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<アナザーレポート・PCゲームノベル>


Laterne

【0】

「ラテルネ」 
 あなたは? と訊ねると彼女はそう、答えた。
 くす、と涼は吹き出し、店の名前じゃないよ、君の名前だ、と云い直す。それでも、彼女は「ラテルネ」、と云う。
「揶揄かっちゃいけない、東洋系だと思うだろう? だけどこれでも、ドイツ語は結構得意なんだ。Laterne、の意味位知ってるんだよ」
 笑いながら彼女を冗談に睨む涼に、彼女は再三、ラテルネ、と呟いた。お互い笑顔で睨み合いを続けている内に涼は、そう、あの頃俺は毎日ドイツ語と向き合っていた、と思い出した。

【1】

 場違いな程優しい灯りを落とす建物に足を止めた御影・涼(みかげ・りょう)は、躊躇いつつ、素朴な装飾を施した木のドアに手を掛けた。からん、とベルが鳴るその扉を開けた途端、温度が変わったような錯覚があった。
「……、」
 
──Wie einst Lili Marleen... 

 なんて懐かしい場所だろう、と涼は思った。いや、ここへ来た記憶がある訳ではない。石造りの壁に古い木の匂いがする床、ぼんやりと優しい程仄明るいランプの灯り、珈琲の匂い。──既視感を覚えた心が、ふっと懐かしさを喚起したのだ。

──Wie einst Lili Marleen...
 ぱちぱち、と音を爆ぜていたレコードの音が止んだ。
「……こんばんは」
 一人カウンターに凭れ、頬杖をついていた少女がにっこり微笑んだ。
「今晩は」
 挨拶を返しながら、あれ、と涼は思う。何だろう、この感じは。妙にふわふわした感じだ。夢の中での会話のように、相手の存在感や口にした内容よりも、自分の声さえイメージとして溶けてしまったような感じがする。──決して、悪い感じじゃない。
 少なくとも、見知らぬ他人との接触には人一倍神経を使う涼にとって、それは悪い気はしなかった。
 きっと、この時間の流れの違う場所の所為だ。折角だから、珈琲の一杯でも飲んで行こう、音楽でも聴きながら。涼はカウンターのスツールに腰掛けた。今どき、あんな穏やかな音で歌ってくれるレコードなんてそう聴ける訳じゃないし。
 少女が取り替えたレコードは、今度は低声で明るいアリアを歌っている。どこまでも古めかしい音楽ばっかりだな、と涼は微笑んだ。悪くない。
「珈琲、頼めるかな」
 カウンターの中へ戻って来た少女に、涼は声をかけた。少女は微笑んだまま頷き、これもまた時代錯誤なサイフォンに向かった。
 細い鳶色の髪を垂らした娘だ。ヨーロッパ系かな、と涼は思い、苦笑して頭を振った。つい、昔の癖が出たらしい。やめよう、折角こんな暖かい音楽が流れている場所で。人の身体的特徴をカテゴライズしていっても、もう何の役に立つ訳じゃない。

 涼は、ほんの数年前までは医療に従事し、少しでも更なる希望を傷付いた人々に与えるべく、医学大学に籍をおいて勉強に励んでいた。
 慣れない医療用語やカルテの為のドイツ語と格闘していた頃はある意味倖せだったな、と思い返す。
 その頃は希望しか抱いていなかったかもしれない。まさか、自分の城だった白い清潔な、消毒液の匂いのする建物が涼にとってその存在理由を掌返したように変わってしまうなんて、夢にも思わなかった。

