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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


■恐慌■
 マジョルカでの暮らしは、そろそろ新生活という言葉が合わなくなるくらいの月日を数えていた。
 昔日と同じではないが、リゾートに適した土地。そんな所で過ごしながら、バカンスとはおよそ無縁な人々もいる。
「たまには、一緒にまとまった休暇を取ってみようとは思うのだがね」
 彼にしては歯切れが悪い、ウィルフレッド・ベイトンの言葉に、アリーチェ・ニノンは小さく笑った。
「忙しいのは、お互いに仕事が順調な証で、それは良いですわ。でも、体を壊さない程度にして下さいね」
 ウィルフレッドも、恋人と休暇で過ごす時間を全く必要としていない訳ではない。だが、適当な区切りはなかなか訪れなかったのだ。
そんなある日の朝。
(どうしたのかしら。こんな時間まで起きて来ないなんて)
 朝食の時間を過ぎるまで、ウィルフレッドが寝過ごすなど珍しい。
様子を見に行こうかと、彼の部屋に足を向けた途端に、何かが崩れ落ちるような大きな物音がした。
「ウィル!?」
 慌てて階段を駆け上がり、部屋に飛び込んで最初に目に入ったのは、床に転がる椅子だった。その影に、ウィルフレッドが倒れている。
「一体、何が」
 倒れたはずみに頭をぶつけでもしたのだろうか。慎重に、仰向けに起こし直そうとすると、触れた体が熱い。
 幸い部屋の中だったので、どうにかベッドに移し終えると、アリーチェはそのままへたり込んでしまった。
(どうしよう。どうしたらいいの)
 風邪でもひいたのかもしれないが、それだけで倒れるとは思えない。
 最近、忙しい日が続いていたとはいうものの、極端なオーバーワークでは無かった。それは、長年、共に働いていたから分かる。
 それに、ただの風邪や過労で、ここまで急激な発熱があるとも思えない。
プラハに居た頃でも、彼は滅多に体調を崩さなかった。体調管理も仕事の内なのだ。
(それに、昨日までそんな素振りは少しもなかったわ)
 とりたてて顔色は悪くなかったし、倒れる程疲れた様子は見られなかった。これだけ高い熱で意識を失うくらいなら、何かそれらしい兆候があるものだ。
 ひょっとして、未知のウイルスに侵されでもしたのだろうか。
 マジョルカの気候はリゾート向けだが、たまたま体に合わなかったのか。それとも、欧州全域で症例が見られつつある、新たな病なのだろうか。
 死の風の例もある。気付かない内に、死に至る病に体を蝕まれる可能性は、十分にある。
 或いは、政治的な陰謀に巻き込まれたのだろうか。彼を亡き者にしようと画策されるだけの心当たりは、十分にある。
 今は、外交の一線から退いているが、先の大戦中に彼はエヴァーアグリーンを代表して、外交を取り仕切っていた。
 その折の因縁か、はたまた彼が外交の要職から退いたと知らない者の犯行か。外交部から離れたと知っていても、和平を快く思わなかったり、エヴァーグリーンを敵視する者なら命を狙うかもしれない。
 とにかく、一刻も早く専門の医者に診せなければならない。しかし、この状態では医者に来てもらうか、彼の意識が戻るのを待って、車に乗せるかのどちらかになる。
(もし、意識が戻らなかったら)
 そんなに悠長に待っていられない。医者を呼びに行っている間に容態が急変したらと思うと、目を離すのも危険だ。
 審判の日以降、一般的には通信手段も移動手段もろくに回復していない現状では、電話で専門医に相談したり、遠方の大きな医院に移送するのは無理だ。
 最も近い町医者すら、5分や10分で行ける範囲には無い。それに、もしアリーチェが危惧する通りなら、然るべき機関でなければ対応できないだろう。
 となると、最も信頼できるのは古巣のプラハ研だ。考え得る限り最も高度な設備があるし、新種のウイルスでも既に研究を始めているかもしれない。謀略の標的になっていても、ここなら安全だろう。
 ただ、問題はプラハともやはり連絡をつけるだけで、かなり時間がかかってしまう。事情が分かれば、一番無理を聞いてくれそうな所だが、伝えるまでが大変だ。
(何とか連絡さえつけば。プラハ研なら、医療用ヘリもあるし)
 機材を運び込むとなると、ヘリコプター一機では間に合わないかもしれない。状況次第では、本人を搬送しなければならないが、その場合でも応急処置は済ませておかなければ。
 幸い、貯えはそれなりにある。この際、費用はいくらかかっても構わない。
 そんな様々な考えが、アリーチェの頭の中を滝のように流れていた。
(ウィル。死なないで)
 とり急ぎ、プラハ研に向けて急を知らせる連絡を送り、次になすべき事をアリーチェの頭はフル回転で考えていた。

