|
■キュートな彼女■
木々で切り取られた天空のキャンバスから、柔らかな青白い光が差し込んでいた。光灯らぬこの山中の河川敷を、丸く輝く月がぼんやりと照らしている。雲も少なく、低い木々の多いこの林には月明かりがよく届く。
誰が作ったのか、こんな山中に温泉が設置されていた。温泉とはいえ岩を敷き詰めて湯船を作り、昼間に充電しておいた小さな太陽発電機で冷泉を暖めているだけだ。
恐らく、この山を通る旅人に疲れをいやしてもらおうと、誰かが作っていったのだろう。
湯船には、申し訳程度に木の柵が取り囲んでいた。
柵で囲んで居なくとも、こんな深夜、こんな深い山の中を通りがかる者はあまり居るまい。
「オルキー、湯加減はどう?」
アデルハイド・イレーシュは、湧いた湯加減をみているオルキーの顔をのぞき込んだ。オルキーデア・ソーナは、湯に手を浸すと、こくりと頷いた。
「うん、丁度良いみたい。‥‥じゃ、入ろうか!」
オルキーは、ぱあっと笑顔を浮かべると、豪快に上着を脱ぎ捨てた。あっという間に服を脱ぎ、湯船にざぶんと突入。
「もう、オルキー。ちゃんと脱いだ服をたたんでね」
イレーシュはオルキーよりもゆっくり服を脱ぎ、脱いだ服をたたみ出した。イレーシュは、脱ぎっぱなし置きっぱなしが気になって仕方無いのだが、オルキーにしてみれば、ゆっくり脱いでゆっくりたたみはじめるイレーシュが、じれったい。
「ねえイレーシュ、後でたためばいいじゃない。早くおいで。風邪ひいちゃうわよ」
「駄目です。こういう事はきちんとしないと‥‥」
やれやれ。オルキーは深くため息をついた。
こうして二人でお風呂に入る事なんか、滅多に無い。
イレーシュは湯船にゆっくりと身を沈めると、空を見上げた。
ぽっかりと浮いた月が、二人を見下ろしている。
視線をオルキーに戻すと、オルキーはこんな時にも傍らの岩の上に(ちゃんと濡れないように)銃をおいていた。
イレーシュが銃を見ているのに気づき、オルキーは苦笑した。
「だって、ここまでキャリーが入らないから置いてきちゃったでしょう? 5分歩かなきゃキャリーにたどり着けないもの。‥‥こんな山の中で、しかもキャリーから離れた所で盗賊に会ったら不味いしね」
「そうしたら‥‥私がオルキーを守ってあげます」
銃も弾も要らないもの。イレーシュがそう言うと、オルキーは笑い声をあげた。
「あはは、そうね。頼りにしているわ」
オルキーの心配は、UME軍にもある。イレーシュとの関係を問い質され、オルキーはUME軍を辞めてしまった。オルキーは彼らの粛正の手が伸びるのではないかと、気にしているのだ。
彼女が自分を選んでくれたからこそ、自分はオルキーに精一杯幸せになって欲しい。だから自分も楽しむ事にしていた。自分が笑っている事が、オルキーにとって幸せになると、分かっているから。
「良い湯ですね‥‥こんな山の中に温泉があるなんて、思いませんでした」
「でしょう? ‥‥この間寄った町で、聞いたのよ。あの同人誌即売会で手に入れた総統の写真と、交換だったけどね」
伝達方法の少ない現在、オルキーが持ってくる情報はどこの町でも貴重なものであった。特に、映像を伝達する方法が少ない為、オルキーが持ってきた総統の写真は、とても気に入られたようだ。
「ああ、今度から量産しようかしら。売ったら高いかもしれないわよ」
「オルキー、駄目ですよそんな事は。‥‥とりあえず、これからどうするか考えなきゃ」
真剣な表情で考え込んでいるイレーシュに、オルキーがそっと手を伸ばした。ぷに、とオルキーの手がイレーシュの脇腹をつかむ。
吃驚してイレーシュは、オルキーの手を叩いた。
「何するんですか」
「イレーシュ、太った?」
「し‥‥失礼な、太ってなんかいませんよ!」
イレーシュは、柄にもなく大声で反論した。しかし大声を出せば出すほど、肯定しているように見える。
「そう? 戦時中は食料も少なくて飢餓状態だったけど、今は一杯食べてるもんね〜」
確かに、多の頃に比べるとよく食べている。イレーシュはぴたりと口を閉ざし、オルキーに背を向けた。
するとイレーシュがむくれているのに気づき、オルキーはイレーシュの背中にぴたりと身を寄せた。引き締まったオルキーの肢体と、豊かな胸が背中に接触する。
そうっとオルキーの手が、前に伸びる。イレーシュは、オルキーの行動を予測して、かあっと顔を赤くした。
いや、彼女がイレーシュが想像する通りの行為をしようとしているとは限らない。しかし、胸の鼓動が早くなるのを押さえられなかった。
「オ、オルキー‥‥」
差し出されたオルキーの手は、泡だらけのスポンジを握っていた。肩越しに、オルキーの顔がひょいと覗く。
「‥‥久しぶりに、イレーシュの背中を流してあげようかな」
「え‥‥ええ」
予想を裏切られて、ちょっぴり残念だったような‥‥。
残念?
