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パンケーキ
◆ステインド◆
話に――餌に食いついてきた顔ぶれを見て、ステインドと名乗る中年は、面白おかしそうに目を細めた。こいつらなら期待できる、とでも思ったのだろうか。だとすれば有り難い話であり、且つ大きなお世話といったところだ。
今夜も闘技場の片隅では、金に目が眩んだ連中やスリルに溺れた連中が寄り集まって、自慢にはなりそうもない話に華を咲かせていた。ステインドはそんな人間の匂いを嗅ぎつけて、地下から這い出てくる男だ。
そして――白神空もまた、匂いを辿るのが得意な女。
ステインドの匂いを嗅ぎつけたわけではない。だが今回は、はじめからステインドの話を聞くことが出来た。この男が持ちかけてくる話は、面白いものがほとんどだ。
彼女がちろりと紅い唇を舐める様を、ステインドはにやりと笑って見守っていた。彼はサイバー化された赤い右目にすら、殺気と男気と侠気を湛えている男だった。
「ツァオウェイのサイドF60丁目に、デカいビルがある。そこの25階までこいつを運んでくれ」
ステインドはそう言って、足元に置いてあったジェラルミンのトランクを、テーブルの上にドカンと置いた。この男はやることなすこと全てが豪快だ。例によって大っぴらには出来ない話であるにも関わらず、今の音は周囲の視線を集めた。
「途中でこいつをよこせって言ってくる阿呆がいるだろうが、無視しろ。とにかく、サイドF60丁目のビルの25階だ」
そう言って、眼が眩みそうなほどの大金を、事も無げにトランクの上に積み重ねたのだった。
ドカンと。
以前にもこんなことがあった。
テーブルの上に置かれた金に真っ先に手を伸ばすのは、白い女なのだ。
空はその顔に笑みを浮かべたまま、ごわついた札束を手に取っていた。
「おッ……またお前さんかい」
ステインドは自前の目を細めて、愉快そうに口元を緩めた。
「相変わらず面白そうな話だもの」
「行ってくれるンだな?」
「そうしてほしいんでしょ?」
空はジェラルミン製のトランクを、ひょいと取り上げた。
意外なほどに軽かった。彼女は確かに力が有る方だったが、それにしても軽すぎる。
「……ちゃんと入ってるの?」
「入ってるさ。何なら中身を見てみろよ」
「その必要はないわ。運べばいいだけだもの。それがあたしの仕事。ちがった?」
空が狐じみた悪戯っぽい笑みを投げかけると、ステインドはからからと声を上げて笑った。
「いいねェ、姐ちゃん。惚れそうだぜ」
冗談とも本気ともつかない軽口だ。
――ま、このオジサンを相手にするのも面白そうだけどね。
にい、と口元を吊り上げると、空はステインドの目の前でゆっくり唇を舐めた。
だが、いま空を動かそうとしているのは、この軽いトランクだ。ステインドの相手をするのは別の機会にまわすことにして、空は闘技場に笑みを残していった。
ただ、彼女はちょっとした悪戯心を起こした。
ツァオウェイへ続くシャフトの中で、トランクの匂いを嗅いでみたのである。
軽すぎるその荷物が、彼女の貪欲な好奇心を刺激したのだ。
「……何だろ、甘い匂いだねえ……」
ジェラルミンの隙間から漂うのは、砂糖とミルクとバターと卵の匂い。
そしてそれに練りこまれた、物騒な匂い。
男が甘いものを誰かに送るというのは……珍しい話だ。ますます空は、わくわくと胸を躍らせた。
◆ツァオウェイ、21:03◆
「相変わらずクサい街ね」
空は思わず悪態をついた。
ツァオウェイにはいちど来たことがある。つい最近だ。そんな短い時間の中で、この街が変わるはずはない。ツァオウェイの中は以前と変わらず、独特の生活臭と機械臭、古い油の臭いで充満していた。空は『一般人レベル』にまで嗅覚のレベルを下げて歩かねばならなかった。彼女にとっては、強烈という言葉さえも生易しい臭気だった。
