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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


partial eclipse of the moon

──目に余る程の、月の光。

 お互いの刃が駆け抜けた後、動きを止めた朱理の身体が大きく傾いた。一瞬の後、目の前で何かが大きく弾ける。
──……え?
 一瞬間、意識がぐらついた。視界は、空。
 ……ああ、今、自分の身体が傾いで仰け反っているのだ、と気付いた時にゆっくりと朱理は地面に墜落した。ふわっ、と土埃が、……翻った袴と短外套の裾や襟元の毛皮が、前髪が、……鮮血が、舞い上がり、ぱらぱらと降り注ぐ。傷みは感じない。
──夢を見ているようだ。
 そっと、右目に手を当ててみる。そんな自分の動作さえ、ゆっくりと、緩慢に漂っているように感じられた。
 視界が紅くぼやけた。その間から滑り込んで来る月の明かりが、酷く眩しい。
 熱い鮮血に触れている筈の指先が冷たいのは何故だろう。
──……これが……、……。
 死の間際には時間がゆっくりと流れると云う。眩しい光の中で懐かしい景色を見ると云う。
 死ぬかもしれない、と思っても朱理には何の感慨もなかった。月明かりは酷く眩しいが、朱理には走馬灯のように現われる懐かしい景色さえない。
 ざく……、──ざく……、と、ゆっくりと、一歩一歩歩み寄って来る足音が耳の奥で聞こえた。
 あまりにも視界が眩しくて、朱理は目を閉じた。そこで朱理の記憶は途切れる。──、だが、その刹那に、その紅く眩しい視界を駆け抜けた黒い影が現われたような──気が、する。

──……レオ……?

「あ……」

──。

「……、」
「ああ、気が付いたね」
 瞬こうとして、顔の右側に軽い鈍痛が走る。手を触れると、固い布の感触にぶつかった。そのまま指先を滑らせて、右目から額にかけてが覆われている事を認めた。包帯で堅く巻き固められた右目の感触は、確かめようもなかった。
 男の声が、無理に起き上がらない方がいい、と告げる。朱理は固い寝台に仰向けたまま視界を周囲に走らせた。
 元は白だったらしい、亀裂が走り、風化したコンクリートの壁、天井、旧時代の発光灯は薄暗い。その場所には見覚え無かったが、男の声と気配は記憶にあった。
 朱理は改めて右目を固く覆っている包帯に触れた。
「右目は既に摘出した。処置の仕様が無かったからね」
 そして、やはり覚えのある男の姿が視界に入った。単調に事実を告げる、冷たい程に落ち着いた声。対して、段々とはっきりした感覚を取り戻しつつあった朱理の意識も同じく冷静だった。
「また……あなたに助けられましたね」
 男は含み笑いを浮かべた。
「あれから5年経ったか。──血塗れで僕の許を訪ねて来たのは君ぐらいだよ。僕の所へ流れて来るものと云ったら死体だけだからね」
 さも可笑しそうに笑っている。朱理は最後の記憶を辿り、自分の命が助かったことを再確認した。あの刺客と刃を交え、そして右目を失う重症を負った。だが、そこで意識を失った自分をそのまま刺客が生かしておくとは思えない。……ということは、助けられたのか。
 ──朱理が迎え撃ち損なう程の相手に向って行ったとなれば……。
「……」
 物問いたげな朱理の視線から意図を読み取ったらしい男は微笑を浮かべたまま頷き、壁を隔てた隣室に視線をやった。朱理もまたそれに誘われるように不自由な視界をそちらへ向ける。……確かに幽かだがレオの気配が感じられた。
「君の相棒なら大丈夫だよ。一時間もしない内に傷が完全に塞がってしまった。……あれには正直驚いたよ。今まで色んな奴を見てきたがあんな化物を見るのは初めてだ。傷口から中を見てみたが人間のものとはまるで違う。あんまり珍しいんでサンプルを取らせて貰ったよ。あと写真もね」
 途中から男は真顔になり、最後に云った事を示すように手にしていた書類をちらりと持ち上げた。
 サード・レオ。失敗作のハーフサイバーとは云われても元の実験が実験なだけに、それでも特殊であるには違いない。
 見るかい、と真剣な表情のまま男は云い、壁に掛っていたブラインドを上げた。朱理は注意しながらゆっくり身体を起こし、寝台を降りて男の横に立ってガラス窓を覗いた。
 隣室は全く暗かったが、それでも同じような室内と、そこに横たわって眠っているレオの黒い装甲に覆われた身体が見えた。──朱理が迎え撃ち損なう程の相手に向って行ったとなれば、無事では済まなかった筈だが今のレオには酷い外傷は確認できない。寧ろ、ガラスに映った朱理の方が重傷に見える。朱理自身はそこで右目を覆っている包帯の存在を目で確認したに過ぎなかったが、華奢で、白い美しい顔に片方だけ赤の瞳を残し、半顔を包帯で覆った朱理は脆弱で痛々しく見えた。だが、朱理はさして気にした様子もなく元へ戻って寝台に腰掛けた。
 男は暫く隣室を見つめてからブラインドを元通りに閉じ、朱理に向き直った。
「それにしても、少し意外だったよ。初めて君を見た時から、君は誰とも慣れ合わないと思っていた」
「慣れ合う?」
 朱理は皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「否定したそうな表情だね」
「別にそうは云いませんよ。彼と連れ立っているのは事実ですから」
「あくまで行動を共にしているだけであって、他人を信用している訳ではない、と」
「少なくとも、彼は信用に値する能力の持ち主です」
「……なるほど、そういう訳か」
「何がです?」
 男は顎をしゃくって朱理自身の傷付いた身体を示した。
「……こんなになるまで刃を振るって来た程、他人への情などどこかに捨ててきた君が、その一方では傷ついた身体を彼に安心しきって任せていたから、不思議だったのさ」
「……安心していた訳ではありませんよ。失うかもしれない物を心配した所で、何が始まる訳でもないしょう?」
「……そうかもしれないな。だが、普通はそうは云ってもなかなか君のようには身軽にはなれないものだ。……気の毒になってきたね、彼が」
 朱理は首を心持ち傾いだ。
「案外、彼の方が君ほど割り切ってないかもしれないよ。そうでなければ、ああも深手を負いながら君を見捨てずいられたものか」
「……何の道、それはあなたには分からないことですよ。他人の事など理解できないのは、私も同じですけど」
 負けた、というように男は深く息を付き、苦笑した。
「……さて、これからどうするつもりだい?」
「……、」
 声をかけた朱理は残った左目をやや伏せ、小さく笑っている。その表情がさあ、どうするでしょうね、と云っていた。落ち着き払っている。そんな事は別に重要ではない、か。
「……今日はもう寝た方がいい。目だけじゃない、出血が多くて身体の方も相当衰弱していたんだ」
「あなたは……」
「今度は勝手にいなくなるよ」
 そう、戯けたように笑って見せ、肩を竦めてから男は腕を組むと壁に凭れた。朱理の方も、出血多量による貧血なのか張り詰めていた意識の糸が断たれたのか、不意に目眩に似た脱力感を覚えてそのまま寝台に横たわった。

