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<アナザーレポート・PCゲームノベル>


<px006> destroy my inner man

【0】

 朝、キウィ・シラト(きうぃ・しらと)が寝室を出ていくと、少女の姿が無いのに気付いた。
 感覚的な不安がまだぼんやりしていたキウィの神経を叩き起こした。
 研究所中を捜し回り、もしやと思って窓の外を見ると、果たしてそこに彼女の背中を見つけることができた。
 キウィの気配を察知したのか、声を掛ける前に彼女は微笑みながら振り返った。
 柔らかい陽光が緑の間を縫ってこぼれ落ちる中、穏やかな時間が流れているように見える。
 こぼれ落ちた光を受けて、晴れやかな笑顔を浮かべる少女の痩せ細った腕の中には真っ白い羽毛のような雪兎が大人しく抱かれていた。
「おはよう、キウィ」
「……大丈夫なんですか、起きたりして……」
 昨日よりもまた痩せてはいないか。
「心配したんですよ……」
「ごめんなさい、一緒に外が見たかったんだもの。……ほら、お帰りなさい」
 そう云って少女は兎をキウィに抱かせた。──心配したのは、兎の事じゃない。
「起こしてくれれば、私が──」
「だってあんまり気持ち良さそうだったんだもの。それに、起こしたって眼が覚めたかどうか怪しいものだわ」
 そう揶揄かうように云い、──常からのことだが、──はだけたままになっているキウィのシャツに手を伸ばして丁寧に一つ一つボタンを留めて行った。
「いいんです、このままで」
「駄目。お葬式の時位ちゃんとした格好をするものよ」
「葬式、──」
 意味を問いかけたキウィははっと口を噤んで少女を見た。──やけに今朝は生き生きとしている。まさか、──最期に、残った命が最大限に燃えている故の輝きではないか。
「……縁起でも無い事を、」
「……お願い」
「何を、」
「……パヴァーヌ、弾いてくれるでしょう、」
「……、」
 キウィは待ってて、と云い、研究所の中へ駆け戻った。──こんな時に何を、というべきではない。きっと、これが少女の最期の望みになるのだ。最期の瞬間、もっと長く生きることよりも何よりも、キウィのギターを聴く事を望んだ彼女に応える為、キウィは自室に置いていたギターを取って引き返した。
 少女は傍らの兎と一緒に待っていた。調弦を行っている間に、彼女が「今日はよく乾燥してるわね」と嬉しそうに云った。
 木製のボディを持つ弦鳴楽器にとって、湿気は音の抜けを格段に妨げる宿敵である。ここに来て、毎日のようにキウィのギターに耳を傾けていた彼女は、ある雨の日にキウィが「今日は音が響かない」と残念そうに呟いた事を覚えていたのだろう。
「……、」
「どうしたの?」
「これで……本当にいいんですか、今なら、まだ」
 衰弱して行く少女に、サイバー化することが可能だ、と云った時、彼女は断った。だが、本当に良いのか?
今なら、まだ間に合う。そんな時に暢気に音楽などを聴いていていいのか?
「あたしは今、何よりキウィのギターが聴きたい」
「音楽……嫌いにならずにいてくれたんですね」
 少女は微笑みながら頷いた。

