 |
ユメノ、マタ――ユメ
それは、いつか見た夢。
いつからか見始めた夢。
繰り返し…繰り返し…いったい何度見たことだろう。
そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えながら、彼の意識は深く深く沈んでいった――。
◇
腕に持つのは、ずっしりと重さのある厚い本。医学に通じる知識をより深める為、難解な語彙がびっしりと並ぶ文章を目で追う。
特に疑問にも思わず。
粉雪のように真っ白な髪を軽く掻き上げ、ずれた眼鏡を小さく直す仕種。自然なそれは、優雅というより儚げな印象を持つ。
褐色――というより、黒に近い肌の色をした青年の名は、キウィ・シラト。連邦所属のアイアンメイデンである。
とはいえ、彼自身が軍人という訳ではない。
ただ、サイバーメンテの技術力と医学の知識の高さを請われ、望まれるままに籍を置いているだけに過ぎない。元々、優しさに飢えていた彼は、声をかけてもらえる人なら誰だろうとついていってしまうところがあり、現在の地位もその結果のようなものだった。
つきまとう不安と、身を過ぎる絶望。
その二つが常に彼の中に存在し、今の性格を形成しているのだろう。
パラリ、とページをめくる。
と、そこで本は終わっていた。
キウィは軽く息を吐き、ゆっくりと本を閉じる。片付け、次の本を手に取ろうと腕を横に伸ばす。その場所には、何もない。本来なら手を離せば、重力により落下するはず。
だが、彼はなんの躊躇もなく本をその場所で離した。
すると、本が宙に浮かんだまま、まるでそこに棚があるかのように固定される。次いで、その本が静かに下へ移動していき、入れ替わりに新たな本が浮上してきた。それをなんの違和感もなく、彼はその本を手に取った。
そしてまた、黙々と本を読み始める。
静かな空間。宙に浮かぶ本。腰掛ける脚立の足は、その先がまるで見えない。
どこともしれぬその場所で、彼はただなんの疑問も持たずに本を読み続けた。
――と。
不意にキウィは顔を上げた。軽く眼鏡を直しながら、首を傾げる。
気のせいか。
そう思い直し、再び本へ視線を戻そうとした時。
――いつまでここにいるんですか？
声が――聞こえた。
ハッと顔を上げるキウィ。
「――…誰、ですか？」
問い掛けに応えはない。
そして、再び声が響く。
――いつまで…ここにいるの？
無機質な、だが、どこかで聞いたことのある声。
突き放すようでもあり。暖かく包みこむようでもあり。優しく語りかけるようでもあり。冷たくぶっきらぼうでもあり。
キウィは、脚立の上でゆっくり立ち上がり、ぐるりと当たりを見渡した。
白い、白い空間。どこまで目を凝らしても果てはなく、ただ本だけが浮いている不可思議な場所。
疑問は、ただの一点でも持ってはいけない。疑った瞬間、幻想は終わりを告げるのだから。
されど、彼は思ってしまった。
（私は……何故、こんなところに……？）
刹那。
足場だった脚立が消えた。目の前の本が消えた。
そして――世界が暗転、した。
◇
「――――――ッ！」
声なき悲鳴を上げながら、落下する感覚がキウィを襲う。
伸ばした腕が掴むものは何もない。空しく宙を掻くだけだ。
一瞬の恐怖。
ダン、という衝撃が背中に走り、落下が止まる。どうやら底へ辿り着いたらしい。
荒くなる息を整え、咄嗟の混乱の中でようやくそれだけを認識してから、彼はなんとか体を起こした。周囲を見れば、先程とは全く違い、どこまでも闇の帳が続いていた。
「ここは…いったい…」
そう口を突く言葉。
だが、彼自身にはもう解っていたのかもしれない。焦る気持ちと裏腹に、ひどく冷静な自分がいることも感じていたからだ。
それは、決して認めたくない事象。
慌てて首を横に振り、立ち上がろうと床に手を付いた時、ぬるりとした感触にびくりと腕を引っ込める。
「な…に……？」
ハッと掌を目の前に掲げる。
ぬるりとしたのは、何かの液体。濡れた指から雫が一つ、滴り落ちて床の水溜まりに撥ねた。
怯える気持ちを懸命に堪え、おそるおそる掌を近付ける。暗闇の中、ハッキリと判明しないものの、色は少し赤みを帯びているように見えた。
朱色の液体。
ゴクリと喉が鳴る。緊張に唾を飲み込んだ音だ。
ゆっくりと視線をずらし、床を見下ろしたキウィの視界に入ってきたものは――。
「ぁぁぁ――――ッッ！！」
絶叫が闇を裂く。
床一面に広がるのは、バラバラになった肉片――元は人であった、だろうモノ。朱色の水溜まりに浮かぶ数々の固まり。或いは、人の原型を留めたままの死体。
まるで気が触れたかのように、喉から絞り出すような叫び。気が付けば流れていた涙。
助けられなかった人々。見捨ててしまった仲間。
どれほどの技術を得ようと。どれだけの知識を詰め込んだとしても。
悲しみと、後悔の念が彼を苛む。自分は誰も救えない。人は、決して万能ではない。
だから自分は逃げたのだ。
あの、灰色の景色が広がる世界から、穏やかで静かな時を過ごせる『ここ』へと。
――ユメに…逃げるの？
再び、暗転。
◇
土砂降りの雨が続く。
バケツの水をひっくり返したような水のカーテン。向こう側は何も見えない。ずぶ濡れのまま、ぼんやりと佇んでいるキウィ。頬を伝うのは、果たして雨なのか涙なのか。
「…ど…して……」
放っておいてくれないんですか？
声はまだ聞こえる。
声は、ただ尋ねるだけ。どうしてここにいるの、と。
答えるのは、拒絶。
帰りたくない。帰りたくない。帰りたくない。帰りたくない……。
やがて、声に混じって別の音が聞こえてきた。最初は微かに。次第に大きくなり、やがては耳鳴りのようにキウィの中で響き渡る。
音――それは、自分の名。
自分を呼ぶ声。
軽く目を瞑る。
その心地よさに意識が微睡み始めた時、ようやくその声が誰なのかを思い出していた。それはキウィの一番大切な――――。
◇
浮上した意識で目が覚めた時、視界に広がるのは見慣れた自室の天井だった。
「ユ、メ……」
ぼんやりと呟く。
ゆっくりとベッドから起き上がり、窓の外を見た。うっすらと射し込む朝日に思わず目を顰めた。
ふと、気が付いて頬に手をやれば、そこは涙に濡れていた。慌ててゴシゴシを目元を擦る。
涙の理由を思い浮かべようとして、さっきまで見ていた夢の記憶に辿り着く。
が……。
「ええと…」
思い出そうとすればするほど、霞のように霧散していき、欠片すらも残らない。あるのはただ、ひどく悲しかった感情のみ。それすらも、時が経つにつれて風化していく。
結局、キウィは思い出すことを止めた。
軽く溜息一つつき、最後に残った思いを振り払う。
「夢は…ただの夢、ですしね……」
呟きは、朝の光の中に消えていった。
【END】
|
 |
|