イレーシュは、自分の考えを振り払うように、首をぶんぶんと振った。突然顔を真っ赤にしたイレーシュを、オルキーはきょとんとして見ている。
(ざ、残念だなんて事‥‥あるわけ無いじゃない。私‥‥なんて事考えていたのかしら‥‥)
「ねえ、イレーシュ」
イレーシュの背中をスポンジで洗い流しながら、オルキーが声をかけた。イレーシュはちらりと振り返る。
「何ですか?」
「私はね‥‥今のままでいいと思うわよ」
今のまま‥‥というと、オルキーはこのまま二人っきりで生活するという事? イレーシュはオルキーの考えを読もうと、思考を巡らせた。
しかしオルキーは、にっこり笑って言った。
「‥‥イレーシュの体」
「はい?」
ふふ、とオルキーは笑いながら、イレーシュの脇腹を撫で上げた。オルキーの指がイレーシュの胸に触れると、イレーシュは身をよじって手から逃れようとした。
「ちょっ‥‥オルキー!」
くすくすとオルキーは笑い、イレーシュの体に身を寄せる。
「あんまり痩せすぎてても、不健康よ。イレーシュの肌は、触り心地良くって好き」
「‥‥褒めて‥‥ますか?」
眉をしかめて、イレーシュはオルキーを軽く睨む。
「褒めてるわよ、もちろん。‥‥戦時中は、このお肌もガサガサに荒れちゃってたものね」
「‥‥そうでしたね‥‥」
「でも!」
オルキーは、イレーシュの胸を豪快に鷲掴みにした。
「うちの為に、このお肌を維持してね‥‥イレーシュ」
「オルキー、はしゃぎすぎです‥‥んっ」
振り返ったイレーシュの唇に、オルキーの唇が触れる。後ろからぎゅっとオルキーが、イレーシュの体を抱きしめた。
心地よい風が、熱く火照ったイレーシュの体を優しく冷やしていく。足だけ湯船に浸しながら、イレーシュは青白い月を見上げていた。ミステリアスに青く輝く雲が、月に薄いカーテンを引きながら流れていく。
オルキーは、イレーシュの隣で湯に浸かったまま、岩肌に凭れていた。目を閉じて、気持ちよさそうにリラックスしている。
イレーシュは湯につかったまま、空を仰いでいる。
一年前、イレーシュはまだプラハに属していた。カルネアデスを巡る戦争が起こる事など、想像もしていなかったし、その頃中東で人々が苦しんでいるとは想像もしなかった。
西部方面軍では、イレーシュはいつもオルキーと共にいた。オルキーを通じてイレーシュは彼らの事を理解し、通じ合った。
(思い切って、プラハを飛び出していなければ‥‥きっとオルキーには出会わなかったわね)
イレーシュは、苦笑まじりにオルキーを見下ろした。
悪夢のような戦争を目の当たりにし、自我崩壊しかけたイレーシュの心を、ゆっくりと癒していったオルキーの優しさと、共にスゴした時間の楽しさ。
二人で歩んだこの短い数ヶ月という時間は、いつしかイレーシュにとって掛け替えのないものとなっていた。
(オルキー‥‥あなたが私の側に居てくれると誓ってくれた事‥‥嬉しかったわ。これからも、一緒よね)
そうっとオルキーの手に自分の手を重ねると、イレーシュの心は安堵で満たされ、やがてゆるりと流れる風に心奪われていった。
自分を呼ぶ、聞き慣れた女性の声でイレーシュは目を覚ました。
ぼんやりとした意識の中、イレーシュが頭を上げると、垣根の向こうからオルキーの声が聞こえて来た。
「イレーシュ! うち、先にキャリーに戻って、エンジン掛けてくるわね」
「え‥‥ええ」
イレーシュはオルキーの足音が遠ざかるのを感じながら、まだ半分眠っているような目を周囲に向けた。
湯はまだ暖かいが、このままここに居ると体が冷えてしまう。
イレーシュは湯船から出ると、垣根に掛けたはずのタオルに手を向けた。
しかし、そこにあるはずのタオルは見あたらない。そればかりか、イレーシュの服も下着も無かった。
「‥‥え?」
確かに、ここにオルキーの服と一緒に畳んでおいていたはず。念のために外も見てみたが、どこにもイレーシュの服は見つからなかった。
ぐるぐると一周しながら、月明かりを頼りに目を凝らしてみる。今度は、キャリーに続く道を眺めた。
しかし、どう探しても無い。
「オルキー!」
イレーシュは、先に出たはずのオルキーに声を掛けた。
しいん、と静まりかえった森から、オルキーの声は戻って来ない。かわりに、かすかにエンジン音が響いて来る。
(もしかして、オルキーが持っていっちゃったの?)