【1】

「こんなもん、一体、何に使うんだ」
 こういった物はないだろうか、とキウィが切れたナイロン弦を見せるとジャンク屋の青年は不思議そうな眼で首を傾いだ。
「あ……ええ、楽器の弦に使いたいんですが……」
 青年はふーん、と考え込みながら何かを云いたそうな視線を彼に向けた。
「こんなもんが楽器になるのか? ……楽器って、モノは何よ」
「ギターなんですが……」
 青年の視線が気になりはしたが、キウィはそう答えた。
 キウィは器用な手先を活かして自分で作ったギターを持っている。いくら器用とは云えそう簡単に良い楽器を素人が作れる訳ではないが、この時勢では仕方あるまい。何しろ、天変地異や環境異変に相次ぐ戦禍、そうそう楽器などがそこら辺に転がっている訳はないし、色々な物を世界中から見つけて来る旅の行商人ですらそんな奇特なものを掘り出して来る人間はいない。
 楽器は弾きたい、……が、肝心の楽器がないとなれば自分で造るしかない。キウィは、それ自体が稀少価値の板材を削り出し、工夫を重ねて見事にギターを造り上げた。ボディはできたが、肝心なのは弦である。一番望ましいのは暖かみのある音色が出せるガット(腸)弦だが、羊の腸など今時木材以上に入手は困難である。では、スチールはというと、一番現実的な素材ではあるが、ただワイヤーを張ればそれで良し、とは行かない。コイル構造にしなければならないからだ。残った可能性が、ナイロン弦だった。これはシングルでそのまま使用することができる。ピッチに合わせて割合太目のナイロン糸に多少の加工を加える事位は、キウィになら出来た。それで、必要な時々にガラクタ屋に顔を出しては適宜調達している。今日も、急に迫らせた訳ではないが最近この街の片隅で「下らない物を何かしら並べている奴」が居る、と聞いて一応、出向いてみた訳だ。
 生憎の長雨、湿気に敏感なギター自体は持ち運べなかったが、割合暇にしていた所だ。
「悪いけど、今んとここーゆーもんはねえな。ま、また覗いてくれよ。手に入る事もあるかもしんねえしさ。……しかし、」
 キウィにナイロン弦の切れ端を返しながら、青年は苦笑いした。
「……一瞬、焦ったよ。まさかピアノだなんて云われたらどうしようかと思ってな」
「……何故です?」
「あ、あんた知らねえか、あの廃屋のピアニストのこと」
「……、」
 呆然としたまま、然しピアノ、と聞いて興味を示したキウィに青年は意味深長な口振りで話し出した。
「この街にな、一昔前の屋敷が残ってるんだよ。ま、今じゃ廃屋同然でジャンク屋だって入るだけ骨折り損ってとこなんだが、ピアノが残ってたらしいんだな。半分腐りかけてる奴で誰も見向きもしなかったし、たまに入り込んだ子供が悪戯に弾いてとんでもない調子っ外れの騒音を立ててた位の代物さ。……、お、興味ありそうだな」
「ええ……、」
 ピアノか……。腐りかけているとは云え、それはつまり電子ではなくアコースティックのものなのだろう。可能なら見てみたい。
「……だがな、やめとけ。その辺で街の人間に聴きゃ分かるさ。近寄らない方が身の為だ」
「何があったんです……?」
 青年は少し表情を険しくした。
「云ったように、ピアノったって遊び道具にもならねえような代物だったんだ、それが、1ヶ月程前、その廃屋からまともな音楽らしいピアノが聴こえたって噂が立ってな。しかも、聴く人間にとっちゃえらく惹かれるような見事な演奏なんだとさ。それで、わざわざ聴きに行く奴が何人か出てきた。……で、全員、戻って来た時にはイカれちまったんだよ」
 キウィは赤い兎のような目をぱちり、と瞬かせた。
「……どういう事ですか」
「つまり、ここ、」
 ここ、と云って青年は自分のこめかみ辺りを指し、「ここがおかしくなったんだ」、と、にやりと笑った。
「それ以来、その廃屋には何かの妙なもんが住みついてるなんて噂が立ってな、今じゃみんな気味悪がって近づきゃしねえよ。……幽霊、なんてな」
「幽霊……」
 何とも時代錯誤な言葉だ。だが、キウィはもうそこまで話を聞いた時点で行ってみよう、という気になっていた。
「……どこです、その廃屋──」
「あァ?」
 屈み込んで何か作業を始めていた青年はやや呆れたような顔でキウィを見上げた。
「……物好きだねェ、やっぱり行くのかよ? 教えてもいいけど、俺は知らねえぞ、どうかなっても責任取らねえからな」
「構いません」
 キウィは微笑んだ。青年ははあ、と溜息をつき、あの建物を右へ──、と説明を始めた。

