「用件はそれだけか」
なら引き取れ、そう言いかけたその時だった。
――コツン。
窓が小さく音を立てた。
手ずから餌を与え育て上げた雛。
小鳥の代謝は激しく、数時間の間も置かず餌を欲しがるそれに、己の睡眠時間を削ってまで餌を与え続けた。公務との両立に体力をすり減らしながらも懸命に守った命。
「……お前」
世隼は震える手で窓を開けた。
やや小ぶりの身体つき。共に育てた兄梟は野性に還ったのだろう。だが、このもう一羽は。
秩序と欲望。
誇りと愛着。
そして放たれた一羽と、帰って来たもう一羽。
象徴のように。
相反する己の二つの感情の象徴であるかのように。二羽に分かれ旅立った一羽と、帰って来たもう一羽。
世隼の目から一雫の涙が零れ落ちたのをエウロペは見逃さなかった。
この冷酷な男が涙まで流す。必要とあれば人さえも売り渡す冷酷な男が。
「わたくしは……」
失った愛しいものの代わりに手に入れたもの。
それの意志等構う気は既にエウロペからは失せていた。
「わたくしは……離さない」
生涯、なにがあろうとも。
そう、決意した。
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