PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<東京怪談ノベル(シングル)>


ask for a savior

──悪魔。

「……」
 赤い髪の小さな、痩せた少年が歩いている。
 ──殺伐とした廃虚の街。そこを早足で行き交う人々は殺気立っている。どれだけ外套の前を掻き合わせても、隙間から嘲笑うように吹き付ける風と、明日がどうなるか分からない不安からは身を防げはしないのだ。他人を思い遣る余裕等ない。自分の事で必死な人間が、痩せ細った少年が吹き曝しの頬と裸足の爪先を凍えさせて震えていようと、気遣うものか。その脆弱すぎて消え入りそうな気配にすら気付かない者が殆どだ。
 ──だが、それでいい。その方が逆に好都合なのだ。
「……」
 虚ろな目の男が歩いて来る。
 少年はすれ違い様、その男の外套の隠しに触れた。その小さな身体が、一瞬間、淡い青色に光った。
「──……、──」
 誰も、何も気付かない。──当然だろう。普通の人間が、少年が自分と、寸前に指先を触れた男の財布だけを残して時間を停止させ、次に人々が気付いた時にはさっさと歩き去っていた事に気付く訳がない。
「……、」
 少年はちら、と──よく煌めく赤い瞳で──男の背中を横目で見遣った。何事もなかったように相変わらず早足で歩いている。
 少年はそれを確認すると冷めた目で自分のか細い腕を見下ろした。袖口の中に、粗末な皮の財布が収まっている。──とりあえず、数日は寝食を凌げそうだ。

 『審判の日』、相次ぐ戦争に環境変化。世界は日毎に混沌の渦の奥深くへ飲まれて行く。疫病や飢饉で、毎日大勢の子供が死んで行く。──例え、その亡骸を抱き締めて嘆き悲しんでくれる母親の腕の中に在っても。
 ──来栖・コレットのような天涯孤独の少年には、尚更。冷たい程に厳しい世界だ。
 物が溢れ返っていた時代などコレットは知らないが、ただ小さく敏捷な子供の特性だけではスリなど一度でも成功しない。だが、そうでもする他に、どうしてこの小さな少年が生きる術がある? ──どうせ、呪わしい身なのだ。呪わしい能力を利用して一日の寝食を得て何が悪い。

──悪魔。

「……どうせ、」
 どうせ悪魔だよ。だから、独りなんだ。せめてその能力で、僅かな温かい食料を得たっていいじゃないか。
 堅く、狭い安宿の寝台に仰向けに寝転がり、──とっくに捨ててしまったが──あの粗末な財布に入っていた紙幣を数えてみる。赤い瞳がきらきらと光っているのは、──。
 ──ああ、厭な事を思い出した。……忘れてしまおう、あんな記憶……。
 忘れるのは簡単だ。目の前にちらつく光景の替わりに、真っ暗な闇をイメージすればいい。それだけですぐに忘れられる。──……その分、少しだけ頭が重くなる気はするけど。
 目頭を拭って、ひらひら、と割といい稼ぎになった紙幣を振りかざしながら、──これで、もう少し暖かい地方の街へ行ってみよう、とコレットは思った。
 ──なんだか、頭の奥に黒い空間がぱっくりと口を開けているみたいな感じがするんだ。……暖かい街へ行ければ、その重さも吹き飛んでくれるかもしれない。
 ──それだけが、今のコレットの唯一の望みだった。

──……。



「──……!!」
 長閑な街の静寂を突き破るような女性の悲鳴が響き渡った。
 息子の名前を呼ぼうとして、それが声にならなかった彼女の視界に、赤いアネモネの花びらが飛び散った床が映った。激しく、補色の緑が目の前で点滅を繰り返す。

──……。

「……お母さん、」
 少年を認めた彼女の鳶色の目が爛々と輝いた。──恐怖と、憎悪。
 少年は遠慮がちに、その小さな手に握り締めた赤い花を一輪、差し出す。彼女の穏やかそうな顔は一変して強張った。
「……アネモネ、好きでしょ……?」

「嫌いよ」
 冷たく凍り付いた声が少年を突き放す。
「アネモネなんか、大嫌い」
 その花を奪い取った彼女は、癇癪でも起こしたようにその花びらを毟り取った。無惨に散る赤い色が、まるで自分自身のように見えて少年の心臓がびく、と傷む。