 雨が、一段と強くなっている。

【2】

 ややして、キウィは目的の場所に辿り着いた。
 石畳が黒く濡れている。──その廃屋と化した建物も、同じ色に染まっていた。
 廃屋、と云ってもこの街の他の建物もそう外観が違う訳ではないからそれだけでは分かりにくいが、間違いない。キウィの敏感な聴覚に、幽かにピアノの音が雨音に混じって届いたからだ。
 入口でキウィは立ち止まり、水分を吸って額や首筋に貼り付いた髪の毛を払った。曇り空の下で、白銀色の繊細な髪は灰白色に鈍く煌めいていた。
 重く軋む扉を押し開け、中に入る。
 暗い廊下の中には、さっきよりもはっきりと澄んだ音色が反響していた。……ああ、この悲しいまでに澄んだピアノは──。

──『雨だれ』、だ……。

 キウィは音楽に導かれて奥の部屋へ進んだ。

──ピアノ……。

 青年が半分腐っている、と云っていたのもあながち冗談ではなかったようだ。元は一体誰の所有物だったのか、立派な黒いフルサイズのグランドピアノである。が、それだけに長い年月放置されていたらしい木材は風化している。蓋部分は無くなって内部が剥き出し、塗装が剥げてどす黒く腐乱した木材が見えている部分もある。
 だが、それでもピアノはピアノだ。調律が完璧な平均律になされている以上、流れ出す音色はどれほど技巧を集結した電子楽器にも劣らない深みを持っている。古めかしい、それ故に懐かしい優しい音だ。
 ピアノに向い合っているのは、華奢な16、7歳程の少女だ。仄暗い中で遠目にははっきり見えないが、長い真直ぐな黒髪を背中に垂らし、整った顔をしているように思う。青年が云ったように怨念で人々を発狂させるような幽霊には見えない──少なくとも、生きた実体を持っているのは確かだ。サイバーでもないらしい。
 キウィはしばしその場に留まって、眼を閉じて旋律に耳を傾けた。
 敢て抑揚を押さえた演奏をしているのだろうか、端正な正確さで演奏されるアルペジオが、眼を閉じたキウィには目蓋の裏を静謐な雨が流れて行くように感じられた。
 大丈夫だと思っていたものの、つい聴き入ってしまったのかもしれない。単調に耳に流れ込む雨の音が、いつしかキウィの記憶を呼び起こしていた。
 ──それは、愛する真っ白な兎達と過ごす時間や、養父、シオン・レ・ハイの優しい笑顔であったりした。ぼんやりした映像を見ているような曖昧なものだが、何となく、穏やかな光を見ているようで心地良い。

 つい少女のピアノから聞こえる『雨だれ』の音と、温かい記憶に酔いしれていた。
 主題を過ぎ、嬰ハ短調に転調する前のリタルダンドの不吉な間に気付かなかった。
 
 ここから曲調は一変する。叩き付ける雨を象徴する中音部の和音、暗い緊張を付加する不協和音を為した低音部。だが、普通であれば、それは本来キウィの愛する音楽、雨の暗さを表現し得る美しい音楽に留まる筈だった。
 だが、そうではなかった。異常な程に歪んだ倍音がキウィの聴覚から入り込み、精神の奥を通り抜けた、そんな感覚があった。
──……いけない──、

「……あら、」
 キウィの脳裏で何かが点滅した時、ふっつりとピアノは止み、少女はキウィに気付いて笑顔を向けた。
 ともかく、キウィはほっと息を吐いた。あのまま、あの不快な倍音を聴き続けていればどうなったか──。
「……こんにちは」
 ……気になった。さっきのピアノも、少女のことも。
「……『雨だれ』ですね、」
「ショパンは好き?」
「好きですよ」
 キウィはにっこりと笑った。
「……あら」
 少女は意外そうな表情を浮かべた。
「あなたもピアノを弾くの?」
「……何故?」
「だって、今どきそんな300年も前の作曲家、誰も知らないわ」
「ああ、……このピアノ、ちゃんと調律されているんですね。あなたがやったんですか?」
「そうよ。見て、メカニック用の工具なのよ、これ。調律用の道具がないから、これでやったの。お陰で丸一日かかっちゃったわ」
 キウィはいいですか、と断って鍵盤を指差し、どうぞ、とにっこり笑う少女に促されて中音部の白鍵を一つ押した。
 