だが、この街が嫌いなわけではない。この街は、面白い。無邪気な空を飽きさせることはなかった。臭いすら凌駕する魅力を、彼女はこの町に見出していたのだ。だからこそ、今回もまたステインドの依頼を引き受けた。仕事の内容も金も問題ではない。ただ自分が楽しめたら、それでいいのだ。楽しむためには依頼人の言葉に従い、それ以上でも以下でもない働きをするに限る。空はお人好しではなかったし、薄情者というわけでもなかった。フクザツなオンナなのだ。
何の問題もなく空はサイドF地区に入り、60丁目のビルを見つけ出すことが出来た。色々と準備をし、襲撃も考慮していた彼女は拍子抜けした。
60丁目ビルはサイドFの中ではひときわ高い雑居ビルだ。ツァオウェイのビルディングの例に漏れず、無秩序で無計画な増築と改築の結果、非常に不恰好なものになっていた。周囲のビルと融合し、配線のミスかはたまた電力不足か、停電している階もある。どこが60丁目ビルの25階なのか、外見からでは把握できない。
「……24階の上は26階、なんてことはよしてよね」
空は苦笑を浮かべつつ、ビルに向かって一歩踏み出――
バウッ!
「!」
野太い犬の咆哮に、空は反射的に足を止めた。
振り返ると、ドーベルマンかシェパードの血を引いているらしい犬が吠えたてていた。犬を連れているのは、おそらくツァオウェイの警官だ。犬の首輪には、『POLICE』のプレートが提げられている。
空は内心で舌打ちをした。自分の『獣』の匂いでも嗅ぎつけられたのだろうか。依頼主がマフィアである以上、警察と関わり合いになるのはなるべく避けたいところだ。この街も気に入っている――あまり問題を起こして、二度と来られない事態になることは、空の望むところではなかった。
しかし運がいいことに、警官はその犬を街灯に繋いで、路肩の屋台で遅い夕飯をとっているところだった。半熟合成卵がのったナシゴレンを頬張っている。
バウッ、ガウッ、ワウッ、バウバウッ、ワ――
「うるっせえな、このバカ犬!」
警官は米粒を吐き散らしながら、犬を怒鳴りつけた。
犬は途端に黙り込んだが、60丁目ビルの入口を睨んだままだった。
警察犬が静かになったのは、怒鳴りつけられたためではない。危険な対象が、ビルの中にさっさと消えたからだった。
◆24階の上:今のところ、25階◆
空は、エレベーターシャフトを上って25階に行くことも考えた。20階なりで止め、天井からシャフト内に出るのだ。そのためにロープも持参していた。
しかし、その必要もなさそうだ。五感の全てを研ぎ澄ませても(仕方なく嗅覚も解放した)、襲撃者の気配は全く感じ取ることが出来なかった。
――なアんだ。まったく、楽な仕事。
言い替えると、つまらない仕事だ。
空はエレベーターで25階に向かった。
25階の一角は、私立探偵事務所だった。男がひとり、暇そうにノータールの煙草を燻らせていた。若くもなくさほど年寄りでもなく、しかしどこか鋭い目を持った男だった。
空には、ピンときた。獣の勘に頼らずとも、わかる。この男が、この甘い匂いのするトランクを受け取るべき人間。
薄汚れたガラスのオートドアは、片側が壊れていて開かなかった。
「どうも。何かお困りで?」
男は、名乗る前にそう声をかけてきた。声まで暇そうに間延びしていた。
ツァオウェイには、こういった私立探偵などいくらでも居るだろう。そしてその誰もが、こうして暇そうにしているに違いない。この男のような目を持っている探偵は、そう多くもないかもしれないが。
――腕は良さそうね。あたしの『勘違い』でなければ。
「これ、お届けものよ」
艶めかしい笑みを浮かべて、空はトランクを男に――探偵に差し出した。
「……どこからだ?」
言うべきだろうか。
トランクに手をかけてはいるが、探偵の目は、明らかに用心していた。
「ステインドよ」
空は、とりあえず素直に答えた。
探偵の顔色が変わった。
しかし空の仕事はこれで終わり。彼女はもう、この探偵にも、このビルの25階にも、ツァオウェイにも用はない。この臭いから逃れて、地上のどこかで眠りにつくか――また面白い話を探し出すか。
