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add a subtle touch to a dish
「先生、コレじゃがいもやあらしまへん……」
「じゃがいも以外の何だというんだ?」
楓早良はタマネギを刻む手を止め、隣の流しでじゃがいもと格闘していた兆ナナシに視線を向けた。
「……なんですやろ」
その掌の上、原型を……失ってはいないが、甚だしくミニマム、なじゃがいもがちょこんと乗っていた。
被害はそれだけに止まらず、スイカの如くに皮と身の縞模様になった代物やら、凸は向けても凹はそのまま、に歪な水玉模様やら…様々な作品、が水を張ったボウルの中で泳いでいた。
勿論、調理に向く筈がない。
そしてそれ作成した主がほろほろと涙を零しているのに、早良は呆れの息を吐く。
「何も泣かなくてもいいだろう」
「や、でも先生……」
ぐいと腕で瞼を拭ってそのまま、涙を塞き止めようというのか強く押さえつける。
「めっちゃ目ェ沁みよるんですけぃど……」
勿論じゃがいもに罪はない…それは早良が前にしたまな板の上で、細切りにされたタマネギが発する刺激で、痛みを誘発する成分を洗い流そうとする生理現象は、少年の目から絶えず涙を溢れさせていた。
幾度も目を瞬かせるナナシに、早良はその下瞼を親指で緩く押さえて内側を診る。
「お前、目の粘膜弱いんじゃないか?」
「………ッ!!!」
直前まで…事の発端であるタマネギを刻んでいた手でそんな真似をされれば当然、身体の反応は顕著で、沁みる以上の刺激に涙腺はぶわりと涙を溢れさせた。
「センセ、痛い痛いイタいッ!!」
「お、スマン」
当然すぎる主張に指を外せば、ナナシはティッシュを求めて居間に駆け込んでいく。
少し足音が乱れるのは、まだ左足のサイバーパーツが使いこなせていないせいか…けれど速い。
一呼吸の間もなく、遠慮のない鼻音が響き渡るのに、いっそ感心する。
左の腕の付け根、足はその半ばから。
末端から拡がる組織の壊死がそれ以上拡がらぬよう、切除手術を執刀したのは早良だった。
よく、死ななかったと。
正確には拾われ…もとい、保護されるまでの間に、命を手放してしまわなかったものだとそう思った。
人の、生きた組織が骨まで炭化するような熱、それによく耐えたものだと。
研究所と思しき不審な施設がある…その情報に、エヴァーグリーンが調査に赴いた先で、彼は発見された。
ただ、目的の位置にそれらしき建物はなく、それどころか繁る森に2kmに渡ってまるでクレーターのような破壊の中心に、彼は倒れていた。
原因は不明、だがそれを彼が為した、可能性はあまりに高い。
ほぼ100に近いパーセンテージで、エスパーであると推測されるナナシだが、今やそれを確かめる術はない。
損なった身を機械で補えば、エスパーは能力を失う。
そして命の代償のように、彼は保護されるより以前の記憶を持たない…ナナシの『名無し』たる所以である。
新しい名と新しい手足と新しい生活と。
全て、他者から与えられた物で、普通ならば先ず混乱が先に立ちそうだが、ナナシは不思議と馴染んで、それどころか持ち前の人懐っこさを過分に発揮しすぎてこちらが戸惑う事すらある。
「まぁ本人が元気ならいいが……」
早良はタマネギを刻む手を再開しながら、ふと眉を寄せた。
だが、人の心はそう単純ではない。
外科治療からエスパーケアまで多岐の資格を有するに、医師としての意識が強い早良はふと懸念を覚える。
笑顔の内側に負の感情を秘めて、自分を追い詰めるような事がなければいいと思う。
「うあー、タマネギえらい沁みよるんですねぇ」
ティッシュの箱を抱えて鼻をぐしゅぐしゅ言わせながら、ナナシがキッチンに戻ってきた。
まるでそれを初めて知った…否、正確に初めてであったろう経験にまだ瞼を少し腫らしてしょぼつかせている。
「なんで先生は平気なんですか?」
子供めいて首を傾げる様に、切ったばかりのタマネギを差し出した。
途端、一歩引くのに苦笑する。
「一欠片、囓っておけば匂いに慣れるからそんな酷くは沁みんもんだ。ナマでも平気だから食っとけ」
「そーなんですか?」
言われて素直に、タマネギを銜えるナナシ…差し出した早良の手からそのまま囓るのに、早良は嘆息した。
「……自分の手で食え」
「あ、えらいすんまへん」
ぱちくりと金の目を瞬かせ、ナナシひょこんと頭を下げかけ、不意に左の重心を失ってがくりと膝を折った。
「うわ、びびったぁ……まだちょいゆう事きかんみたいですねぇ」
咄嗟、壁に手をついて転倒を免れたナナシは、照れて頬を掻く。
「無理はするなよ?何なら後は皿を用意して休んでいたらどうだ?」
サイバーパーツと身体を適合させ、自分の手足とする為、ひたすら使い込むリハビリの期間を終えたばかり、それでもまだ慣れない様子が窺えるのに気遣う。
「えぇ、けんどお手伝い、途中で放り出すんはあきまへんやろ」
首を軽く振って辞退すると、ナナシはまた果敢に包丁を握った。
「水無瀬はん、何時頃に戻って来はるんでしょ?」
壁にかかった時計を気にして見上げるのに、自然と口元が笑いを刻んだ。
「昼時には戻ると言っていたから、後二時間、くらいじゃないか?」
「それまでに出来ますやろか……」
はかばかしくない進行状況…最も、それはナナシの受け持ちだけで早良の分担は着々と進んでいる。
人参の乱切りを終えた早良は戸棚から大鍋を引き出しながら、ナナシを安心させる為に請け合う。
「カレーなんぞ、さして難しい料理でもないからな。材料さえ刻めれば、後は煮込むだけだ。これだけ時間があれは十分だろうよ」
時間の余裕は、手間取るのを見越して準備を始めた早良の慧眼であった。
待ち人は任務でプラハを離れていた為、実に二週間ぶりに顔を見る事になる。
「お前、真咲の何処がそんなに気に入ってるんだ?」
早良の問いに、ナナシはにこりと笑う。
「初めて見たんが、水無瀬はんやからです。そいで初めてナナシて呼び掛けてくれはったんもあんお人ですし……あ、でも先生がくらはった兆、ゆう苗字も気に入ってますえ?」
何度目からしれぬ謝意にてらいなく、早良は苦笑した。
「分かった。だがそろそろ手を動かした方がいいぞ?」
促す早良にナナシは包丁を握る右手に力を込めた。
「あんじょう気張ります!」
宣言に、最後まで自分でやり遂げるつもりでナナシは新たなじゃがいもを左手で掴む…が、意気込みがすぎて握りつぶしていた。
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