 A──。

 ぽん、とそのイ音は澄んだ音を響かせた。
「……」

 嬰ハ、ロ、イ、嬰ト、嬰ヘ、ホ、嬰ニ、嬰ハ……。

 さっきと同じ、嬰ハ短調の音階を旋律的短音階で下り、低音部まで来た所で嬰ハ音をオクターヴで強く鳴らしてみる。
「……?」
 完璧な完全8度だ。音階も完璧な平均律。
 妙だな、と思いながらキウィは首を傾いだ。さっきのやけに不安を煽る旋律は、特に倍音の目立つ低音部の調律が甘かった結果かと思ったのだが、そんなことはなかった。
「どうしたの?」
 いいえ、とキウィは呟くように答えた。
「完璧だ。素晴らしい音感をお持ちです。ただ、」
「ただ?」
 キウィはもう一度、最初と同じ中音イを弾いた。
「442ヘルツですね」
 ピアノに限らず、多くの楽器の調律の際の基準音となるイ音が、442ヘルツに設定されている。今となってはややピッチが下がったように感じる。基準となる音は、時代と共に少しずつ高くなる傾向にあり、バロックと呼ばれた遥か昔ではもっと低かった。442ヘルツのイ音は、20世紀辺りには当然のように基準となっていたが、当時からたまに443、稀に444ヘルツを基準にした楽団などは存在し、現在では445ヘルツが目安になっている。現在使用されている電子楽器等も、殆ど中音イは445ヘルツに合わせられている。
「普通でしょう? ……おかしい?」
 少女は妙な表情を浮かべた。が、キウィはいいえ、懐かしい感じがして、好きです、と答えておいた。
 この少女がどこからやってきたのかは分からないが、時代に乗り遅れた奥部の方では、未だに442ヘルツが生きているのかもしれない。……でなければ、これほど完璧な調律を一人でやってのけた彼女が、基準音を適当に設定したとは考えられないから、おかしい。
 少女は気を取り直したようにまた笑顔を見せ、何か弾いて、とキウィに椅子を譲った。
「弾けるんでしょう? 聴きたいわ」
「歓んで」
 本心だった。普段はギターしか弾けない。こんな機会は滅多にない。
 何を弾こうか、と考えていた時、キウィの頭の中に、ぴり、と電流のような刺激が一瞬だけ走った。
「……あ、」

──駄目、そのピアノを弾いちゃ駄目。早く、ここから逃げて、ピアノの聴こえない場所に──。

「……え、今何て……」
 その声は、聴覚の奥にダイレクトに響いたように感じられた。頭の中を殴られたような振動を感じ、一瞬、目眩がした。
「……何も云わないわ。……弾いてよ」
「……、」
 キウィは少女を訝った。あまりに他意の無い様子が、逆に奇妙だ。
 だが、ともかく一曲弾いてみよう──穏やかな曲を。
 キウィが弾き始めたのは、トロイメライ、──シューマンによる子供の情景──だった。

【3】 

 ああ、やっぱり音楽は何て素晴らしい世界だろう、とキウィは思う。
 キウィがピアノや、ギターを弾くのが好きなのは自分に酔えるからではない。今どき、楽器が弾けたからといって誰が誉めてくれる訳でも無い。ただ、そうする事でこの限り無く優しい世界の中に居られるのが心地良いのだ。

