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夜と朝のはざまで
――きっと、あたし達は解りあえる。
いつか彼女が言ったその言葉を、私は頭の中で反芻する。
全てを包み込み、己の色に塗りつぶしてしまうかのような、宵闇の世界で。
彼女の安らかな寝息だけが、小さく、かすかに聞こえてくる。
雲間から姿を現した蒼白い月の輝きが、窓辺に面したベッドの上に横たわる、彼女の頬を仄かに照らした。
夜を渡る静かな風が、開け放たれた窓の向こうから流れこんできて、炎を思わせる、鮮やかな色の髪を優しく揺らす。
天使の寝顔から、わずか30センチメートル。
手を延ばせば届く距離で、私もまた同じベッドの上に横たわりながら、眠る彼女の姿をぼんやりと見つめていた。
滅びに満ちたこの世界をあてどもなく旅するものを何かに例えるとしたら、それはさながら救いを求めて姿さえ知れぬ神を探す、敬虔な巡礼者のようなものなのかもしれない。
彼女と私は、まさしくそんな存在だった。はじまりはどうあれ、今となっては。
彼女の名は、カペラ・アトライル。炎を自在に生み出し、操る力を有した、発火能力者。
そして彼女とともに旅をする私は、ウィルクラウト・エルケーニヒ。かつては、『エヴァーグリーン』医療部に所属していた研究者……だったが、今はどうでもいいことだ。
ただ、過去・未来における発火能力者のあらゆるデータを収集、分析する――その為に私は、カペラと行動を共にしてきた。
しかしそのうちに、本来の目的よりも、彼女とともに過ごす時間そのものを、かけがえのないもののように感じ始めている――。
自分でもそんな心境の変化が、信じられなかった。
「うう……ん……」
愛らしい声とともに、カペラがかすかに身じろぎする。
寝つきがいいのは結構だが、そもそも、私は異性として認識されていないのかもしれない。
他に眠るためのスペースがなかったとはいえ、一緒のベッドで眠ることになっても、まったく平然としていた彼女。
むしろ戸惑っていたのは私の方だった。遠慮して床で寝ようとしていた私に、
「いつも野宿してる時はそんなのおかまいなしでしょ」
と彼女は笑った。
やむを得ず、少し距離を置いてひとつのベッドに横たわった私達。しかし明かりを落とすと、彼女は警戒するそぶりすら見せず、すぐに寝入ってしまった。
……人の気も知らないで。
その屈託のなさを、私は半ば呆れ、半ば羨ましく思った。
そんな彼女を横目で見やりつつ、なかなか寝つけずにいる私は、これまでに幾度となく繰り返してきた自問を、胸の中でまた呟いた。
――私は、彼女に何を求めているのか、と。
これまでの私には、考えられないことだった。他者に何かを求めるなど。
そう、『エヴァーグリーン』に所属していた頃は――いや、正確には、カペラと出会うまで――私の精神(こころ)は満たされていた。少なくとも、満たされたいと感じるようなことは一度もなかった。欲しいと思ったこともない。
ただ、己の興味という欲望に駆り立てられるまま、研究に没頭する日々。その中で出会ってきた同僚も、そして研究対象としてきた数多くの能力者たちも、全ては研究のための情報源であり、研究材料(モルモット)に過ぎなかった。
人が、人の形にすら見えていなかったのかもしれない。
そんな私だったから、カペラと過ごすようになったここしばらくの日々は、驚きと発見、そして不可解な出来事の連続だった。
――よく笑い、よく怒り。時に暗く沈んだり、他愛もないことに必死になったり。
あまりにもまっすぐに、自分に正直に感情を露わにできる彼女が、私には眩しく見えた。
そして同時に、自分がとてつもなく醜く思えた。
時折、彼女の瞳に、私がどう映っているのか、怖くなるときがある。
冷たい笑みで貌を飾ることに慣れすぎた私。皮肉の中に込めた拒絶で、無意識のうちに他者から身を守りつづけてきた私。
私の心はこの夜の闇のようなものだ。全てを黒く覆い隠して、その中で安らぎに沈んでいる。
だからこそ、さながら陽光のような輝きを放つ彼女が、怖いのだ。この心の闇に沈んだものを何もかも照らし出されてしまいそうで。
それなのに。そんな彼女にどうしようもなく惹かれるのは――何故だろう。
「……キミを見ていると、わからないことばかりが増えていくな」
私は眠る彼女を見つめた。目覚めている時の凛とした表情とはまた違う、あどけなさすら感じさせる愛らしい寝顔。
「キミには気の毒だが……全ての答えが見つかるまで、そばで観察させてもらうよ」
微笑んで、そう小さく呟く。
……それにしても。
いつも一人で寝ている時は寝相が悪いくせに、彼女はこうやって私のそばで寝ている時に限って、寝返りをうとうともせずに30センチメートルの距離を維持しつづけている。
……近くて遠い、二人の距離そのもの、か。
せめて眠っている時くらいは、甘えてきてくれてもいいものを……。
そして自分でも意識しないうちに、私は手をのばして彼女の髪にそっと触れていた。