 再び朱理が目覚めた時には予告通り男の姿はなかった。代わりに傍らに在ったのは──。
「──……レオ、」
 全ての傷が一時間で完全に治癒したと男が云っていた通り、レオの黒い装甲にも、内に秘められた活気にも傷は見受けられない。朱理が眠りに就いた後、いつ男が姿を消したのかは分からないが──ずっと、見守っていたのだろうか。
 朱理は寝台から身を起こし、レオを見上げた。
 ──今、レオの目に傷を負った朱理の顔はどんな風に映っているのだろう。
「……」
 紅い瞳が見つめあう。同じ色彩の強い煌めきを持った視線が同調したように見えた。
 徐ら朱理は立ち上がり、傍らに重ねて置いてあった短外套とナイフを身に付けた。身体に触れる物体と視界の間に、幽かな違和感がある。視界が片目に拠った世界では立体感が失われる。
 だが、それもきっとすぐ慣れるだろう。何も問題はない。大した事ではない。
 辺りはまだ暗い。だが、殊更のんびりする必要もないだろう。僅かに陰った月の明かりもあり、傍らに付き従うレオには闇は障害にならない。
「……行きましょうか、……レオ」
──これからどうするつもりだい?
 男の言葉が蘇った。どうする? 分からない。だがそれは今に始まったことじゃない。ただ、今という刹那を絶えず歩み続けるだけだ。──彼と共に。

「──風道朱理、そしてサード・レオ……三番目の獅子、か」
 男は二人のカルテを手に、目を細めた。闇の中を徘徊するストリートドクターという職業上、一度回ってきた患者の生きた姿に再び遇う事は殆どない。5年前に命を助けた朱理は再び生きて自分の許へ流れて来た。それだけでも驚いたというのに、更には──。
「片目を失った美貌にして感情の欠落した少年と『失敗作』……か……。……面白い、ね。全く興味深いよ、彼ら」
 二人が今後どう歩み、どんな境遇となるか、男には大いに興味がある所だが、彼らならばまた遇う事もあろうという予感があった。彼らなら──。
 ふと、男は口許の笑みを消し、窓の外に視線をやった。
「あの二人は……『欠陥品』、かな? ……それとも……」

「──死んで呉れますか?」 
 にっこりと、美しい口許が花びらの開くように笑みを浮かべる。その華は、次ぎの瞬間に舞い散った紅い花びらの中でも硬質の美しさを崩すことなくそこに在った。
 それまで闇に潜んでいた黒い装甲のハーフサイバーが死肉に喰らいつく。獲物の顔は恐怖に引き攣ったままだったが、やがてそれはすぐに形を無くした。
 いつの間に切れたのか、少年の額から右目を覆っていた包帯が解けて前髪と共に彼の視界の端を流れた。少年はその端を押さえてつと顔を空に向けた。風が吹いている。煽られた包帯と前髪の間に見える、紅い光と笑みをたたえた口唇は美しく、いつかと同じような月の光を浴びて仄かに輝いていた。