「……まあいいや。君は、ラテルネ、そういう事にして置こう」
「どうぞ」
「……ああ、ありがとう」
 目の前に出された珈琲に口を付けた涼はあち、と小さく叫んで慌ててカップを置いた。ラテルネは可笑しそうにくすくす笑っている。気をつけて、熱いんだから。
「そうだよな、うっかりしてたよ。……何しろ、煎れたての熱い珈琲なんてしばらく飲んだことがなかったから」
 ──そう、丁寧に煎れたばかりの熱い珈琲をゆっくり味わう時間など、最近の涼には無かった。寛ぐ、なんて言葉を、すっかり忘れていた。
 珈琲を飲むとすれば極度の緊張を保ち続けた疲労から来る、抗い難い眠気に対抗する時位だった。勿論、そんな時には珈琲の香り楽しみながら身体を休める余裕がある筈もない。

──常に起きて前を向け。

「……、」
 ある記憶が蘇りそうになった。
 涼は穏やかな表情のまま、その青い目に寂し気な色を落として幽かに頭を振る。

 ──その時だ。まるでそんな涼の心中を映したかのように、その音楽が流れ出したのは。

【2】

「──あ……、……曲が変わったな」
 プッチーニの未完の歌劇、「トゥーランドット」。

──Nessun dorma, nessun dorma...

 誰も寝てはならぬ──か。
「このオペラも、悲しい話なんだよ」
「……?」
 ラテルネは不思議そうに首を傾いでいる。辛気臭い顔をしたかな、と涼は慌てて微笑を返した。
「リューの事だよ。俺、彼のシーンの事を思うとどうしてもハッピーエンドとは思えないんだ」
「そうかしら」
「悲しい話だと思わないか?」
「悲しいわね。……でも、リューは本当に不幸だったかしら」
 ──少なくとも、命を懸けて王子を守ったことはリュー本人の意思よ、ラテルネは独り言のように呟いてアリアに耳を澄ましている。
 「銀の声」と称された20世紀後期のテナー歌手の歌声は、その明るい響きで持って、直後に起こる悲劇の悲しさを仄めかしているようにさえ感じられる。
 でも、涼にとってはこの音楽は、明るい──非常に明るい響きを持って記憶の中に響き続けて居たものだ。──あの日から今まで、ずっと。

「……本当はね、俺、好きなんだ、この曲」
 涼は、視線は珈琲カップに、耳はレコードの旋律に向けたまま口を開いた。
「好きなんだよ。今でも、ふとした拍子に頭の中で鳴る事があるんだ。……尤も、こんな上手い歌じゃなくてすごく素朴な鼻歌で、なんだけど」
「……、」
「……いわゆる、『思い出の曲』って奴だ。……忘れちゃいけない、……な」
 再びカウンターに頬杖をついていたラテルネは、どこか存在感がない。その所為なのかもしれない、涼が初対面の人間へ普段なら口にしないような事を呟いてしまったのは。彼女自身へ伝える言葉ではなくて、少し悪い気もするが。
「聞いてくれるかな」

──Nessun dorma, nessun dorma...

【3】

──涼! ぼけっとすんな、走れ!

「俺は元々、医大に居たんだ。ドイツ語が多少分かるのはその所為なんだよ。医者になりたかったんだ」

──何だ、お前エスパーなんだな。……いや、大丈夫さ。実は、俺もなんだ。

「そう、医者になって、一人でも多くの命を救いたい、なんて思っててね、だから勉強は頑張ってたけどさ、本当、平凡な一般人だったんだよ。……あ、多少刀も使えるんだけど、それは、自分の意思で自制できたし、──だから、まさかあんな事が自分の身に起こるなんて思いもしなくて、……本当、どうしようかと思ったよ。自分が止められないんだ。自分の意思とは裏腹に周りの人間をどんどん傷付けて行く。……どうしようもなかったんだ。でも、その力が暴走した俺自身の能力であることは確かでさ」

 ──数年前の事だ。
 彼の在籍する医学大学内で行われた実験に、涼は一学生として立ち会っていた。
 今後、医学の分野にも大きく貢献するだろうと思われるESP能力に関する実験だった。
 その時の気持ちを、よく覚えている。
 ……もしも、サイコ能力によって今まででは医学の限界とされていた、こんな事ができたら? 或いは、この能力が活かせれば、今までは見殺しにしかできなかった人間の命さえ救えるのでは?
 ──純粋だったとしか云えない程にひた向きな真剣さで、そう、彼は実験内容の説明に耳を傾けていた。真剣だったが、まさか、その直後に自分の身にあんな事が起こるなんて。

