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<東京怪談ノベル(シングル)>


『闇の姫君』

 夕食を作る最中、森杜彩は不意に後ろを振り返った。首を傾げ、この静けさを怪訝に思いつつも再び鍋に向き直る。程好い熱さを帯びてきた味噌汁を味見しながらも、彩は気を抜かなかった。
 いつもであれば、此処で何者かによる妨害が彩の作業を妨げている。
 誰が、とは敢えて言わないのだけれど。
 ───しかし、どうやら邪魔がないのは理由があったようで。
 何事もなく過ぎ行く夕食。こういうときに妨げが何一つないのは、神社に客が来ている証だ。客といえども、「御神籤ください」「お守りください」などの穏やかで平和的な客の事ではない。
 このようなご時世。社務所の切り盛りなどで神社が成り立つわけもなく、彩の家は裏家業も営んでいるのだ。魔狩りはその一種。そして、彩は訪ね来る客を相手にこの身を捧げその代わりとして客からコネや頼み事などを聞いてもらい、または使い魔の抗魔、抗超能力、形代としての能力を生かした仕事などを引き受けている。
 身を捧げるとは簡潔に言えば「客と寝る」という事であり、形代は「身代わりになれ」という事。どちらも進んで引き受けたくは無い仕事だ。
 当然、今夜の客もそうなのだろうけれど。



 台所に顔を出した父が彩を呼びに来たのが客の訪問を意味する何よりの証拠であった。「仕事だから来なさい」という暗黙の了解に、正装に着替えた彩は父の待つ客間へと入る。
 出迎えたのは初老の男性が二人。互いに深く頭を下げ、仕事内容を尋ねれば、今回はハードだと嫌々思い知ってしまった。
 形代となり、客の呪殺を受ける事。そして、もう一人にはこの身を捧げる事。
 この一晩に両方をこなさねばならないとは。
 黙々と説明を続ける父の横顔を眺めて、気づかれないように彩はそっと溜息をつく。
 やがて全て話し終えたあと、彩は深々と頭を下げた。

「承知いたしました」
 そう、告げて。



 時は過ぎ。
 星はなく、風もなく、ただ爪で引っ掻いたような細い三日月が仄かに青白く発光している。
 何とも不気味な夜空の下、神社の一角がほんの一瞬凄まじい熱気に包まれた。
「……ッ……!!」
 離れの部屋。家屋からも祭殿からも離れたその部屋では、彩の仕事が行われている。
 やがて襖を開けて中から男性が出てくる。閉める前に頭を下げて、彼はその場から去った。
 中には、全身血塗れとなった少女が一人。
「……い、った……」
 誰もいない。だからこそ客の前で一言も呻き声を上げなかった分、今は軋み突き刺すようで熱い感覚に顔を思い切り歪ませて声を絞り出す。少しでも何か言わねば、悲鳴を上げてしまいそうだった。
 ───形代の仕事。
 形代とは、所謂身代わりだ。
 呪殺をその華奢な身体で受け止めたのだから、勿論怪我は酷い上に大量の出血。十分致死量だ。
 全身を血に染めて、喉の奥から湧き上がってくる液体に顔を青ざめながら、結局は吐血する。吐き出したそれを手で受け止めて、赤い、と認識したら一気に視界が滲んだ。
(……まだ。まだ、仕事は残ってる)
 別の部屋で待機している客と、寝なければならない。
 しかしさすがにこの状態では身が持たない。
 彩は姿を獣人に変え、再生能力を発動した。完全な再生は時間がかかる。となれば上辺の傷だけでもせめて目立たないように施して、用意していたもう一着の服に着替えれば良いだろう。
 気を抜けば肺から血液が逆流してくるが、それは気合いで耐えなければ。
 おそらく無理をすれば一気に傷が開くだろうが、それを処置する暇もない。
 姿を人へと戻し、その場を出て、三つ奥の部屋まで歩く。
 無様な姿を客に晒すわけにはいかない。だからこそ、震える足を懸命に踏み出して、背筋を伸ばし、一度だけむせると彩は深呼吸を終えてその部屋の襖を開けた。





 全てを終えれば、既に丑三つ時すら過ぎていて。
 一人外で、開いた傷口を再生していた。室内では血が家具や床を汚してしまうだろうから、それを配慮した上での外の作業だ。しかし外気は意外にも冷たくて、未だ塞がらない傷に風が触れるたび異常なまでの苦痛が全身に広がる。
 獣人の再生能力で傷は塞がるだろうが、この疲労までは拭えない。
 二つの仕事を一晩にこなすのは些かハードだ。まともに生きていられるわけがないけれど、これもまた神社を成立させるためにやらなければならない『仕事』。母がいなくなってからは此処に住ませてもらっている。父のためにも、これは当然の行為なのだから。
 けれど、それでも、やはりこの傷は。
「っ……!!」
 体が揺れた。立ち上がろうとしたところに凄まじい眩暈。
 出血による貧血と、やはり完全には治しきれない傷の痛みと、全身疲労により足がもたついたのだ。
 このままでは、部屋に戻れないのに。
 そう思うけれど、彩の体はもう指一本動かす事がなきなかった。




 夜空に一つ、やっと見えた星。
 どれくらい、自分はこうしていたのか判らない。
 不意に、体が浮いた。
 ───誰?
 声は、喉がかすれて出す事が出来なかった。視界は歪み、顔を見ることが許されない。
 でも温かい。このぬくもりと、香りには、覚えがある。
 思わず微笑んで無意識にその胸に頬を摺り寄せると、これが誰なのか確かめる間もなく意識は沈んだ。

 寒空に  ぬくもりひとつ  優しさに似て───