呆然とイレーシュは、裸のまま立ちつくした。
風はなおいっそう冷たく、イレーシュを撫でていく。
ここでこうしていても、オルキーは戻ってこないかもしれない。仕方なくイレーシュは、歩き出した。
誰も見ていないと分かっては居ても、申し訳程度に胸元と下腹部を隠そうと手を伸ばしたて覆ってみる。こんな事をしてもイレーシュの豊かな胸は全く隠れず、かえって艶めかしく映った。
(もう、帰ったらオルキー、許しませんよ‥‥)
ぶつぶつと心中で文句を言いながら、そろそろとキャリーの方に歩き出す。
ふいに後方で木々が触れ合う音が聞こえ、びくっと肩をすくませた。必死に後方に視線を凝らすが、そこには何も居ない。ざわざわと木々のざわめきは大きくなり、強い風が吹き抜けた。
寒いし怖いし、心細くってイレーシュは体を両手で抱きすくめた。もしこんな時に盗賊に襲われたら‥‥。そう考えると、イレーシュは恐怖でパニックに陥りそうだった。
そこに再び、ざわざわと木が揺れる音が。
今度は風が吹いて居ない。おそるおそるイレーシュが振り返ると、そこに確かに人影が、月下に落ちていた。
細長く伸びた人影が、こちらに足を向ける。
「‥‥」
あまりの恐怖で、足がすくんで動かない。イレーシュが怖がっているのを楽しんでいるのか‥‥人影は笑ったように見える。
人影は、木々の影をすり抜け、イレーシュの方へと掛けだした。
「オ‥‥オルキー助けて!」
恐怖は限界に達し、イレーシュは力の限り叫んだ。
人影がイレーシュに飛びかかり、彼女の体を強引に押し倒す。恐怖でぎゅうっと目を閉じたイレーシュに、のしかかって来た。
「オルキー!」
「‥‥」
何か言っている。人影はぎゅっとイレーシュの手首を掴み、組み敷いている。イレーシュを地に押しつけたまま、何か言っていた。
そうっと目を開けたイレーシュの目には、赤い髪が見えた。
「オル‥‥キー?」
「イレーシュ、酷いじゃない。うちは強盗じゃないわよ」
あはは、と笑うと、オルキーは指でそっとイレーシュの目に滲んだ涙を拭いた。何がどうなったのか、把握出来ずに混乱したままのイレーシュは、じいっとオルキーを見上げている。
「ごめんね、イレーシュ。ちょっと意地悪したかっただけなの。そんなに怖がると思っていなかったから‥‥」
「オルキー‥‥酷いじゃないですか! 私‥‥」
イレーシュはぎゅっとオルキーの体に抱きつくと、泣き出した。 深い息を一つ吐き、オルキーはイレーシュの体を起こして抱きしめる。こんなに怖がらせる気は、無かったのだ。オルキーはちょっぴり罪悪感が芽生えた。
「イレーシュ、もうしないわ。だから機嫌を直して」
「本当ですか?」
イレーシュは、オルキーの目をじっとのぞき込む。
指でイレーシュの頬の涙を拭い、オルキーは彼女の耳元に唇を押しつけるように囁いた。
大好きよ、イレーシュ。
(担当:立川司郎)
■コメント■
どうも、立川司郎です。ヨーロッパの山中に自然温泉なんてあるのかなぁ、と疑問に思ったのですが(苦笑)、「ある」という事で書いてみました。
|
|
|