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桜の夢
薄紅色に染まった春霞の中を、はらはらと、途切れる事無く桜の花が舞い落ちていた。
「わあ」
故郷では目にしない光景に、アリーチェ・ニノンは声を上げた。満開の時期が短い花の散り際に、季節外れの留学生は偶然巡り合えたのだ。柔らかな雨の如く降り注ぐ花びらに、アリーチェは自分が置かれていた状況も忘れて見とれてしまった。
到着して間も無い不案内な土地で、目指す校舎はどこにあるのか分からない。勇気を出して、まだ不慣れなこちらの言葉で尋ねてみようにも、通りかかる人影も無い。14歳の彼女には、これ以上どうすれば良いのか見当がつかなくて、心細さを募らせながら、校舎の間を駆け回っていた。
その途中で不意に現れた桜並木は、胸一杯に広がり始めた不安を、一時忘れさせるほど見事な光景だった。
「きゃあっ」
どんっと勢い良く何かにぶつかり、アリーチェは転んでしまった。桜に気を取られすぎて、余所見をしながら走っていたらしい。
ぶつかった相手も、桜を眺めていたようだった。大学部の学生だろうか。眼鏡をかけて白衣を羽織った青年は、すっと屈み込むとアリーチェを助け起こしてくれた。
「ご、ごめんなさ‥‥いたっ」
ぶつかった詫びと、起こしてもらった礼を述べようとしたが、青年の上着のボタンに、アリーチェのゆるいウェーブがかかった髪がひっかかっている。
「すみません」
転んだ恥ずかしさに、知らない男の人とこんな至近距離で向き合う恥ずかしさが加わって、乱暴に髪を引っ張って外そうとした。だが、意地悪な事に、多分最初は軽く引っかかっただけの毛先は、慌てて取ろうとすればするほど、しっかりボタンに絡みついてしまう。
「ど、どうしましょう」
「弱ったね」
泣きたい気持ちになって、消え入りそうな声でアリーチェが呟くと、青年も苦笑いを浮かべた。
「仕方がないな」
(え?)
白衣のポケットから取り出されたカッターナイフに、アリーチェは僅かに息を飲んだ。このままではどうしようも無いのは、分かっている。でも、幾ら仕方がなくても、年頃の女の子にとっては、毛先を切られてしまうのはそう簡単に割り切れるものではない。その上、鋏ならまだしも、カッターでざっくりなどとは。
「顔、危ないから気をつけて」
ボタンを摘んだ青年の、残りの指先が絡んだ髪を握り込む。不平の一つを言ってみる度胸も無く、固く目を閉じて息を止めた。
(折角、綺麗に揃えてきたのに)
道には迷うし、なんて幸先の悪いスタートなのか。気落ちする間に、青年の手が離れた。
「もう大丈夫。後は自分でも取れるだろう」
そっと目を開けると、髪の先にボタンがぶら下がっている。
(ボタンの方を切ってしまったの?)
お礼を言わなければと思いつつ、焦るあまりに声が出ない。そうする間に、青年はすたすたと歩み去っていく。
「あ、あのっ!」
漸く呼びかけた時には、青年はかなり先まで行ってしまっていた。
「ありがとうございました。それで、あの、私迷ってしまって。こ、校舎の場所を教えていただけないでしょうか」
青年は訝しげにアリーチェを見たが、戻ってきてくれた。
「兄弟がこちらに?」
「いえ。留学生です。‥‥中等部の」
納得した様子で、教授の名は分かるかと問われ、答えると青年はその教授の部屋まで案内してくれた。
「やあ、遅かったね。迷ったのではないかと心配したよ。おや、それはどうしたのかね」
「あ‥‥」
指摘されて、すっかりあがってしまい、まだボタンをぶら下げたままだったと気付く。
「どれ、取ってあげよう。こちらへ来なさい」
「いえ、構いません。鋏を貸していただけますか」
誰にも触れられたくなくて、借りた鋏で急いで毛先ごと切り取り、そのままポケットにしまった。
昼休みにそっと、さっきの場所に戻ってみても、もう人影は無く。青空に向かって強い風に巻き上げられた桜吹雪は、高く昇った後再び乱舞して、視界を薄紅色に染めていく。
まどろみから覚めて、アリーチェは2、3度瞬いた。
(久し振りだわ)
開けた窓の外に広がる景色は、嵐の如く舞う桜ではなく、プラハの風景ですらなく、マジョルカ島の一角だ。アリーチェは、ぼんやりと明けてゆく空を見つめた。
この半年程は忘れていたが、プラハ留学時の思い出は、今でも時折夢に見る。楽しい思い出だけではなく、どこか切ない美しさを残すのは、あれが世界が最も輝いて見えていた時だからだろう。まだ、空に白い輪が生じる前。数年後には喪われ、二度と取り戻せなかった多くのものが、散りばめられた留学時代。
あの青年と再び会う機会はなく、留学を終えて帰国した。そのままなら、恋心と呼ぶには淡い気持ちは、他の思い出と共に、いつしか薄れていっていたのかもしれない。
けれども、審判の日が起こり、自身が奇跡的に生き延びたと言える状況を経て、当時の思い出はアリーチェの胸にしっかりと焼き付いてしまった。
ふと思いついて、アリーチェは先日まで上司だった男に尋ねてみた。
「夢を見ました」
「余程、良い夢だったらしいな」
アリーチェは軽く微笑んで続ける。
「私、14歳の頃にプラハに留学していました。着いた初日に、構内で迷ってしまって」
その後の顛末をかいつまんで話す。
「覚えていますか? 私、まだあのボタンをとってあるのですよ」
覚えているはずがない。もう20年以上も前に、彼にとっては、そそっかしい少女がぶつかっただけの出来事だ。後にプラハ研で働くようになり、アリーチェは一目で彼があの時の青年だと分かったが、その時でも彼は気付かなかったに違いない。プラハ研に来たアリーチェと結びつけるには、留学当時の彼女は、まだほんの少女に過ぎなかったので。
再びプラハを訪れた際に、もしかすると青年に会えるのではないかと、微かな期待は持っていた。プラハも失ったものは多々あるのだろうけれど、彼女の故郷に比べれば、泣き出したい位に、何一つ変わっていないと言っても過言では無かったから。
とはいえ、彼も自分と同様に留学生だったかもしれないし、生きていてもプラハにいるとは限らない。そもそも、留学期間中にすら、二度は会えなかったのだ。もし再会できたとしても、それでどうしようという考えも無かった。
ただ、本当にもう一度青年を見かけた時に、アリーチェにとって、彼は数少ない『審判の日に喪われなかったもの』となったのだ。それは、彼女にとってその後の希望で有り得たかもしれない。
それから今日まで、この昔話を告げる機会も、告げようという気持ちもなかった。しかし、カルネアデス戦争以来、久し振りに穏やかな夢を見て、伝えてみたくなったのだ。返事は期待していなくても。
(それに、たとえ覚えていても、きっとあなたは知らない振りをなさるのだわ)
案の定、彼は暫しの沈黙の後、「そうだったのか」と言っただけだった。僅かに見せた驚きが、何に根ざすものなのか。何に対して「そうだった」のかは、アリーチェに知る由は無かったけれども。
(あなたを驚かせる事なんて、滅多にできないもの)
今日のところは、それで良し。そんな気持ちを込めて、アリーチェは微笑んでいた。
■コメント■
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