──ずっと、この世界に居られたら。
 
 世界が、これほど優しい色彩だけに包まれたら、どれだけいいだろう。時代と共に、人間の生き方は変わってくる。サイバーやエスパーの出現は当然とも思える。進化、と云っていいかもしれない。世界がこれほど穏やかならば、サイバーやエスパーに対する妬みも恐れも無いはずなのに。──そんな世界になれば良いと思った。人々のサイバーやエスパーに対する正しい感性を作り出したかった。だから、キウィはアイアンメイデンとして研究に携わっていた。
 
 短い曲だ。穏やかな時間が流れたまま、演奏は終わった。
 少女はピアノの縁に頬杖を付いている。退屈そうな表情だ。
「……すみません、いつも弾ける訳じゃないから、聞き苦しかったかもしれない」
「そんなことないわ、上手じゃない。……ねえ、もっと色んな曲が弾けるんでしょう? あたし、ラフマニノフが聴きたいわ。弾いて」
 キウィは穏やかさの中で忘れていた不安を再び喚起した。少女の一見悪意の無さそうな笑みは、確実に見るものを不安にさせる要素を持っていた。──さっきの演奏に同じく。
「ラフマニノフ、」
「二番でも三番でもいいわ、コンチェルトでなくてもいいのよ」
「……すみません、知らないんです」
 嘘だった。咄嗟に、このピアノで、彼女の前でラフマニノフは弾かない方がいいと思った。途中から激しいテンションノートのぶつかりあう情熱的な協奏曲、──さっきの倍音を聴いた時の不安が蘇る。そんな曲を弾いてしまえば、何かが壊れる確信に近い予感があった。無意識に、キウィの左手は左の膝に行っていた。
 太腿の辺りに、ベルトで固定して常から携帯しているナイフがある。──決して、他人を傷つける為ではない。そんな悲しい目的の為に刃物を携帯している訳ではない。
 キウィには、思い出せない過去の記憶がある。それは、彼の精神の奥深く、頑丈な扉に鍵をかけて仕舞い込んである。だから、キウィ自身もそこに何が眠っているのかは知らない。だが、それほど注意深く封じ込めている記憶の扉でも、不意に開かれる時があるのだ。そうすれば──。
 キウィは少女を見た。華奢で、繊細そうな少女だ。キウィが云えたことではないが、──壊れやすそうだ。
 もし、今ここでその記憶の扉が開かれれば、キウィの精神は一瞬で拡張した闇に包まれる。そうすれば、周りの人間もその闇に巻き込んでしまう。彼は、それだけは絶対にしてはいけない、と思っていた。
 だから、ナイフを携帯しているのだ。万一、その扉が開きかけたら、キウィは迷わず自分の肉体を傷つける。──自分を見失わない為に。
 今、キウィには少女の要求に応える事でその闇が広がりそうな漠然とした不安があった。
「じゃあ、ショパンの幻想でもいい」
 幻想即興曲、嬰ハ短調の速いパッセージ──それも危険だ。何故、わざわざそんな曲ばかりを敢えて要求してくるのだろう。

──危ない、

 少女の段々と強さを増してくる黒い瞳の輝きを見ていたキウィの脳裏に警鐘が響いた。
 おかしい。絶対にこの少女には何かある。

──早く、ピアノが聴こえない場所まで逃げて!

「……、」
 再び、頭の中を殴られたように、聴覚にダイレクトに声が聴こえた。幻聴ではない、それははっきりした。
 ……それは、この少女と同じ声だ。但し、詰め寄るように激しい曲をリクエストしてくる彼女の声と違い、もっと切実で、悲しみに溢れた叫び声だった。
──……逃げる、……?