「……おい!」
探偵の戦慄混じりの呼びかけにも応じず、空は探偵事務所を出た。
奇妙な女だ。白い髪と、どこか人間離れした輝きの瞳が目に焼きついている。
彼は、トランクを開けたくはなかった。
おそらくステインドは、自分がトランクを開けても開けなくても構わないに違いない。ただ、自分はステインドに目をつけられた――奴は自分に、それを知らせてやりたかっただけなのだ。
もう、死んだも同然だ。自分はあの女からこのトランクを受け取ったそのときに、死んだのである。
彼は、トランクを開けた。
煙草の匂いをかき消すのは、甘ったるい朝食の匂い――
『お前は知りすぎた』
表面にそのメッセージが焼きつけてあった。
◆21:20◆
ドカン。
空が60丁目ビルを出た30秒後のことだった。
空がついさっきまで居た、25階が火を噴いた。
「……あらあらあら」
彼女は火柱が上がった25階を見上げて、呆れた溜息を漏らす。中身は甘いものだとばかり思っていたが、もっとたちが悪いものだったらしい。
24階の上が26階ではないかと疑った、空のその皮肉は――真実になってしまいそうだ。しかしこの雑居ビルに消火システムは満足に備わっているのだろうか。40階建てのビルのほぼど真ん中が爆発し、燃えているのだ。
「まったく、危ない仕事だったわね。知らないことは命取り、か」
空はひとり、肩をすくめた。
あのときの警察犬は、甘い匂いに混じった爆発物の匂いを嗅ぎ取っていたのだろうか。ステインドが言っていた『邪魔』は、あの犬を連れたイヌのことだったのか。
ともかく、今度ステインドから話を持ちかけられたときは、とりあえず用心することにしよう。もろとも爆破されるのは勘弁だ。……彼女はそれを心に留めた。
サイレンが聞こえてくる。屋台でナシゴレンを食べ終わったばかりの警官が、あたふたと無線を取り出した。警察犬は狂ったように吼えている。火に――そして、白い女に。
彼女はさっさと現場を離れた。
「ご苦労さん」
地上へ続くシャフトの入口で、空は雇い主と邂逅した。
ステインドはぷかぷかと天然タバコ(空には、匂いでわかった。高級品だ)を燻らせて、目を細めていた。目線の先には、街頭ワイドモニタ。60丁目で起きた爆発事件を伝えるニュースが流れている。
「危ないじゃない? あたしが開けたらどうしてくれるつもりだったの?」
彼女は足を止め、ささやかに抗議した。……目は、笑っていた。
「お前さんは開けない。俺は一応信じてやったのさ」
「あら、……嬉しいわね」
「どうだ、その辺で一杯?」
ステインドはようやく視線を空に移し、ちろちろとグラスを振る仕草をした。
『その辺で一杯』から、『その辺で食事』、『その辺で一晩』か?
「考えとくわ」
「俺は今夜誘ってンだぜ?」
ステインドのにやりとした笑みに、
空はにいっと笑みを返した。
今夜のこれからの行先は、彼女が決める。
(了)
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0233/白神・空/24/女/エスパー】
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ライター通信
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モロクっちです。大変お待たせしました。白神様、二度目のご参加本当にありがとうございます。今回もまたツァオウェイ・シティでのお話となりました。雰囲気を楽しんでいただけたら幸いです。
今回は能力を使う機会もありませんでしたが、ステインドにはかなり気に入られてます(笑)。お誘いを冗談と取るか本気と取るかは白神さん次第です。
それでは、この辺で。
またご縁があれば、アナザー・レポートの世界でお会いしましょう。
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