不可解に胸が苦しくなるのを感じながら、その髪を優しく撫でる。
彼女はまるで猫のように、心地よさそうに身じろぎすると、再び規則正しい寝息を立てはじめた。
※ ※ ※
――きっと、キミには理解できないよ。
いつか彼が言ったその言葉を、あたしは心の中で反芻する。
目覚めると、ウィルの寝顔がすぐ目の前にあった。
慌てて身を起こして、周囲を見回す。
すでに窓の外からは白い光が差しこんでいて、部屋は朝の清々しい空気で満たされていた。
眠る前には、一応距離をおいてはいたはずなのに。目が覚めてみると、あたしはベッドの半分以上を占領し、彼をベッドの端ぎりぎりまで、おいやってしまっていたらしい。
1 かわいそうに、悪いことしちゃったな――という思いと、いくらなんでも、ちょっと無防備だったかな――という反省が胸を覆う。
一見、男性だか女性だかわからない顔をしてるから、ついつい彼が『彼』だという意識が薄れてしまうんだけど……。
あたしはベッドから起きあがると、部屋の奥にある、ヒビの入った洗面台の前に立った。割れかけの鏡に映る、まだ眠気で冴えない自分の表情を見つめながら、顔を洗い、髪を梳かす。
そしてベッドに戻ると、ウィルはまだベッドの端の方で、静かな寝息を立てていた。
「おはよ、ウィル。もう朝だよ」
ウィルは答えない。何の反応も示さず、眠りつづけている。
「ウィル、まだ寝るのー?」
ゆさゆさと肩をゆすってみる。
「ん……ああ……」
ようやく、そう小さく呟いた。そして寝返りをうつと、ベッドの中央へ。
そういや、昨夜はあたしのせいで、ずいぶん窮屈な思いしてたんだろうな。そう考えると、なんだか無理に起こすのもかわいそうな気がしてきた。まあそうでなくても、彼はいつも朝となると、決まって恐ろしく寝起きが悪いんだけど。
まあ急ぎの予定じゃないし、もう少し寝かせておいてやるか。
小さく笑って、ベッドの端に腰を下ろすと、仰向けになったウィルの寝顔をのぞきこむ。
まるで夜の闇みたいな漆黒の髪と、透き通るような白い肌。女のあたしが見ても思わず嫉妬してしまいそうになるほど、すっと整った鼻梁。
いつもは、憎ったらしい笑みばかり浮かべてる端正な顔立ちも、眠っているときは、本当に穏やかな顔をしている。夢見るその表情は、まるで無垢な赤ん坊のように見えた。
……かわいい。
あたしの胸の奥に、むくむくと悪戯心が沸きあがる。
そっと指先をのばすと、ウィルの白い頬をつまんで、むにっと引っ張ったり、鼻筋をつまんでみたりする。
いつもあたしをからかってばかりの彼に対するささやかな復讐だ。
「んん……。頼むよ、もう少し……寝かせてくれ……」
目覚めている時のでかい態度からは考えられないような哀願とともに、彼は寝返りを打つと、あたしから逃れるようにベッドの奥に転がって、こちらに背を向けた。
ウィルクラウト・エルケーニヒは奇妙な男だった。
研究者だと名乗った彼は、出会ってまもなく、あたしの発火能力についてのデータを取りたい、研究に協力してほしい、と一方的に頼み込んできた。そして、気がつけばどこに行くにも、後をついてくるようになった。
どこへ行っても危険だらけのこの時代。この身体ひとつ――この『能力』ひとつで数多の修羅場の中を生き抜いてきたあたしにとって、この華奢な体躯に女性と見まごうような黒髪碧眼の同行者は、あきらかに足手まといになるとしか思えなかった。
しかし、様々な分野における豊かな知識と冷静かつ正確な分析力・判断力、そしていざ危険に巻きこまれたときに発揮する卓越した銃の腕――。いつしか彼は、厄介者の同行者から気を許せる友人、そして今や背中を預けるに足る、相棒と呼べるほどの存在になっている。
もっとも、あたしもウィルも、決してお互いに背中を預けたりなんてしないけど。
人は一人じゃ生きていけないけれど、それでも一人で生きなきゃならない――。シビアな現実を生きぬいてきたあたしには、その言葉が沁みついている。
そしてウィルもまた、他人に心を許したり、自分のそばへと踏みこんで来られるのを、怖れているようだった。だからきっと、綺麗な貌に冷たい笑みを張りつけて、全てを見透かしたような言葉で相手を翻弄したり、からかったり、意地悪や皮肉を言ったりする。
……だけど。
何の気なしに、あたしは背を向けて寝息を立てているウィルにすり寄ると、その横たわった背中に、とん、と軽く自分の背中をもたれさせてみる。文字通り、『背を預ける』の図。
「……う……やめてくれ……。重い……」
そう言って、ウィルはさらにベッドの奥へと寝返りをうち、離れた。
――失礼なヤツ……。
寝てる時でもやっぱり憎ったらしい、天使の寝顔を、あたしは恨めしげに見つめる。
――せめて寝てる時くらい、こうしててくれてもいいのにさ。
そしてあたしはくすくすと小さく笑うと、肩をすくめた。
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