──そう、逃げて、今ならまだ……あなたは壊れない。

 妖し気な笑みを浮かべてキウィに迫ってくる少女の目の中に、はっきりと、別な表情の彼女が見えた。
 苦しそうで、絶望した瞳で、だがキウィに対して壊れないで、逃げて、と訴えている彼女だ。

──逃げられません。……あなたがいるなら。

「もういいわ、あたしが弾く」
 少女の腕がキウィの肩越しに伸びて来て、強く嬰ト音のオクターヴを押さえ付けた。彼の目の前で神業のように速いアルペジオのパッセージを弾きつづけながら、少女はキウィを振り返った。
 その端正な顔には明らかに酷薄な笑みが浮かんでいた。
「……!」
 キウィは椅子に座ったまま、金縛りにでも遭ったように動けなくなった。いけない、と思う、不安が募っていくのに、指が動かない。
 さっき完璧な完全8度だと思ったオクターヴは空間を歪ませるほどのうねりを持った倍音を出す、ずれた8度に変わっていた。少女は即興で低音部の長3度を繰り返しスフォルツァンドで叩き付けた。長3度──低音で響けば、それぞれの属七和音順に並んでいる倍音列がただでさえ人間の耳にもはっきりと聞こえる不協和音として響く、不快な音だ。倍音は抜けることがない。刻一刻、ピアノと、少女と、キウィの周りの空間に篭って行く。
 五感操作だ、と気付いた。ESP研究に携わる中で何度かその能力を見たことがある。他人の五感を自由に操作し、有り得ない光景を見せることもできる。完全音程を歪ませて倍音をキウィの聴覚に送り込んでいるに違い無い。

──……!
 
 駄目だ、と思った。「もう一人の少女」の悲痛な叫び声が響く中、精神の奥深くの扉が激しく叩き付けられて壊れかかっているのが見える、しかし、指先が少しも動かないのだ。
 闇が広がるのが見えた。

「あ……、」

──……!

「え……、……嘘……」
 その時キウィが見たのは、暗転した視界の中で華がぱっと開いたように弾けた赤い色彩だった。
 ピアノの音がふっつりと止む。
 キウィのナイフが、少女の右手の中にあり、あれほどまでに激しく低音部を叩き付けていた左の手首をざっくりと、──医学に通じたキウィから見ても危険な程に深く切り裂いていた。
 少女は、呆然とその左手を見ている。

 ──たん、たん。
 鍵盤の上に、鮮血が止め処無く滴り続けている。──雨だれのように。

「……てめェ、選りに選って手を……、……何て事しやがる、」

【4】

 少女の声とは全く違う、低い、鼻に掛ったような男の声が彼女の口唇を通して毒づいた。
「……あなたは……、」
 キウィは呆然として少女を見つめた。唇を噛み締めて眉を釣り上げた少女は、その男の声で呪詛のように呟き続けた。
「面白い所だったのによ……、コイツに、思い出させてやろうとしただけじゃねェか……、『あの記憶』を……」

──駄目……、人には思い出さない方がいいものだってある。……あなたは、それを無理矢理覗いて……。

「煩ぇ奴だ……、……あ……」
──危ない、……仕方ない、逃げるか。

 最期の声は、少女の口唇から出たものではなかった。キウィの耳に、直接届いて、……消えた。

「……あなたは、」
 我に帰ったキウィは、倒れた少女を抱き起こし、応急手当て用に携帯している救急用具から包帯を出して素早く傷口に巻き付けた。……だが、危ない。止血点を締め付けた上で何重にも巻き付けた包帯は、元が白であったことを忘れる程すぐに赤く染まってしまう。
「……あたしの中に、『彼』が入ってきたの。……あたしは、ただ、ピアノを聴いてただけなのに……。『彼』が入って……出て行ってくれなくなってから……何人も、『彼』のピアノで壊れてしまったの……」
「やはり、あの声はあなたの……本来の、あなたの声だったんですね?」
「だって……あなたに壊れて欲しくなかったんだもの」
「だからって、こんなことを、」
 キウィは少女が取り落としたナイフを床に突き立てて目蓋を、痛い程に強く閉じた。