「大嫌いよ、こんな花──あんたなんか」
 彼女は近寄ろうとした少年から後ずさり、震える指先を彼に突き付けた。
「あたしからコレットを奪ったあんたなんか、──……悪魔」

「あんたは、悪魔よ」

──……。

「お母さん、アネモネ!」
 云うが早いかコレットは母親の手を離れて駆け出していた。
「こら、コレット! 待ちなさい、離れちゃ駄目──、」
 母親は慌てて声を張り上げるが、まとめ買いした食料は彼女の両手に余り、かと云って貴重な食料を、──家族の、彼女と、優しい夫と、そして愛する小さな息子の食料を投げ出す訳にも行かずに敏捷い少年の赤い髪が揺れる後ろ姿を見失わないようにするのが精一杯だった。
 だが、コレットの後ろ姿は大勢の子供達に混ざっても特に見つけるのが容易かった。
 コレットの髪は、誰よりも赤い。
 普通、彼女も含めたこの辺りの街の多くの人間は、子供の時には赤毛でも、成人するに従って鳶色に変わって行く蜂蜜色がかった赤だった。だが、コレットはその瞳の色も同じく、深い真っ赤な色をしていた。
 ──だが、それは彼女にとって大した問題ではなかった。周りの老人の中には、コレットの──特に瞳を覗き込んで不吉な色だ、と呟く人間もいたが、それは、誰一人同じ顔立ちの人間がいないのと同じ様にコレットが彼女の子供である証しのようなものだった。
 これはコレットの個性よ、と彼女は幾度となく夫と微笑み合った。──実際、ほら見て、コレットは誰よりも元気が良くて、敏捷っこくて、物事を理解するのも速いわ。
 僕の目はお母さんの色と違う、と感受性の豊かな少年が一度悲しそうな表情で云ったことがある。
「そうね、でもそれはコレットがコレットである証拠。コレットがお母さんとお父さんの子供である何よりの」
「……でも、僕、お母さんと同じ色が良かった」
 彼女は温かい手でコレットの柔らかい頬を挟み、優しくその目を覗き込む。
「そぉ? でもお母さんはコレットの目の色が羨ましいなー、お母さんはコレットの目の色が大好き。知ってる? とってもきれいな色なのよ、お母さんの大好きなお花の色とおんなじ」
「大好き? お母さんコレット好き?」
 勿論でしょ、と彼女はこの上ない倖せを一杯にして答える。

 ──そして。
「コレット! 駄目って云ったでしょ!」
 やっとの事で敏捷い少年に追い付いた彼女はコレットを叱りつけた。優しい目を殊更吊り上げて。だが、元気良く振り返ったコレットの笑顔を見れば、つい元通りにその目を綻ばせてしまう。
「はい、お母さんの好きな花」
 コレットが差し出していたのは、彼女が好きだと云った、コレットの瞳と同じ色をしたアネモネの花だった。
 
 夫が彼女の為に部屋に作り付けた飾り棚。その中に彼女が、息子、夫の次に大切にしている大きな花瓶が置いてある。それは、今どき中々手に入らない赤い花がこぼれそうな程に投げ入れられていた。
 小さな息子からの、愛情を彼女に示す贈り物たちだ。
 彼女にとってコレットは特別。秀でて敏捷で、聡明で、勘が良く彼女が注意しても見つけられない赤い花をどこからともなく見つけて来ては彼女に贈り続けてくれる。何よりの贈り物に対して彼女が返していたのは、暖かい愛情に満ちた手の温もりだった。

