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夏祭り−風と蛍と−
●縁日
日本の夏の祭。
古くから農民達の間で行われてきた季節の行事で、晴れの日である。
今では形骸化してしまい、ミニ浴衣だの、一夏の思い出だのと、三文小説のお題にさえならない恥ずかしくも陳腐な存在に成り下がっている場所もある。
そんな中でも、大都市を外れれば静かに社に祀られた存在への感謝を忘れることなく慎ましく開かれている夏祭りもある。
喧騒とは程遠い、疎らに出ている縁日の屋台。少子化の進んだ今、走り回る子ども達が少なく見えるのは気のせいではなかった。
「‥‥子どもか、あいつは‥‥」
溜息混じりで、母の準備してくれていた紺色の浴衣を腕まくりして歩く和紗束紗。
彼の下駄の音を聞きつけたのか、薄い藤色の浴衣の袖を揺らして、和紗久遠が危なげに駆けてくる。
「転んだって、知らないぞ?」
履き慣れてないだろうと、久遠の足元を見る束紗を余所に、久遠は上機嫌で兄の手を取ってはしゃいでいる。
「ねぇ、金魚すくいがあるの。久しぶりに、金魚を捕ってよ。ね? ね?」
見上げられた緑の瞳に弱い束紗。
不承不承という風情だが、彼が『悪い気はしていない』事を久遠は勿論知っていた。
着慣れないのは束紗の方だったが、それは敢えて言わないでおく。腕の数珠を鳴らしながら、麩で出来た杓を渡されるとすっかり本気になる束紗。
「さてと、どいつから‥‥」
「アレ、あれがいいの! 奇麗なあれ!」
指さされたのは少し明るい赤の琉金(リュウキン)だった。ずんぐりした体型で、横から見ると少し変形した円のように見える。体色は赤一色のものだが、他には赤と白の更紗もいるのに、尾の先まで赤いのは久遠の指さしたそれだけに見えた。
大きな尾びれと尻びれが、横から見ると奇麗に広がって見える。
(奇麗、か? これが‥‥‥?)
我が妹ながら、女性の美的感覚は判らない。
和金の方が、フナの形に似てスマートで良いじゃないかと思うのだが、どうにも久遠は水中で揺れるヒレの広がりに魅了されているように見える。
「まぁ、いいか‥‥お姫様のご所望だからな‥‥」
ずり落ちてきた裾をたくし上げ、臨戦態勢で臨む束紗。
相手の速度は武道の猛者よりは鈍い。
だが、水という視認には若干障害となる要素を含み、入水角度によっては麩の耐久度の劣化、及び崩壊を招きかねない。
慎重に、慎重を重ねて‥‥束紗が挑む訳もなく。
「せいっ!」バチャーーーーーーーーーーーーン!
シャリッツ
「‥‥‥」
「‥‥(凄い客だな)」
・
・
・
ピチョッ、ピチョッ、ベチャッ
叩き込まれる麩の杓、水面に当たった瞬間に針金との接触面から割れて、水を吸った麩は持ち上げると水滴を2,3滴落とした後に自らも金魚たちが散り散りに逃げ去って水だけになった束紗の眼下に落ちる。
「チッ。おっちゃん、もう一回!」
妹の呆気にとられた表情を見ているのは、露店の親父だけだった。
縁日で並んで歩く久遠の手に、束紗が孤軍奮闘した後で何とか入手できた金魚が一匹。
露店を出していた人物からしてみれば、この不景気に遊んでくれる酔狂な‥‥しかも周辺へのアピールもバッチリな上に払いの良い上客はここ数回の縁日周りでも居なかったのだろう。
麩の刺し方を変えて、微妙に手心を加えてくれなければ、束紗は今日の軍資金を使い果たしていたかも知れない。
戦利品というには、過ぎる位に多大な資金の投入と、精神的に追い込まれた時間を過ごした束紗だったが、得られた成果は充分に彼を癒してくれた。
「おーい。あんまりはしゃぐと、迷子になるぞ?」
先に進んでいた久遠に声をかけて、腰の帯に挿していた団扇で涼を取る。
普通、藤色の浴衣は人の中に埋もれて消えてしまいがちなのだが、束紗は久遠だけは見失わないと言う自信があった。
久遠が常着に和装を好むだけに、男の束紗には表現しにくいのだが‥‥他の者達とは着こなしが違っていると、感じていた。
「ま、俺とは違うか‥‥」
着せ替え人形かと、自分の出で立ちを見て思う。
流石に浴衣を準備してくれた母には言えないのだが、鏡の前に立つと一目で借り物を着ている奴と、自分自身で指さして言い放ちそうになる。
「素材の違いだろうかね‥‥愚兄賢弟‥‥この場合、愚兄賢妹か‥‥?」
言い得て妙だと、ガラス細工を覗き込んでいる久遠の横顔を見つめながら思う。
「いやまて、種も畑も同じな訳だ‥‥」
多分に失礼な自問自答をして、心の中で母親にだけは手を合わせると、束紗は久遠と共に人混みを避けて帰宅の途についた。
ほんの少し時間をずらしただけで、縁日から外れると人の流れを遡って歩くような混雑から解放される。
涼しい風に誘われて、風と月と水の音だけがする河川堤防の道を歩いていると、先程までの喧騒が嘘のようだった。
「ん?」
久遠の肩越しにせせらぎを聞いていた束紗が、ふと目をやった川の縁に光るものを見つけた。
