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<東京怪談ノベル(シングル)>


■雨のち晴れ■
 発端は、ごく些細な口論だった。
「もう知らない! 絶好よ!」「こっちこそ!」
 幼い頃なら、ここでお互いにあかんべーをして去る所だが、流石に今は、それは無かった。
 よくあるちょっとした言い争い。だが、今回は、アレクサンドルが彼にしては珍しいくらい、本気で腹を立てていた。
(今度だけは、絶対に、絶対に、姉さんから謝るまで許さないから)
 いつもなら、喧嘩の内容に関わらず、先に折れる事が多い彼が、そう決意を固める程に。

 一夜明けて。
(今日の仕事、どうしよう)
 朝になってから、アレクサンドルは迷い始めた。
 仕事柄、彼女とは顔を合わせる機会が多い。彼女が外に出る時は、数日間も音信不通になる時もあるが、ここ暫くは外出予定は無かった筈だ。
 ひょっとしたら、顔を合わせるのが気まずくて、予定になかった仕事を入れているかもしれない。
 ただ、その場合でも、一度は秘書でもあり、事務関連の仕事をしているアクレクサンドルと、顔を合わせるだろう。余程、意図的に他の人を通すようにしない限りは。
 となると、普通にしていれば、嫌でも一度か二度は彼女と会うだろう。会うだけでなく、仕事上の話を多少はせざるを得ない。
 けれども、どうしても直接話をしなければならない訳でも無い。
 彼が担当する仕事の性格上、挨拶だけでも、日に一度くらいは彼女と会う方が、仕事の上でも望ましいのは確かだ。だが、事務処理に徹すれば、全く顔を見なくてもできる仕事でもある。
 秘書官の役割がそれで全て勤まるかといえば、問題があるかもしれないが、数日程度は大丈夫な筈だ。
 これまでは、出来るだけ一緒にいる時間を増やしたくて、アレクサンドルがスケジュールを調整していた。そんな涙ぐましい努力をやめれば、自然と別々に仕事をする事になる。
(今回は、僕からは絶対、謝らないって決めたんだから)
 こちらから会う機会を作ってあげるのは、相手に謝るチャンスを与えるに等しい。それは、癪にさわる。
 彼女に謝らせる以上は、アレクサンドルを捕まえる努力を彼女がするべきなのだ。
(それに、今、会ったらケンカの続きになりそうだし)
 お互いにもう少し世慣れていれば、大喧嘩の真っ最中でも、仕事中は何食わぬ顔で接する事ができるのかもしれない。しかし、今の自分達には無理だ。
 平気なふりを装おうとしても、つい険を含んだ返事をしてしまうだろう。黙っていても、周囲の人々にきっと気付かれるに違いない。
(つき合い始めた時も、何も言ってないのにバレちゃったからなあ)
 他人に喧嘩中だと知られるのは嫌だし、知られればきっと、からかう材料にされるのだ。
 なるべく自然に、忙しくて今日は別々に仕事をしているように振る舞おう。
 心の片隅では、ちくちくと、不安を覚えながらもアレクサンドルは決意を新たに、部屋を出た。

「あれ? 珍しい。今日は一人なの?」
 一人で昼食を取るアレクサンドルに、プラハ研スタッフの一人が声をかける。
「ちょっと、今日は時間が合わなくて」
「ふーん」
 どことなく、ぎこちない笑みを浮かべた彼を見つめて、彼女はひらひらと手を振った。
「喧嘩するほど仲が良いとは、言うけどねえ。程々にしておきなさいよ」
「ち、違うよ!」
 思わず声に力が入ってしまった。その後で、はふぅ、と大きなため息をつく
 午前中は無難に過ぎたと言うべきか。それとも、何も進展が無く過ぎてしまったと言うべきか。
 べらぼうに離れた場所にいるのではないから、謝りに来る気なら、朝の内に来ている筈ではないか。
 いやいや、生真面目な所があるから、仕事中は控えたのではないか。
 でも、朝一番や、昼休みに入ってすぐなら。暫く昼食を取りに行くのを待ってみたのに。
 そんな思いが、ぐるぐると頭の中を巡る。
(まだ一日が終わった訳じゃないし)
 ちょっと様子を見に行ってみようか。つい、弱くなりかけた気分を振り払って、アレクサンドルは昼食のトレイを片付けた。