 その手と、コレットへの視線が一転して冷たく凍り付く日までは。

「お母さん、」
 コレットが帰って来た時、母親は料理中の手許から視線を外せなかった。ちら、と一瞬だけやった横目で息子の帰宅と、その手にあるいつもの赤い花の贈り物を認めた彼女はありがとう、ごめんね、今手が放せないの、と小さく云った。
「ちょっと待ってて」
 仕方なくコレットは赤いアネモネを手に持ったまま一人で遊び出した。
 小さな少年、近所の子供達と一緒に元気よく走り回ることも、自分だけの小さな、天の高い世界に入り込んで遊ぶことも自在の、限り無く自由な子供。
 歓声を上げながらぱたぱたと駆け回っている息子の気配はあまりに微笑ましく、彼女は視線は手許に遣りながらも微笑を禁じ得なかった。
 大人にしてみれば何が楽しいのか、一人自分の影を追い回し、時に母親の長いスカートの蔭に隠れた、つもりでひょっこり顔を出してみせる。その彼女の蔭にすっぽり隠れてしまう程小さな息子は、その目の高さが見ている世界そのものが純粋だった。
 平和な日常の風景。
 ──そんな、小さな家庭のささやかな倖せが次の瞬間に崩壊するなど、どうして予感できただろう。
 彼女の宝物二つ、小さなコレット、愛する息子の姿と彼からの贈り物で溢れた花瓶と共に。

「いや──……!!」

 何故、そんな事になったのか分からない。或いは、彼女の為に自分で今日の収穫を花瓶に入れてくれようとしたのかもしれない。
 不吉な音。飾り棚の合成プラスチックの割れる音に咄嗟に振り返った彼女が見たのは、床に無防備な姿勢で転がった小さなコレットの柔らかな頭めがけて落下してくる、赤い花を湛えた花瓶だった。
 彼女には、飛び散った赤い色しか見えていなかった。

「……、」
 コレットには、ただ本能が危険を察知しただけだった。
 赤い瞳。常から鋭く、稀少なアネモネの花を見つけだす時や母親の話をどの子供よりも聡く理解する時に煌めきを浮かべる赤い瞳が、その時一際爛々と一閃の輝きを放った。

──彼の頭上で花瓶と、降り注ぐ花びらが静止する。身体を淡い青の輝きで包んだ彼は、それから這い出して逃げると母親に向かって駆け出した。まだ非力な小さな少年を、常に護ってくれる存在の許へ。救いを求めて。

 ぎゅ、とその小さな手がやっと届く母親のスカートを掴んだ瞬間、ガラスの割れる音、水飛沫、アネモネの赤い花びらが砕け散る音が響き渡った。
 
「……、」
 呆然として、ただ床に赤い花びらを散らしている花瓶の破片を眺めていた彼女はふと自分へ向けられた視線に気付き、振り返る。
「……お母さん、」
──不吉な色の目をしてるね、この子……。
 脳裏に蘇る誰かの言葉。瞬きもしない一瞬の内に、花瓶の下から遠く離れた自分の足許へ現れた赤い髪、赤い瞳の少年。自分のスカートの裾をしっかりと掴んでいる手。
 その小さな手は、彼女にはもう非力で護るべきものではなかった。彼女を、恐怖へと引き摺り込もうとする悪魔の、手だった。

「……放して!」
 彼女は必死でスカートを翻し、その悪魔の手を振り解いた。
 エスパー。エスパーだこの子は。不吉な目、やけに赤く輝く目は彼女達には不可思議な現象を弄ぶ存在、エスパーの目だった。
 自分の息子が、コレットがエスパーだった等──彼女が俄に納得できる筈がない。
 彼女は半狂乱で叫んでいた。

「悪魔、あんたは悪魔よ、あたしの子供を返して、こいつは悪魔だわ、あたしの子供を奪ったの、あたしの小さなコレットを、どこかへやってしまったわ!」
 エスパー、世界の中心を知らない彼女のような平和な街の住人にとって、それは戦争の、破壊の象徴だ。
 度重なる環境異変や、暴力的な世界や、──彼女達から太陽さえ奪った『審判の日』の象徴。
 恐らく、彼女はあまりに優しすぎて耐え切れなかったのだ。小さなコレットがそんな、エスパーであるという事実を認められなかった。
 悪魔が、コレットを奪ったのだと、思うことにしたのだろう。

「大嫌いよ、そんな花なんか。……あたしからコレットを奪った赤い花なんか、大嫌い」
 
 エスパーである事が発覚したコレットは、もう彼女達の子供でも、小さく非力な護るべき存在でも、人間でさえなかった。赤い瞳がその能力を開花させたのと同時に、彼の周囲から温かい愛情は一瞬で吹き消え、彼は崩壊した世界を凍えた裸足でさすらう事になった。

──お前なんか、死んでしまえばいい、お前のような人間が、戦争で全てを壊してしまった、お前のような悪魔が、私達から太陽を奪ったんだ、──悪魔!



