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<東京怪談ノベル(シングル)>


『海へ』

「るんるんる〜ん♪」

 鼻歌混じりに自室へ向かう森杜彩の手には、一風変わったデザインの水着。





 うだるような暑さも抜け、今はもう九月下旬。じんじんと蒸す熱気も最早無くなり、ただ温かな気候が流れる毎日が続いていた。
 そんなある日に彩が兄と訪れたのは───海。
 そこでは観光客などではなく、泳いでいるのはふよふよ海面に浮かぶ海水生物。
 つまり海月であったりするのだが。
 海岸、兄の隣で舞い上がっている彩の頭にはただ一つのみ。
 兄からプレゼントされた水着である。
 着易さ、泳ぎ易さ、そういったものは完全無視。兄の趣味一直線。巫女装束と似通ったデザイン。
 特注であるというし、わざわざ彩のために彼が用意してくれたというのならそれはもう嬉しくて嬉しくて見ていても着ていても顔がほころんでしまう。
 兄と共に海。それだけでも十分嬉しいのだけれど。
 ───眺めてみれば、海の家は閉じていた。時期が時期だからだろう。
 まぁそれも予測済み。弁当と飲み物は持参している。
 おかげで荷物は多かった。弁当飲み物は勿論、ビーチパラソルに組み立て、折り畳み式のビニール製のベッド、ござと様々。けれどそれも、兄が式を呼び出し荷物持ちとして同伴させてくれていたので危惧する必要は一切なかった。
 きちんと入念に準備運動を行い、いざ海へ、と兄を振り返る。
 そこにはプールに行ったときのように鮮やかな赤い色のふんどしで仁王立ちする兄が。
「……」
 男らしい。否、「漢」らしいとは言うなかれ。





 泳ぐのは彩だけ。兄は浜辺でのんびりと横になり空を見上げている。
 海月に刺されるかと一応それなりに注意しながらすいすい泳ぐ。空からは眩しい太陽の日差し。日焼け止めはきっちり塗ってあるので、肌の心配をする必要はない。
 風もそれなりにひんやりと心地良い。海水の冷たさも相俟って、体を浮かせているだけで気持ちが安らいでくる。
 ───ふと。
「ん? お兄様?」
 立ち上がり浜辺で兄が彩を呼んでいた。ぶんぶんと両手を振り、次には手招きに変える。
 何事、と首を傾げたあとに浜辺へ帰ると、兄はオイルを片手に「オネガイします」と言いたげな顔で寝そべった。
 つまりは、塗ってくれと、そういうことか。
 くす、と小さく笑いを溢したあとに、彩はボトルの蓋を捻り少量のオイルを掌で馴染ませてから兄の背中に撫で付けた。
 兄の背中は汗ばんでいるわけでもなく、じっとりしているどころかしっとりしていた。
 そこそこ気温が高い中、汗一つない背中に羨望の視線を送る。
 どうした、と聞かれて、彩は「いいえ」と笑いながら首を振ったのだった。





 風が少し強くなった。が、気温は相変わらず高い。
 そんな中で訪れた正午。彩は鞄から二人分の弁当を取り出した。
 おにぎり、サンドイッチ、おかずは彩の得意分野と兄の好物のレパートリーをふんだんに取り入れた。
 割り箸を一本、それと麦茶を紙コップにつぎ兄に手渡す。
 紙の皿にはおかずを種類様々取る。
「お兄様、他には何を……」
 訊ねると、兄は弁当の中の玉子焼きを指差す。
 じゃあそれも、と皿に取ろうとすると、兄がまた何かを訴えるようにこちらを見てくる。
「……」
 どうやら今度は、所謂「あーんして」をお願いされている、ような。
 いくら何でもそれは……とぶんぶん首を横に振り拒否するが、やはり見つめてくる眼差しに諦めはない。あくまで食べさせてくれるのを期待している模様。
「……わかりました」
 はぁ、と溜息。これは折れるしかないようで。
 恥ずかしくなりながらも、玉子焼きを一つつまみ、兄の口に運ぶ。
 満足げにそれを頬張る兄の顔を見ていると、これはまるで恋人のようだなと不意に意識してしまって。
 しまった、と思った瞬間には顔が一気に赤くなった。
 訝しげに覗きこんでくる兄には「何でもない」と言い、兄から顔を離す。

 乙女心を少しは察して欲しい。
 赤らんだ頬を隠すように、でもやっぱり少し嬉しくて、彩は兄と同じ玉子焼きを頬張った。





 訓練もなく、ただただ海水浴を楽しむだけ。
 泳ぎ、はしゃいで、時に兄の式と戯れて、兄自身とも戯れて。

 帰るときにはくたくたに疲れきるほど、海を満喫したのだった。