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<東京怪談ノベル(シングル)>


荊の羽


 まどろみの中で、幻と現実の間を彷徨っていた。
 それは私にとって、とても安らかな――穏やかな優しさを与えてくれる。
 誰かが傍にいてくれる安らぎ。
 出来ればこのまま眠ってしまいたかった。
 けれど――時折無意識の中で、不安定な波がくる。
 言い知れない孤独、独りの世界。
 やがてその不安は、一つの世界になる。

 私は目を開いた。

 そこは、夜の中の街だった。
 否、街と呼べるものかどうか。見えるのは街灯だけ。それ以外何もない。
 その街灯にも光はなく、人がいないことを示していた。
 ――まるで取り残されたような街だ。ここでずっと朽ちるのを待っている。
 私は一歩たじろいだ。
 私以外の人はいないのだろうか。
 目を凝らす。
 闇はずっと続いていて、どこまで行けばいいのか検討もつかない。
 人を探して進めば、私も闇と一体になり消えてしまいそうな――。
 呼吸が浅くなる。胸への圧迫感が、恐怖を示している。
(進むのは危険。でも、ここにはいたくない)
「誰か、いないのですか?」
 声を張り上げる。気のせいか、少し声が掠れている感じがした。
 ――返事は返ってこない。
 やはり誰もいないのだろうか。
 ――認めたくない。誰か、誰でもいいからいて欲しい。
 黙っているのに耐えられなくて、もう一度声を出そうとした。
 ――瞬間、何か音が聞こえているのに気がついた。
 人の声ではない。もっと機械的な音。
 耳を澄ます。
 ――キイ、カタン、カラカラカラ。
 何かが回っている。規則正しく、狂うことがない。決められていることをただ繰り返しているような、命のない音。
 小さな音な筈なのに、不安感のせいか、だんだんと大きな音に聞こえてきた。
 私の耳の奥で、音が繰り返される。キイ、カタン、カラカラカラ。
 ――怖い、と思った。怖くて仕方がない。何かわからないものに飲まれてしまいそうだった。
 それなのに、身体は動かない。逃げられない。どこにもいけない。独りのまま。
(ここからずっと出られなかったら)
 恐怖を打ち消す。――そんなことはない。
 朝が来れば、きっと道もわかる。歩いて帰ろう。
 ――恐怖は消えない。
 それに、朝は来ない気がした。馬鹿げた発想なのに、本当のことのような気がする。
(もしここが夜に閉ざされた街なのだとしたら)
 私はこのまま、幾日もここで過ごすのだろうか。消えた街灯を見つめながら、独りで膝をかかえて、やがては独りで闇に横たわるのだろうか。
 ――私の身体は震えていた。自分の腕で震える肩を支えても、無駄だった。ガタガタと揺れる指先が、肩を軽く叩いている。
 私はもう一度声を張り上げた。
「誰か! 誰でもいいですから、返事を……」
 ――後ろでかすかに音がした。
 人の気配だ。
 反射的に、私は後ろを振り返った。

 佇んでいたのは、一人の子供。
 私の半分ほどの背丈、純白の髪を腰まで垂らし、瞳は紅い。
 髪や瞳の色は私と同じだが、その子供は少女であり、また雪のように白い肌をしていた。闇に浮かび上がる白い両手で、大きなウサギのぬいぐるみを抱きしめている。
 少女は私を見上げていた。見開かれた赤い瞳は、喜怒哀楽とは別の処にあるようだった。
 ――身体中に痺れのような感覚が起こる。私の心を見透かすような少女の瞳に対しての拒絶反応。
 少女は私から目を逸らさずに言った。
「ここで何をしているの?」
「それは――」
 私は答えに詰まる。何をしにここにいるのか、自分でもわからないのだから。
 少女は、ウサギのぬいぐるみを強く抱きしめ、
「乗り過ごしてしまうわよ」
 よくわからないことを呟いた。
(何に乗り過ごすのだろうか)
 少女は続ける。
「もし乗り過ごすことがあれば――キウィは独りぼっちになるのよ」
 ――独りぼっち。私の嫌いな言葉。
(乗り過ごす――何に?)
 何に乗れればいい?
(何に乗れれば、そんな言葉を聞かずに済む?)
「ほらキウィ、耳を済ませて」
 少女が目を閉じて、両耳を手で塞いだ。
「本当の音を聞くには、耳を塞ぐものよ。――さぁ」
 急いで耳を塞いだ。目を閉じる。
 ――キイ、カタン、カラカラカラ。
 あの音だ。
「あれは、歯車の音よ」
 ――歯車。
(みんな、そこにいるのだろうか?)
「歯車は、向こうにあるわ。キウィは早くあそこに行かなきゃ」
 少女は、まっすぐ遠くを指差す。それは、元々私が進むかどうか迷っていた道だった。
「すぐ近くに、歯車が見えるでしょう?」
 ――街灯以外、何も見えない。歯車も、何も。
 少女には見えているのだろうか。
 そもそも、この少女は誰なのか。何故私の名前を知っているのだろう。
 ――第一、少女自身は歯車に乗らなくていいのだろうか。
 この子を置いて、見えない歯車へと向かう自分――そんなこと、考えられない。
「貴方も一緒に……」
 私は少女を振り返った。
 が、少女は傍にいない、走り去っていくところだった。
 私は考えるより先に、少女の後を追って走り出していた。

