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君がひとりで泣かないように
からっぽの心と、からからに飢えた身体を抱えて。
気がつくと、瓦礫の中を、ただひたすらに彷徨っていた。
世界は、灰色だった。
全てのものを押しつぶすように垂れ込める薄闇、大地を埋め尽くす都市の残骸。
生きている人の気配は、ここにもなかった。
ただ静寂だけが、棲まう主を失ったかつての大都市の亡骸を覆い尽すばかり。
……そんな世界の中で、あたしは生きてきた。
逃げ出せるわけがないことは、あたしにもよくわかっていた。
だから、生きてゆくために、生まれながらに持ったこの能力を振るうことを、あたしはためらったりしない。
いつも、いつだって、そうやって生き延びてきた。
たった一人、滅びに満ちた灰色の世界に取り残された、ほのおの色の髪と、ほのおの色の瞳を持った幼い少女は、ただひたすらに歩き続けて、そして、現在のあたしになった。
――あたしの名はカペラ・アトライル。
発火能力を操る超能力者(エスパー)だ。
※ ※ ※
目が覚めるとそこは、一見してうち捨てられた廃墟としか見えない、崩れかけ荒れ果てたビルの一室。
コンクリートも剥き出しの薄汚れた壁、絨毯代わりに間に合わせのぼろ布を敷き詰めた床。あたしが身体を預けている錆びついたパイプベッドと、塗料の剥がれかけた木製のテーブル、携帯用のバッテリーと繋がった小さな冷蔵庫以外に、家具らしき家具もない。
わずかばかりの紙幣で借りることができる隠れ家(アジト)であることを考慮に入れても、あまりにも殺風景すぎる部屋。
窓ガラスすらない四角い窓穴の向こうに、いまだ復興の兆しさえ見せずスラム化した廃墟都市の光景が広がっている。そんな地表を仄かに照らすのは、漆黒の夜空に浮かんだ、血の色を思わせる紅い満月。そして、そのすぐ傍らを掠めるように斜めに夜空を貫く、白い一条の帯。かつて世界をことごとく破壊しつくした『審判の日』以来、この地球を覆うようになった『輪』の姿だった。
(あんな夢を……見るなんて)
ベッドから身を起こして、あたしは自らの頬に触れた。
指先が冷たく濡れている。
(もう涙なんて、枯れてしまったと思ってたのに)
そう自嘲げに胸の内で呟いた。
次第に、朦朧としていた思考が、ゆっくりと覚醒してゆく。
そしてそれと対照的に、それまで明確に脳裏に残っていた、先ほどまでの夢のイメージが、儚くも、まるで浜辺の砂に記された文字が波に洗われてゆくように、うっすらと霞がかった忘却の彼方に遠ざかっていくのがわかる。
覚えていたい夢ではなかった。
だが、忘れてはいけない夢のような気がした。
心の中に、苦い何かが広がってゆく感覚。
……そして、あたしはもう一度ベッドに横たわった。
この記憶が消えないうちに、もう一度眠りに戻ろう。
そうすれば、『あの場面』に戻って、『彼女』にもう一度会えるような気がした。
※ ※ ※
幸せだった記憶。
幸せだった時間。
そんな思い出はあまりにも遠く、手を延ばしても届かないような闇の彼方で眩い光を放っている。
かつては自分の手のひらの中にあったはずの幸福。
追いかけても、追いかけても、もう二度と手に入らない幸福。
微笑んでいたのは父だった。
抱きしめてくれたのは母だった。
二人の暖かい優しさの交わる先に、幼い日のあたしはいた。
嬉しくて、ちょっとくすぐったいような。柔らかい心の奥が、いっぱいに満たされていくような、そんな日々。
永遠に続くと思っていた、それが当たり前だと思っていた、幼い日のあたし。
それは、愛情の中に埋もれることを無条件に許された子供なら、誰しも抱く傲慢な幻想だったのかもしれない。
その幻想が打ち砕かれたきっかけは、よく覚えていない。
はっきりとわかること――優しかった父と母は、もうこの世界のどこにもいないこと。
滅びに満ちた廃墟の地にあたしを一人残して、二人は先に逝ってしまったのだということ。
たった一人になってしまった現実を自覚したとき、あたしは泣くことしかできなかった。
声をあげて、ただひたすらに、泣くことしかできなかった。
泣いて泣いて、泣き疲れて。
涙も声も出なくなった時はじめて、耐えがたいほどの飢えと乾きを感じた。
自分が人間という動物にすぎないことを、否応なく悟らされる瞬間。
生きなければ。
そして、あたしは歩きはじめた。
生まれて初めて、自分の足で。
生きる為には。
自分を満たすためには。
躊躇わず、立ち止まらずに、前へと走りつづけなければならなかった。