目をこらし見つめる束紗の視界に、ほんのり浮かんだ光が消え、また少し離れた位置で見えるか見えないかの薄い輝きが一瞬浮かぶ。
「こんな川に?」
「どうしたの?」
束紗が立ち止まって見つめている先を一緒に見ても、久遠には夜の闇が勝つのだろう。見つけられないでいる久遠を誘って、川縁にまで降りて行く。
「どこ?」
「静かに。ほら、そこだ」
束紗に説明を受けていても、なかなか見えない光に眉を寄せていた。
その横に立っていた束紗が指さす先に、確かに明滅するほのかな明かりを認めた久遠が破顔する。
「奇麗ね」
「ああ‥‥」
話だけの存在だった蛍を間近に見て、ある種の感動‥‥感慨が湧かない訳ではない。
だが、それにも増して今ここにいるのが久遠だという事を束紗は己自身に言い聞かせていた。
「まぁ、俺は良いか‥‥」
呟いた束紗に、蛍の儚い輝きを見続けていた久遠が彼を見上げて緑の目を丸くしている。
「え? なぁに?」
久遠の言葉に、微苦笑するしかない。
ただ、今のこの瞬間に珍しくも美しい存在に触れて久遠は感動している。
矢張り、そこは女の子なんだなと感心していると声に出していないのに久遠の視線が幾分冷ややかなものになる。
「エッチ」
「‥‥見えないってば」
着慣れない者が浴衣を着れば、確かに前屈みになった胸元を覗き込む事も出来るだろうが、久遠はその辺りでミニ浴衣に興じている『今時』の女の子と比較など出来ぬ程に和装に親しんでいる。
「見えたってな、喜ぶと思うのか?」
ほんの少し、悪戯心で返した束紗に即答の久遠。
「うん」
そそくさと胸元を押さえて、上目使いで束紗から距離を取るように‥‥しかし、実際には幾分も離れていない、微妙な距離は彼女の吐息まで束紗に届けるものだ。
「‥‥いや、あの‥‥」
じっと見上げられた上に、ほんの僅かに染められた頬の色を見て束紗の方が混乱した。
「いや、だから、な?」
「やっぱり、エッチな事、考えて‥‥」
「ちが‥‥!?!」
慌てて否定しようと考えれば考える程に言葉に詰まり、その挙動不審な状態が自分でもおかしいと思えるというアリ地獄状態。
「‥‥ふ、ふふん。そ、その手には乗らないぞ」
裏返った声で言っても何の説得力もないのだが、取り敢えず兄の意見を聞いてみようと、わざと胸元を隠すような姿勢を強調しながら首を曲げてみせる。多分、上げてある髪の裾から襟足と背が見えるだろう事は計算済みだ。
「‥‥ぁ」
「‥‥なに?」
一瞬だが、束紗の吐息を久遠は聞き逃さない。
微妙に、束紗に身を寄せるようにして‥‥気付いていないふりで束紗の視界に自分のうなじから稜線を描く背の白い肌を入れるようにしてやる。
「‥‥あーだからだなー。腹減ったから帰るぞ?」
少し乱暴に踏み出した足音。
それが水面に響いて、一斉に燐光が舞い始める。
「奇麗‥‥」
まだ明かりの多い場所だから、蛍の光だけが浮かぶ訳ではない。それでも、辺りに浮かぶ光が久遠を取り巻いて星の様に輝いている。
何度も想像していた、聞いていただけの両親の‥‥最初に想いを交わした時の光景。
何故か急に思い出された、夢だけで見続けていた光景が、今、目の前にある。
「いつか、私も‥‥」
二人が居たからこそ、今ここに自分が居るのだ。だが、そんな不思議と、過去の現実に対して久遠は羨ましいような不思議な気持ちになる。いつかそんな人と出会えるのだろうか、と。
燐光を見つめながら息を飲んだ久遠を見下ろして、束紗は溜息で肩を落とした。
自分が両親の馴れ初めを知っているという事、それを久遠が判っているかは知らないが、純粋に恋人達の風景を思って喜べる久遠と、己の心の違いに苦笑するしかなかった。
束紗には、蛍と、両親の話から思い浮かぶ幸せな肖像に対しての羨望‥‥そして一種の劣等感があった。
確かに歪んでしまっているその想いは、幼馴染み達の幸福な光景にも感じた心の中のどす黒い一点の曇りだ。
決して久遠には気付かれたくない、持って欲しくない想いだった。
「その心配も、無い、か‥‥?」
したたかさもあるしと、心で付け加えて歩き出す。
何よりも、自分が囚われた負の感情を久遠は比較的持ちにくい。浮かんだとしてもそれを受け入れて消化できる様に思えた。
ただ、不要な重荷を背負って欲しくないと思うのは兄の常。同時に、自分が妹を心配しているだけなら害はないしなと、自己完結して彼を追って歩き出す久遠を待つ。
涼しさを含んで吹く風に、火照った頬を撫でられて束紗は遠くに蛍の居た場所を見下ろしていた。
この距離からでは見られない、しかしそこに実在するものがある。
「あっても、良いよな‥‥俺に見えないものが‥‥」
独白して、久遠と共に歩き出す。
共に何時まで歩んでいけるのだろうかと、たわいない会話の裏で静かに思い、そして願わずにはいられない束紗だった。
――どうか、人の愛と信頼を‥‥に――
【おわり】
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