 結局、その日彼女は謝りに来なかった。ひょっとしたら、夜にでも謝りに来るのではないかと気になり、夜更かしをしてしまう。
 おかげで、翌日は寝不足で、眠い目をこすりながら仕事に出る羽目になった。
(どういうつもりなんだろう)
 全く顔を見にも来ないなんて。不安と同時に、少々腹立たしくもある。
 今回の喧嘩は、明らかに彼女が悪いのに。そうでなかったとしても、少しくらい気にならないのだろうか。
 もやもやした気持ちを抱えたまま、事務室の中をうろうろしていると、ノックの音がした。
(姉さん?)
 一瞬、心臓が飛び上がる。しかし、残念ながらドアを開けたのは別人だった。
「代表から伝言を預かったよ。昨日の午後、急にブダペストでの仕事が入って。1週間ほど不在になるから、後を頼むって」
「え‥‥」
 よくよく聞いてみれば、気拙くなった彼女が逃げ出す口実に仕事を作ったのではなく、本当に緊急の連絡があったらしい。
 途端に、アレクサンドルは、ざわざわと悔む気持ちに襲われた。
(こんな事なら、意地を張らずに謝っておけば良かった)
 悪いのは彼女だけれど、自分にも多少は原因があったような気がしてくる。
 喧嘩をしたまま、1週間も会えなくなるなんて。彼女は、嫌な気分で出かけなければならなかっただろう。
 アレクサンドルも、ずっとすっきりしない気分を引き摺らなければならないし、1週間も経つと謝るきっかけが難しい。
 せめて、昨日の内に一度くらい様子を見に行っていれば。
 今更、悔んでも遅いと分かりきっていても、苦い気持ちは、後から後から湧いてくる。
 それから1週間、アレクサンドルは悩み続けた。
(姉さんが帰ってきたら、どうしよう)
 このまま、意地を張り続けるのは良くない気がする。というより、アレクサンドル自身が辛い。
 かといって、こちらから頭を下げるのはどうかとも思う。考え直して見ても、やはり非があるのは、彼女なのだから。
 彼女も、そこまでわがままではないだろうから、きっかけさえあれば謝ってくれるだろう。けれども、そのきっかけをどう作るかといえば、さて。
 名案を思いつかないまま、日が過ぎて行った。予定では、明日あたりに彼女は帰ってくる。
(どうしたら良いかなあ)
 とりあえず、留守中の連絡を兼ねて様子を見に行こうか。でも、きっとその時には二人きりではないだろうし、そこで人払いをするような秘密の報告は無い。
 ベッドに寝転がり、天井とにらめっこをしながら、つらつら思いにふけっていると、遠慮がちにノックの音がした。
(誰だろう)
 ドアを開けて、アレクサンドルは軽く目を見開いた。
「姉さん? 明日、帰るんじゃなかったのか」
「予定が早くなって。今日中に帰れたの」
 少し間を置いて、彼女は頭を下げた。
「この間はごめんなさい。どうしても、今日中に謝っておきたくて」
 アレクサンドルの顔が綻んだ。
「僕こそ、ごめん」

 その後、二人の間で喧嘩の回数が減った。正確には、喧嘩をしても仲直りまで間を置かなくなったという所だろうか。
 謝りたくても謝れなかった1週間が余程こたえたのか。お互いに、以前よりちょっぴり素直になれた気がするアレクサンドルだった。

■コメント■
 ご発注ありがとうございました。