両親が与えてくれた血の恩恵か、それとも天により定められた宿命なのか――。
あたしの意志は、紅蓮の炎を生み出す力を秘めていた。
その能力を武器にあたしは身を守り、そして時に糧を得る力とした。
そして身体の飢えと乾きが満たされると――それまで気付くことのなかった、別のものに苛まれるようになった。
すなわち――心の、飢えと乾きに。
全身を包むのは、落ちているのか、それとも浮いているのか、定かではない感覚。
光ひとつささないその暗黒の果てに、あたしがずっと見守ってきた『彼女』の姿があった。
両膝を抱えて、たった一人で座りこんでいる、ほのおの色の髪と、ほのおの色の瞳の娘。
荒れていた、あの頃のあたし。
近寄る他者を拒絶するのは、失うのが怖かったから。
必死で膝を抱え込むのは、ぬくもりを感じていたかったから。
うつむいて顔を伏せるのは、弱さの浮かぶ自分の顔を、誰にも見られたくなかったから。
そして、そんな『彼女』の姿に、こんなに胸が苦しくなるのは……
あの頃よりもほんの少しだけ、あたしが大人になれたからかもしれない。
「また、会えたね」
あたしはそう言って、彼女に微笑みかけた。
彼女はわずかにあたしを見て、そしてまた顔を伏せた。
《放っておいて》
彼女は消え入りそうな声で、そう呟いた。
まるで全世界の孤独の全てを、その身に宿したかのような口振りで。
「寂しいくせに」
あたしはわざと苛めるような口調で、ぽつりとそう言った。
《寂しくなんかない》
「誰かにそばにいてほしいくせに」
《そんなこと、ないったら!》
顔を伏せたまま、語気荒く彼女が叫んだ。
その刹那、あたしと彼女を包み込むように、紅蓮の炎が渦を巻いた。
この頃のあたしも、今のあたしも変っていない。感情が昂ぶると、自分の意志とはおかまいなしに、炎を生み出してしまう。
……あの頃のあたしが何故あんなにも孤独だったか、今になってわかるような気がした。
そして、自分を変えられるのは所詮、自分だけなのだということも。
「あたしにはわかるよ、あんたのこと。痛いほどよくわかる」
あたしはそう優しく微笑んで、うずくまった彼女の髪に触れた。
びく、とその身体が一瞬震えて――しかし、それ以上の反応も、抵抗も、なかった。
「消えてしまいそうで、怖かった。自分が一人なんだってことを考えると――胸が張り裂けそうなほど苦しくなって、たまらなかった」
そしてその小さな身体をそっと抱きしめる。
「本当はこうやって、ずっと誰かに抱きしめてもらいたかった。ここに自分がいるんだってこと、必要とされているんだってことを、ぬくもりで感じさせてほしかった」
膝を抱えていた彼女の手が解けて、あたしの背中に触れた。
そしてしがみつくように、彼女の身体の重みが伝わってきた。
《……やっぱり、あたし、無理だよ。一人ぼっちでなんて、生きてけないよ……》
あたしの胸の中に沈んだ彼女の唇から、小さな嗚咽にも似た声がこぼれた。
「……カペラ」
ぎゅっ、とその身体を抱きしめる腕に、あたしは力をこめた。
「人は、一人じゃ生きていけない。けれど人は、一人で生きなきゃならない」
《…………》
「強くなりなさい、カペラ。孤独をねじ伏せられるくらい、強く。どうしても一人が辛くなったら、その時はまた、あたしがこうして抱きしめてあげるから」
あたしの言葉を聞いて、彼女は少し安心したように、こくりと頷いた。
その刹那――不意に、あたしは思い出した。
そう、あの頃のあたしもこんな風に、誰かに抱きしめられている夢を見たことがあった。
もうそれが誰だったか、よく覚えていないけれど――。
※ ※ ※
再び目が覚めると、窓穴の外からは朝の陽光が差しこんでいた。
まだ薄雲に覆われているが、清清しい白い光とまだわずかに夜の冷気を残した風が、荒れ果てた街を包んでいる。
頭が朦朧として、全身を気だるい感覚が包んでいる。
そして、喉がからからに渇いていた。
まだ完全に眠りの影響から脱し切れていない、おぼつかない足取りで冷蔵庫へと近づき、その中から水の入ったペットボトルを取り出す。蓋を開けてそのまま喉の奥に流し込むと、心地よく冷えた水が身体の中まで清浄に洗い流してくれるような気がした。
一気に中身を飲み干して――はあ、と深く息をつく。
何か夢を見ていたような気がする。
しかしもう、はっきりと思い出せなくなっていた。
――そう思える夢は幸せな夢なのかもしれない。
まだわずかに残っていた胸の奥の苦い気持ちも、窓から差しこむ朝の光の中に、いつしかゆっくりと溶けていった。
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