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■悪魔の飲み物ですっ!■
ほんのりとあかく染まったイレーシュの体から立ち上る湯気が、廊下に流れていく。ここ最近めっきり肌寒くなり、開け放たれた窓からひんやりした風が吹き込んで来た。
イレーシュはぴたりと足を止め、窓の外から聞こえる虫の音に耳を傾けた。静かに窓に近づくと、頭上に青白い月が浮かんでいた。
「‥‥何してんの、イレーシュ」
キッチンの方から聞こえてきた声で、イレーシュは振り返った。ダイニングテーブルの椅子に腰掛けたオルキーデア・ソーナが、イレーシュの様子をじっと見ている。オルキーはいつもよりずっと上機嫌の笑みを浮かべ、手の中にあるグラスをゆらゆらと揺らしていた。
グラスの中には、赤い液体が入っている。
それを見た時、イレーシュは嫌な予感がした。あまり考えたくないが、オルキーの様子からすると、その液体の正体は間違いないだろう。そしてイレーシュのオルキーに対する認識が間違っていなければ、彼女は必ずある行動に出る。
イレーシュは、眉をしかめながら、テーブルの反対側の椅子を引いた。
「オルキー、またそんな格好で居るの。もう夜は寒いわよ?」
イレーシュに注意され、オルキーは椅子に座り直した。キャミソールの胸元から、オルキーのふくよかな胸の谷間が除いている。しかし、組み直した足の付け根には、秘部を隠すはずのものは何も無かった。
「いいじゃない、キャリーの中は暖かいわよ」
彼女は、イレーシュの言う事なんてちっとも聞く気が無いらしい。そればかりか、やはりイレーシュの想像通りの行動を起こした。
「‥‥それより、イレーシュも飲んでみなさいよ」
と、オルキーはグラスをイレーシュに差し出した。イレーシュはじいっ、とグラスを見おろす。きっと、今のイレーシュはとても嫌そうな顔をしているに違いない。
「それは‥‥悪魔の飲み物です。私は頂きません」
イレーシュの悪魔の飲み物発言に、オルキーはキャリー中に響く程の声で笑いはじめた。
「あはははっ、大げさねぇイレーシュは」
何と言われようと、イレーシュは絶対にそれは飲まない。
それというのも、イレーシュは分かっていたからだ。そう、それが自分にどんな効果をもたらすのか‥‥。
しかしそんな事には気づかないオルキーは、テーブルに置いたビンを引き寄せた。くるりビンを回し、イレーシュの方にラベルを見せる。
「イレーシュ見て、シャトー・オーブリオンよ? この間寄った街で盗賊退治に手を貸したでしょ? その時、お礼にってもらったのよ。‥‥凄いでしょう?」
オルキーは、満足そうにグラスを胸元に抱き寄せる。
シャトー・オーブリオンは、唯一メドック以外で第一級の格付けを得ている、フランスでも五本の指に入るシャトーである。オルキーがご満悦なのも無理は無い。
「‥‥ねえ、オルキー。そういう凄いワインは、取って置いた方がいいんじゃないですか?」
取っておく気になれば、オルキーはこれ以上飲もうとはしないはずだ。オルキーが飲むのを阻止しようとする、イレーシュの策略であった。
「大丈夫よ、もう一本キープしておいたから」
だから、とオルキーはグラスを出した。
何がなんでも、イレーシュに飲ませたいらしい。
むろん、高価なワインを味わって欲しいという気持ちもあるのだろうが、それよりも何か含んでいるようなオルキーの笑顔が気になる。酔わせようという考えが見え見えだ。
イレーシュは絶対に、その手に乗るわけにいかない。
「飲みません。‥‥オルキー、早く服を着てくださいね。私は向こうで本を読んでます」
早くその場から退散しようと立ち上がったイレーシュに、オルキーが追いすがる。イレーシュの手を掴み、引き留めた。
手を掴んだまま、オルキーは黙っている。イレーシュは不審に思い、振り返った。
「オルキー、いい加減にしてください」
目が合ったオルキーの顔が、イレーシュに近づく。オルキーの唇がイレーシュに重なり、彼女の舌がイレーシュの口に侵入してくる。
反射的に逃げようとしたイレーシュを、オルキーは背中に手を回してがっちり抱え込んで制止した。
オルキーの口から、イレーシュの中に液体が注ぎ込まれ、口の端から零れたそれは顎を伝って胸元に落ちていく。
何を飲まされたか分かったイレーシュは、思い切りオルキーの体を突き飛ばして離れた。
「オ‥‥オルキー‥‥何をするんですか!」
「うちの酒が飲め無いなんて言う子には、おしおきしなきゃね」
酔っぱらったセクハラオヤジじゃ無いんだから‥‥。イレーシュはため息をつくと、テーブルの方を見た。
「‥‥少しだけですからね」
少しだけ‥‥。そう、酔わないように気を付けていればいいのだ。そうすれば‥‥。
イレーシュは椅子に座ると、グラスをもう一つ出した。オルキーは楽しそうに、イレーシュの持ったグラスのビンの口を近づける。イレーシュは、真剣な面もちで、ビンから注がれる赤い液体を見つめていた。
半分まで注がれた所で、イレーシュが声を上げた。
「あ、オルキー‥‥もう‥‥」
「ダメ。一杯まで入れなきゃ」
イレーシュの制止もきかず、オルキーはワインをグラスになみなみと注いだ。酒を飲み慣れないイレーシュには、どれだけ飲めば自分がどれだけ酔うのか、さっぱり分からない。
この一杯が、自分をどれだけ酔わせるのか、かなり心配である。