 窓辺とベッドを落ち着きなく往復しながら、アリーチェは待ちつづけていた。軽く冷やしたタオルでウィルフレッドの汗を拭うが、一向に熱が下がる気配も、意識が戻る気配もない。
(遅いわ。まだ来ないのかしら)
 審判の日以前なら、数時間とかからずに着いているのに。言っても詮無いと思いつつ、失われていく時間に苛立ちが募る。
 医師の到着を待つ間、どんな僅かな変化も見逃すまいと、目を凝らしてウィルフレッドの様子を見守る。どんなに瑣末に感じられる事でも、治療の決め手になるかもしれない。
 やがて、微かなプロペラの音をとらえて、アリーチェは窓辺に駆け寄った。
 みるみる近づく機影は家の前に止まり、わらわらと物々しい重装備に身を固めた人影が降りてくる。
「新種のウイルスの恐れがあるそうですから。後から消毒班も来ます」
 先行班はきびきびと動き回り、ウィルフレッドのベッドの周辺は、たちまち簡易の無菌室となった。
 感染を防ぐ為に、アリーチェは別室に移される。
(すぐに病因が解明できれば良いけれど)
 治療は後になっても、せめて命に別状が無い状態を維持できれば。手配可能な最高の医師と機材を調達したから、最悪の事態は防げたと思いたい。
 だが、時にそれでも治療が不可能な事もある。
 と、アリーチェがやきもきする時間は、そう長く続かなかった。案外早くに、医師の一人がアリーチェが待つ部屋を訪れる。
「アリーチェさん。その、大変申し上げにくいのですが」
 アリーチェは、すうっと息を吸い込んだ。
「言って下さい。覚悟はできています」
 こんな時にうろたえ騒いでも、何の解決にもならない。まさか、手遅れではないだろう。たとえそうだとしても、いや、状態が危険であればなおさら、落ち着いて医師の指示に従い、迅速に最善の手を尽くさなければならない。
「そうですか。では、率直に」
 拳を固く握り締め、医師の言葉に聞き入るアリーチェに向き合い、マスクを外しながら医師は告げた。
「発熱の原因はインフルエンザでしょう。過労と重なって、こんな症状が出たのでしょうね」
 そこで言葉を切り、手袋を外しにかかったきり、医師の説明は続かない。
「それから?」
 たまりかねて先を促すと、医師はふうっと大きく息を吐いた。
「それだけです」
「え?」
 戸惑うアリーチェに、医師はどことなく気の毒そうな顔を浮かべる。
「倒れたのがほかでもない、あのウィルフレッドさんですからねえ。あなたが慌てたのは分かります。我々も、彼が倒れたとだけ聞けば、何かあったのかと疑いましたし」
 実は、最近プラハでも似たような例がよくあるらしい。大戦中の疲れやストレスが遅れて出たのか、体調を崩す者が増えていると。
「流石に、高熱と共に突然倒れて意識が戻らないというような、酷い例は初めてですが。彼の事ですから、こちらに来てからも、十分な休養は取っていなかったのじゃないですか?」
「それでは‥‥」
 最初とは異なる理由で足の力が抜けそうだった。大事に至らなかった安堵と、あまりに拍子抜けな結果と。
「ま、注射の一本も打ってよく寝れば治ります」
『よく寝れば』の部分に力を込めて、医師は言った。


 体がだるい。風邪でもひいたのだろうか。そういえば、熱もあるようだ。
 ウィルフレッドがぼんやりと目を開けると、声をかけられた。
「気がついた?」
 何故、彼女がここにいるのだろう。居てもおかしくはないが、何故、「おはよう」でなく、「気がついた」なのだろう。
 覚め切らない頭で自分の思考を追う内に、記憶が戻ってきた。
 目覚めたらひどく気分が悪かった。無理に起きようとしたら、眩暈がして。椅子につかまり、体を支えようとした後、記憶がない。
(倒れてしまったのか)
 不安そうにみつめるアリーチェの顔色から確信したが、その時別の声が聞こえた。
「意識が戻りましたし、もう大丈夫ですね」
 声がした方に目を向け、ウィルフレッドはぎょっとした。見知った顔ではあるが、それこそ、ここに居るはずがない人々だ。
 しかも、皆疲れきった顔をしている。
 その上、彼等の後ろには大仰な装置がずらりと並んでいるではないか。
 再度、辺りを見回してみたが、確かに自分の部屋の中だ。
「一体、どうしたのかね」
 聞かなくても分かってしまった気がする。だが、聞いておかずには済まされない。
「ひょっとしたら、未知のウイルスか、政治的な陰謀に巻き込まれたかと勘違いしてしまいました」
 しょんぼりと俯いたアリーチェにこれ以上問い正すまでもなく、今目にしている状況だけで、相当無茶を言ったのだろうと察しはついた。
 けれども、彼女を責める気にはなれない。ウィルフレッド自身、まさか倒れるとは思いもしなかった。
 心の底から心配したのであろう、アリーチェの青い顔を見れば、申し訳無く思う。
 どんな人間でもパニックに陥る事はある。そして、なまじ頭の切れる者があさっての方向にフル回転し始めると、それはとんでもない結果につながるもので。
(これは、プラハの方にも特別に労わないと拙いな)
 プラハだけで済めば良いが、ここまで来るには連邦領を通過しているはずで‥‥。
 今は、それ以上は考えたくなかった。考えるのは、回復して正常な思考力が戻ってからだ。
 アリーチェに向かって二言、三言呟くと、ウィルフレッドは再び眠りに落ちた。

■コメント■
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