──……。

 また少し、頭の中の空洞が重さを増した事を感じながら、コレットは蹲って目を閉じた。
 寒さは相変わらず頬を刺す。だが、疲れきった身体と精神は休息を求めていて、少年はすぐに眠りへ墜ちて行った。


 ──それからどれ位経ったか、やはり風の冷たい夕暮れ時の街だった。
 コレットは敏捷く赤い瞳を光らせて周囲を見回す。
「……」
 向こうから、一人の若い女性が歩いて来る。誰もが何かに追われるように歩みを急ぐ中、ゆったりとした足取りで穏やかそうな目をした彼女は目立った。コレットにはその存在感がやたらと苛立たしかった。……何かをまた思い出しそうで。

「──……、」
 コレットは歩き出す。そして、彼女とすれ違い様に僅かに指先を伸ばす。

 普段なら、誰もが目を留めもしない、取るに足らない少年の僅かな動きの筈だった。
 だが、その瞬間、時を止める前にコレットの腕は細い女性の手に掴まれていたのだ。
「……!?」
「こら、悪い子ね」

「……、」
「お腹が空いてたから、あんな事しようとしてたんでしょう、違う?」
「……、」
 コレットは彼女の手を振り払おうとしたが、彼女は駄目、と云ってしっかりコレットの腕を掴まえたまま離さない。
「違う?」
 再度問われ、コレットは仕方なく頷いた。
「やっぱりね」
 そう云うと彼女は急に優しい顔になった。
「良かったわ」
「……え、」
「理由がなきゃ、そんな事をする子には見えなかったもの。やっぱりそうだったのね、良かったわ」
「……」
 放してよ、とばかりにコレットは再びぐい、と腕を引っ張る。
 ばれた、と思った。エスパーだと気付かれたのだ。ここで騒ぎ立てられたら、どんな目に遭うか分からない。こんな殺気だった街の中でエスパーだと発覚すれば。
 だが、コレットが見上げた彼女はとても優しい目をして微笑んでいた。
 コレットの腕を放し、だったらそう云えば良かったのに、と諭すように云う。
「……だって、そんな事云ったって誰も優しくなんかしてくれない」
「本気でそう思ってるの?」
「そうだよ。エスパーだから悪いんだ、僕が。エスパーは悪魔なんだよ」
「エスパーだからみんなから迫害されるって?」
「そう」
「それは間違いね」
「そんなことないよ」
「じゃあ私はどうなるの?」
「──……、」
「ねえ」
 
「恐がらずに、人を信じてご覧なさいな。だって、何も恐がる必要ないじゃない。あなたにはすごーい武器があるのよ。時間が止められるじゃない。恐がらないで、人を信じてみるの。それで、もし何かされそうになったら時間を止めて逃げちゃえばいいじゃない。逃げるのは何も恥ずかしい事じゃないのよ。相手を傷つけずに自分を守ることができるじゃないの。……ね?」
 何も怖くないでしょう? と彼女は手を差し出した。
「……」
 その手を前に、どうしていいのか分からず俯いているコレットに、彼女が優しく云う。
「まず、最初に私を信じてみて」
 
──この手をとって、いいんだろうか。

「……、」
 コレットはそれでも、恐る恐る指先を伸ばした。だが、手が触れあった瞬間の温かさに、──もうずっと忘れていた、手の温かさに、やがて自分からぎゅっ、と強く彼女の手を握り締めた。
 ふっと、頭の奥の空洞の重さが消えた。同時に胸が熱くなった。

──同じだ。

 同じ温かさだった。……優しい、母親の手と。
 どうして、暖かい街へ行きたかったのか、どうして、寒さから身を守りたかったのかが分かった。
 忘れていたからだ。母親の、──否、優しい人間の、手の温かさを。思い出したかったからだ──。

「いい子ね」
 彼女はにっこりと、手の温度と同じ温かさで笑顔を浮かべ、じゃあ行きましょう、一緒に、とコレットを促した。
「但し、一つだけ約束してね。──何があっても、私の心の中だけは読まないで。約束できる?」
 分かった、とコレットは頷いた。理由は分からなかったが、そんな事をしなくても彼女の笑顔は本当だと、信じることができたからだ。

──何も怖い事なんかない。