少しだけ口を付けると、赤ワインの深い辛みが喉にじわりと染みこんできた。
むうっとイレーシュは、眉をしかめる。
「‥‥まあ、美味しいですけどね」
「でしょう?」
不味い訳が無く、イレーシュはその味をつるつると堪能しつづけた。こうして酒を飲みながら話しをするのは、大人の特権だ。
イレーシュと酒が酌み交わせるのが、オルキーは嬉しいようだ。
その気持ちは、イレーシュにも分かる。
だから、もう少しだけオルキーに付き合う事にした。
ワインが残り半分を切った所で、イレーシュの様子が変わったのにオルキーは気づいていた。イレーシュの白い首筋は赤く染まり、目は据わっている。
何より、その飲みっぷりはオルキーも目を見張るものだった。
「ねえ‥‥イレーシュ、もう止めておいたら?」
「どうして? 誰にも迷惑掛けませんよ」
いやほら、明日キャリーの中で酔っちゃうし‥‥とオルキーが言うと、イレーシュはケタケタと笑った。
「フフ‥‥そうしたら、オルキーに介抱してもらうからいいです」
「いや‥‥でもね‥‥」
彼女に何と言っていいのか、どうやって制止しようか思案しながら、オルキーはワインのビンを手元に寄せた。とにかくこれ以上飲ませない為にも、ビンは確保しなければならない。
これは、アレだ。オルキーは、流れる冷や汗を指で拭った。
泣く、笑う、怒る、絡む。
最後の方でなければいいのだが。オルキーは心底祈りながら、再度イレーシュに声を掛けた。
「飲み慣れないのに無理すると、体を壊すわよ」
「そうすると、私の力で自分を治します」
オルキーは、無言で深くため息をついた。
今のイレーシュには、何を言っても無駄だ。
ふ、と視線を上げると、イレーシュはグラスに残っていたワインを一気にあおると、椅子をけたたましく鳴らしながら立ち上がった。今度は何をする気なのだろうか、とオルキーは不安一杯で、立ち上がる。
一歩、足を踏み出したイレーシュはぐらりと体を傾けた。平行を保つ事の出来ない体を、壁に手をつく事で必死に支えようとしている。ふらふらしながら、イレーシュは歩き出した。
「ちょっと‥‥イレーシュ、寝るならこっちよ!」
「ちがいますぅ‥‥暑いから‥‥ちょっと涼みに行くんですぅ」
こんな時間に!
オルキーは、慌ててイレーシュの腕を掴んだ。
「何言ってるの、この間みたいに盗賊が出たらどうするの! 危ないから、こんな時間に出ていかないで」
「大丈夫ですぅ‥‥3キロ先に、騎士団が駐屯する街があるはずです‥‥盗賊なんか出たら、一目散に騎士様がやって来ますよぉ」
(そういう事は、よく覚えているんだから‥‥)
呆れるオルキーの腕をぱっと振り払うと、再び歩き出した。
ドアを開け、危なっかしい足取りで外に出るイレーシュ。
「イレーシュ、いい加減にしないと‥‥」
言いかけたオルキーの方に、イレーシュがすうっと振り返った。イレーシュと目が合い、オルキーは言葉を中断してイレーシュを見つける。
戻る気になったのか?
そう思っていたオルキーの思考を、イレーシュが停止させた。イレーシュの腕がオルキーの首に回され、体を優しく抱きしめる。
オルキーは呆然と、イレーシュが自分に近づくのを見つめていた。小さく柔らかいイレーシュの唇がオルキーの唇に吸い付くと、いつものイレーシュには考えられない熱いキスをオルキーにしたのだった。
あまりの出来事に、ただ呆然と立ちつくすしか無いオルキーを、ようやく離れたイレーシュがすうっと笑みを浮かべて見返した。
「オルキー‥‥どうしたんですかぁ?」
どうもこうも無い。
イレーシュは、酔っぱらっている事に自分で気づいていないようだった。ハイテンションでオルキーに何ごとか話したてると、オルキーに飛びついてきた。
イレーシュの勢いに押され、オルキーはキャリーの壁に叩き付けられる。キャリーの冷たい金属の感触が、オルキーの背中を冷やしていった。
「いい加減に、キャリーに戻ろうよイレーシュ」
静かな口調でオルキーが言う。
酒が入って潤んだイレーシュの目は、キャリーの壁に反射した月の光を受けて輝いていた。すう、とイレーシュは手を伸ばし、オルキーの腰に手をひた、と添えた。
そのまま滑らせるように、オルキーの体を撫で上げる。イレーシュの指がオルキーの胸の突起を捕らえると、オルキーはびくっと体を震わせた。
慌ててイレーシュの手首を掴む。
「ダメよ‥‥今日は私が、オルキーを虐めてあげるんだから」
楽しそうに笑いながら、イレーシュはオルキーを抱きしめて地に横たえた。
すやすやと寝息をたてるイレーシュをちらりと見つめながら、オルキーは毛布を引っ張り上げた。
酒乱じゃないかと想像はしたが、まさかここまでとは‥‥。先ほどまでの暴走ぶりが嘘のように、イレーシュはベッドで静かに眠っている。
じんじんと痛む左手をひょいとあげると、手首にはイレーシュに掴まれた時についた痕がくっきり残っていた。
(これじゃあ、イレーシュにとって悪魔の飲み物な訳ね)
オルキーは苦笑しつつ、そっとベッドに滑り込む。
イレーシュにとって、ストレス発散になったかしら。今度は、お酒の飲み方をちゃんと教えておいてあげなくては。
おやすみ、イレーシュ。
耳元で囁くように言うと、オルキーは心地よい酔い心地とともに深い睡眠へと意識を落とした。
(担当:立川司郎)
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