 少女の出血量は既に深刻だった。
「……私の研究所に来ませんか、そこならもっとちゃんとした手当てが出来る……あるいは……、」
「……あるいは……?」
「兎が居るんです」
「……え?」
 少女は苦しそうに眉を顰めながら、それでも可笑しい、というように笑った。
「何、兎って」
「……兎は……癒してくれるから。……辛いものを見てきたでしょう、あなたの心も……きっと」
「……そこで死んでもいい?」
 駄目です、とキウィは頭を振った。……だが、……これだけは。
「これで、音楽を嫌いになってしまわないで──」
 少女は荒く息を吐きながら、それでも微笑んでくれた。

【5】

 サイバー化することを拒み、ゆっくりと死を待ち続ける少女に、キウィは毎日ギターを弾いて聞かせた。穏やかで、優しい曲を。
 絶対に、音楽を憎んだまま逝って欲しくなかった。──彼女が、最期の救いさえ持たないまま逝ってしまわないように。

 ──悲しい程乾燥した空気に木漏れ陽が降る中、青年が一人ギターを弾いている。
 褐色の肌に、粉雪のように真っ白な髪を零した樂人。赤い瞳は、悲しみの中に自分の音が埋もれてしまわないよう、透き通った六弦だけを真摯に見つめていた。

 あまりにも優しく、穏やかな旋律は、──亡き皇女の為のパヴァーヌ。
 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0347 / キウィ・シラト / 男 / 24 / エキスパート】

NPC
【少女】
・平和な街に暮らしていた大人しい少女。ある時突然侵入してきた『彼』により、自分の身の回りや、助けてようと関わった人々が壊れていくのを見て、もう誰も巻き込まないようにと街を離れていた。
【『彼』】
・<px006>、それだけで一つの意思を持ったエスパー人格で、他人の身体に寄生することで能力を発動。残酷且つ破壊的、享楽的な性質。

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■         ライター通信          ■
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こんばんは。今回はアナザーレポート初のシナリオに御参加頂き、ありがとうございました。
最初にシナリオを御覧になった時にお気付きかもしれませんが、本シナリオは、「徹底的に救いのない世界」です。
混沌の世界に生きる皆様には、優しさや思い遣りだけでは誰かを救い切れない場面に遭遇される事もあろうかと思います。
そんな時、一体どんなPCが今回のような少女を気に留め、どう接してくるだろう、と思い立ち、このようなシナリオに設定致しました。

<px006>という名称に深い意味はありません。
ライターが便宜上型番的にこの人格に割り振った名前です。

本シナリオではほぼ個別シナリオの形式を取りましたが、全ての結果に於いて<px006>自体は死んでいません。
今後、何らかの形で『彼』が顔を出すこともあるかもしれません。
非常に悪質な性格の持ち主ですので、一度梃子摺らされたPCの事はしっかり記憶しているでしょう。
楽しい再会とはなり得ないでしょうが、またサイコマスター・アナザーレポートの世界の中で『彼』を見かけた時に気が向かれましたら是非遊びに来てやって下さい。

■ キウィ・シラト様

プレイング、設定から考えた結果、シラト様のみやや特殊な結果となりました。
実は、今回描写するつもりは無かったのですが元々、<px006>はピアノが弾ける、という事を半分冗談で設定していました。
そこで、折角シラト様のような方に御参加頂いたので、「対象にとっては充分凶器となり得る」音楽を題材にしました。
ライターの中だけの設定が所々に出てしまいましたので、多少疑問の残る部分もあるかと思います。
また、オリジナルのギターについて、多少迷いましたがシラト様のイメージからクラシックギターの描写にさせて頂きました。エレキギター、及びシラト様のお好きな音楽がロックやジャズでしたら完全にこちらの勘違いです。また音楽が絡んだ為、つい冷静ではいられなくなって本道から外れた描写が多くなってしまったかもしれません。お詫び致します。
どの道、他人を傷つけないが為に自分に向けるナイフを所持していらっしゃいますシラト様ですが、この先くれぐれも楽器奏者の命である手にだけは重症を負われませんよう、お祈り致します。
また、折角研究なさっているESP制御装置を描写できず、申し訳ありませんでした。

x_c.