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<東京怪談ノベル(シングル)>


■胸の中の記憶の光■
窓から照りつける暖かな日差しも、頬を撫でる風も、聞こえてくる鳥の囀りも、高遠弓弦の心を溶かす事は出来なかった。
 空虚な穴は死という永遠の闇によって穿たれ、決して溶ける事のない氷で覆われた。溶ける事も、溶かす事も‥‥何も望んでは居ない。この空虚な心を、どうやって埋められるというのか。
 高遠は、手の中の冷たい感触を感じながら、窓の外をじいっと見つめ続けた。
 窓の外の景色を楽しんでいる訳ではない。
 消えゆく思い出と記憶を、見つめているのである。

 ひときわ強い風が吹き、カーテンがふわりと浮いた。風は弓弦の銀色の髪をさらい、部屋を駆け抜けて廊下に消えていく。
 と、カタン‥‥という乾いた音が弓弦の背後で響いた。誰もいないはずのこの家で、何が音をたてるというのか。弓弦はゆっくりと振り返った。
 何も無い。何も居ない。
 弓弦は静かに椅子から立ち上がると、歩き出した。音が聞こえた方角に、視線を向ける。
 木のテーブルの上に置かれた、写真立てが倒れている。そっと手を伸ばし、弓弦は右手で写真立てを起こした。
 ガラスで出来た写真立ての中では、うっすらと笑みを浮かべた弓弦が映っている。その横には、彼女の唯一の肉親であった姉がこちらに笑みを向けていた。
 対照的な、姉の姿。
 弓弦の左手には彼女の位牌が握られ、右手には生き生きとした姉の笑顔がある。
 弓弦は、視線を左手に移す事が出来なかった。姉の姿を、直視する事が出来ない。信じたくは無かった。
 知らずうちに震える、右手の中の写真立てを弓弦は壁へと叩きつけた。割れたガラスは、キラキラと日の光を反射しながら床に降り注がれていく。
 そしてまた、彼女の手の中には死だけが残された。
 彼女に残されたのは、“死”だけ‥‥。
 枯れ果てたと思った涙が、弓弦の頬を伝う。
「‥‥どうして、私を一人にするの?」
 ただ一人残された弓弦は、彼女以外誰もいなくなった家で、小さくつぶやいた。

 ぼんやりとした意識のまま、弓弦は廊下を歩く。現実に、自分の居場所を感じられない。自分を必要としてくれていた姉は、もうこの世に居ない。
 父と母も、姉も‥‥もう誰もいないのだ。
 もし、父と母が事故で死んでいなければ、姉も死ぬ事は無かっただろうか。運命は変わっていた?
 この家で‥‥ここで、家族は暮らしていただろうか。
 弓弦は、キッチンを見回した。母が料理を作り、姉が手伝っている。自分は、新聞を読む父と話しをする。そんな、ごく日常的な光景がここにあったかもしれない。
(私は‥‥どうすればいいの?)
 誰もいないこの家で、自分は何の為に生きればいいのか?
 気が付けば、弓弦はキッチンでナイフを取り出し、凝視していた。このまま喉を突けば、両親や姉の所に行けるかもしれない、という思いが、弓弦の中に芽生える。
(何も無いじゃない‥‥大切なものをすべて無くして、私を必要としてくれるものは何も無いというのに‥‥)
 私はここに居る意味が、あるんですか?
 弓弦は、自分に語りかけた。すべてを無くし、弓弦は姉と暮らしたこの家で生き続ける意味を見失っていた。
 生きたい。本当は、姉の分も両親の分も、生き続けたい。心の底でそう願っているのは、このナイフが突けない事が証明していた。
 つ、と弓弦は力を込める。白い喉に小さな赤い水滴が染み出し、ナイフを伝う。自分をこうして傷つける事は出来ても、自分を癒す事は出来ない。人を思いやる事は出来ても、人に分かってもらう事が出来ない。
(‥‥私の力は、生きろとは言ってくれない‥‥私を助けてはくれないじゃないですか。‥‥じゃあ、私はここに居てもいいの?)
 自分の力さえも否定しているのに、自分は何故生きなければならないのか。弓弦は、ナイフを握りしめたまま、ぎゅっと目を閉じた。
(どうして? ‥‥私の力は‥‥)
 自分の喉についた、小さな傷を癒そうと、弓弦は祈り続けた。この力が、自分に何かを与えてくれる。そう信じようとするかのように、弓弦は祈り続けた。

 それから、どれくらい時間が経過したのだろうか。
 弓弦は、いつのまにかキッチンの床に倒れこみ、眠っていたらしい。冷たい床が体を冷やし、弓弦の体温を奪っていた。
 ゆっくり体を起こすと、ダイニングの窓から青白い光が降り注いでいた。光はダイニングの中を冷たく彩り、暖かだった部屋を黒と青に塗り替えている。
 弓弦の手からこぼれたナイフは、床に転がっていた。
 ナイフを一瞥し、弓弦は立ち上がった。
 そっと喉に触れると、傷から出た血は固まっていた。癒しの力が働いた様子は無い。
(‥‥やっぱり‥‥)
 弓弦の力は、彼女を癒す事は無かった。
 力に、記憶に生きる意味を見いだそうとしても、思い出すのは人の笑顔と、交互に浮かぶ辛そうな顔。人を助けるたびに自分を傷つける弓弦に、姉はいつも辛そうな顔をしていた。
 結局、私には何も与えられないのね。
 そう。いつもこうして裏切られて来たではないか。この力で人を癒そうとしても、裏切られてきた。
(分かっていた事です‥‥よね)
 だから、ここに居ても仕方ない。弓弦はどこか苦しそうな笑みを浮かべると、俯いた。
 さらりと髪が肩を伝い、前に流れる。その拍子に、何かが襟元で音をたてた。
 胸元をしんしんと冷やす金属のものを、弓弦の手が握りしめる。
 服の中から取り出すと、それは月明かりを浴びてきらりと光った。青白い壁に、反射した光が映り込む。
 弓弦はそれを眩しそうに見つめていたが、やがて視線を胸元に戻した。青白い光を浴びて銀色に輝いているのは、十字架だった。
(‥‥これは‥‥)
 弓弦がいつも身につけていたこの十字架は、母が残してくれたものであった。母は、もうこの世に居ない。
 しかし、母の残した十字架は、まだ弓弦の胸元で光り続けていた。太陽の光を反射する月のように、夜を照らす月光のように、そしてそれを写す銀のクロスのように‥‥。
 ここには無くとも、弓弦を確かに母の記憶が照らしていた。
 ここには無くとも‥‥月明かりはまるで、自分を包み込む母の手のような気が気がして、弓弦は微笑を浮かべ、十字架をしっかりと握りしめた。


■コメント■
 どうも、立川司郎です。
 弓弦が自分の中の問いかけに、結局自分がどう結論づけたのかが、依頼内容から伺えませんでしたので、そのままノベルを終わらせています。何らかの形で納得して終わって欲しいのかな、とも考えたのですが、心理描写がメインの発注ですから、こちら側の勝手な解釈がお気に召さないと申し訳無いと思ったので、ご容赦下さい。