 呼吸が激しくなる。
 どこまで追えばいいのかわからない。
 足を地面へつけるたび、靴音が大きく響いた。
 ――もう歯車の音は聞こえない、かなりの速度で走っている筈の少女の靴音も聞こえない。
 聞こえるのは私の靴音、私の呼吸音、私の鼓動。どれもが大きく耳へ響く。
 ――耳の奥では、ゴオオオオオという地鳴りのような音が絶えず流れていた。それらの音が、私を急かす。
 立ち止まったら終わりだと思った。心細さが恐怖となって私を後ろから追いかけていた。
(待って欲しい)
 呪文のように頭の中で繰り返す――待って欲しい。
 ――眺め続けているのは、少女の後姿。銀髪、白い肌、たまに覗くウサギのぬいぐるみ。どこか、自分の分身を映し出しているように見えた。
 あの突き刺すような瞳。あれは怯えを棘に変えている。
 少女をつかまえて、出来るなら抱きしめたいと思った。
 ――走るスピードが速くなる。
(あと少し)
 私の指先が、少女の背中に触れた。

 ――瞬間、破裂音が辺りに響いた。

 目の前は、明るい。夜が明けている。
 朝だろうか。
 それにしては白すぎる。無を画にしたようだ。辺りは無に満たされていた。
 ――そこに少女の姿はない。
 代わりに、数頭の蝶がいた。
 紅を宿した蝶だ。
 その紅は少女の瞳から来ているのだろうか。
 それとも――。
 私は左手をゆっくりと蝶の前に差し出した。
 ひらひらと、紅の幻を宙に残しながら、一頭の蝶が指先に止まった。
 柔らかな風の感触があった。そして、あたたかい。
(もっと傍で見たい)
 私はそっと左手を自分のもとへと動かしたが――。
 蝶は、はらりと紅いからだを地面へと落とし、消えた。
 私は言葉を失い――周りを見回した。
 他の蝶も同じだった。次々と紅を宙に残し、絶えていく。
 そして消える。残ったのは私一人。
 私は自分の掌を覗き込んだ。
 さっきまで闇に消えそうだと思っていたのに、今私の身体は白い世界で嫌にくっきりと見えていた。
 少女の言葉が蘇る。
『もし乗り過ごすことがあれば――キウィは独りぼっちになるのよ』
 走ってきた道を振り返る。
 歯車があると言われた方向。あのさきに、歯車はある。
 けれど、視界はあまりに白すぎて、歯車なんて何処にも見えない。
 私は肩で息をしていた。耳の奥で再び、ゴオオオオオという音が聞こえてくる。
 私はその場にうずくまり、小さな、声を、あげた。

 夢の先には、現実が続いている。

 私が再び目を開けたとき――隣でかすかに寝息を立てている人がいた。
 よく眠っているその人の表情を眺め、私は自分の指先に視線を移す。
 まだ少し震えている自分。
 けれど――もう怖がらなくていい。
 私は隣で寝ている相手を包み込むように、身体を寝かせ、目を閉じた。
 ――今ここにあるのは、明日も続く安らぎなのだから。