『……!?』
 事故だった。涼の目の前で、辺りが真っ白に見える程に強い光が広がった。

 その時、涼はエスパーになった。

──御影は、もうどうしようもない。……優秀な学生だったが、あれでは。

 涼は、生まれつきESP能力を所有していた訳ではないのだ。強力な武器と同じで、今まで扱った事の無かったものを、「それを使用し得る」程成長した青年が急に手にしたら。結果は、──危険物の暴走、だ。
 
 今までは、そこに居ることで人の命を救う医者になるという夢の象徴だった。白い清潔な、消毒液の匂いのする建物。それは、涼を閉じ込めにかかった。隔離、という名目の許で。夢の城は、そこにたった一本の線が引かれただけでいとも簡単に牢獄に変わってしまったのだ。
 涼は、夢中でそこを飛び出した。

 ──アテがある筈もない。計画も何もあったものじゃなかった。ともかくESP能力を必死で制御すること、そして、実験体にされる前になんとか逃げ延びる事だけで精一杯、冷静に考える暇なんてなかった。
 追手はすぐにやって来た。撒きつ撒かれつの鼬ごっこを続けていたが、掴まるのは時間の問題だった。

 そんな時、「彼」と出会った。

『何だ、お前エスパーなんだな。……いや、大丈夫さ。実は、俺もなんだ』
 涼を匿ってくれた「彼」はエスパーで、しかもお尋ね者なのだと云う。何をしたんですか、と問う涼に、いやあ、俺もまだ自分の能力が制御できなくてよ、と「彼」は何でもない事のように明るく云って笑った。唖然としながらも涼は、彼のその笑顔にどれ程救われたか分からない。──あの日以来、涼は初めて笑った。
 それでも、「彼」は涼より格段に色々な事を知っていた。追手の撒き方、身の隠し方、……混沌としたこの世界で、生き延びる為の様々な方法。
 涼には未知の事ばかりで、逐一目を見開いてばかりだったのだが、「彼」は涼に不思議と不安を与えない程、それらの話を気さくな笑顔と気遣いで持って話してくれた。
『……、』
 そうしながら一緒に街を飛び回る道中、彼はずっと明るかった。涼が不安を感じて気を挫きそうになった時でも、明るく素朴な「彼」の口ずさんで居た鼻歌に随分と気を紛らわされた。

──誰も寝てはならぬ、誰も……、

 ある時、「彼」は珍しく真剣な表情で涼に云った。
『この混沌の世界では目を開けていろ。決して目を瞑るな、反らすな。寝ていちゃ負ける。常に起きて前を向け。幸運がいたら見逃すなよ』
 ──誰も寝てはならぬ。

『涼! ぼけっとすんな、走れ!』
 辺りには、涼と「彼」の息せき切った足音が響いて居た。遠くには二人を探す複数の人間の足音と、怒号が聞こえる。
 二人共、必死で走っていた。もう、ずっと。どれだけ必死でも、体力の限界はその速度を奪って行く。
 やや身体をふらつかせていた涼の腕を「彼」が引っ張り、二人で息を殺して物陰に隠れた。
『──……、』
 涼の体力は限界だった。がく、と頭を前へのめらせた涼の肩を、強い力で「彼」は掴む。
『目を瞑るんじゃない、』
『……、』
 足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
『生きるんだ、生き延びるんだ。お前はまだこれから、見なきゃいけない事、やらなきゃいけない事が一杯ある。死ぬのは未だ早いぞ。生きるんだ、その為には目を開けていなきゃいけない』
 居たぞ、という声がもう目の前で聞こえた。
 ──次に涼が見たのは、自らの血で赤く染まった彼の大きな身体と、何かを告げようとするように薄く開かれた彼の口唇だった。

『生き延びろ』

──誰も寝てはならぬ、……誰も寝てはならぬ、……。

【4】

「悲しかった?」
「勿論悲しかったよ。絶望した。今だって悲しくて仕方ないよ。……でもさ」
 珈琲カップを持つ涼の指は軽く震えていた。珈琲は、すっかり冷めてしまっている。
「捨てちゃいけないんだよな。『彼』がくれた命をさ。あの人にだって、まだ見てないものややりたい事が一杯あった筈なんだ。それを、俺はまだ何も見てない。まだ何もしてない。……あの人の替わりにそれを見届けるまで、目を閉じる訳には……眠る訳には行かないんだ」
 冷たくなった珈琲を一気に飲み干して、涼は、都合良い解釈かな、と幽かに笑った。
「その人が、あなたに残してくれたのね。生きる事を忘れない為の音楽を」
「音楽……、そうだったのかな」
 そうよ、とラテルネは涼のカップを下げ、代わりにいつの間に煎てたものか、また熱い珈琲を入れたカップを置いた。
「寂しいけど、人は色々と忘れてしまうの。出会った人や、人から貰った言葉や、思い出もね。でも、不思議だけど音楽って、必ず残ってるの。色んな物と一緒に。音楽を覚えている限り、人は大切な事を失わないでいられるのよ」
 レコードは、いつの間にか最初に聞いた歌に変わっていた。
「その人は、知ってたのね、その事を」

──Wie einst Lili Marleen...wie einst Lili Marleen...

「……ラテルネ、」
 涼ははっとして顔を上げた。
「……分かった、君、リリィ・マルレーンだろう」
「……、」
 ──彼女は、黙って微笑んでいた。
「──『街灯りに君の姿、生きて帰れたら、また再び逢おう、リリィ・マルレーン』、戦争で、人々が忘れてしまった恋人、君の居る場所が、」
 彼女は、しーっ、と云うように口唇に立てた指先を当てた。
「そんな事はどうでもいいのよ、ただ、思い出して欲しかっただけなの。音楽を思い出した時に、その場所がその人にとって『ラテルネ』になる事」
「Laterne、……『灯り』だね」

【5】

 もう帰るの? とラテルネは聞いた。涼は最後に熱い珈琲を飲み、頷いて立ち上がる。
「眠くなる前に、戻らなきゃ」
 そうでないと、「彼」から貰った音楽も意味を失ってしまう。
「……あ、ごめん、長々と話を聞かせたのに俺、まだ名前も云ってなかったな、」
 俺は──、と云いかけた涼の前で、ラテルネは歌を歌っていた。
「Nessun dorma, nessun dorma...」
 まるで、涼の言葉の続きを遮るように。そして、歌を止めると涼に向かって最後の笑みを向けた。
「折角聞いたのに、名前を忘れてしまっては寂しいでしょう? だから、私は音楽だけを覚えていることにするの」
「……、」
 そして、彼女はまたその旋律を繰り返し口ずさみ始めた。
「……じゃ、」

 夜の街は冷えきっていた。急激な温度差に涼は一瞬首を竦めて俯きかけたが、すぐに顔を上げて視線を前へ向けた。
「……Nessun dorma, nessun dorma...」
 誰かのように、素朴な鼻歌を繰り返し口ずさみ始めた涼は、この世界が未来という希望を潜ませて彼を迎えているように感じた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0398 / 御影・涼 / 男 / 23 / エスパー】

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■         ライター通信          ■
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御影様、初めまして。
この度は忘れられた街角の「灯り」へお立ち寄り下さいましてありがとうございました。
非常に過酷な条件下に生きて居らっしゃるようですが、少しは御寛ぎ頂けましたでしょうか。
悲しいお話だと思いましたが、同時に、「彼」はなんて希望の持てる素晴らしい音楽を残してくれたのかとも思いました。
御影様がこの先も、時には音楽を支えに生き続けて下さるよう祈るばかりです。

x_c.