PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<東京怪談ノベル(シングル)>


getaway

 その姿を正面から臨めば、使い込まれて減った革靴の底だけがテーブルに乗っているように見えただろう。
 そしてその、足裏だけしか見えないだろう。
 霧の直中に迷い込んだかのように、1m先の視界までしか許さない程に紫煙の漂う室内、ご丁寧に火災探知器を沈黙させてくつろげてそでなさそな一時を堪能しているのは部屋の主。
 真咲水無瀬である。
 その女性と見まごうラインの細い輪郭も、余分な贅肉も無駄な筋肉もない細い体躯も、今は煙の向こうの朧な影と化し、その口元に赤い一点の炎の存在のみで位置だけは計る事は出来よう。
「……暇だな」
ふ、と強く吹き出された一息に動いた室内の対流を、煙の動きが明確にする。
 軽く手で煙を払い、足の脇に置いた灰皿…既に吸い殻が小山になった其処へ、灰が崩れぬよう芸術的に新たな一本をねじ込む。
 更にその脇、剥かれた包装と潰された空き箱から察する既にカートン一つ分の煙草は消費してしまっている。
 真咲はすいと視線を動かし、壁にかかった時計を…本来なら、時計がかかっているだろう位置に、目線を動かした。
 が、当然煙の向こう、果たして壁と天井が何処に在るやら。
「もう10時か……」
たかだか時計を見るのに『千里眼』、能力を無駄に使って彼はげんなりと呟いた。
 降って湧いた休暇、のんびりと目覚めた朝8時、既に起床から2時間を経過し、その間何をするでなくただ煙草を消費するのみに費やしている。
 まるで家庭のお父さんが、無趣味の休日を持て余しているような塩梅だ。
 買い溜めておいた煙草も吸い尽くし、さてはてこれ以上時間の潰しようもない。
 いつもならば、街に出て権力を後ろ盾ない自由行動…と、言う名目で仕事をしているのだが、今日は絶対に外出しないよう、部隊の面々から釘を乱打されていた。
 理由は頭と右腕に巻かれた包帯、である。
 怪我した休暇位大人しくしていろと、自室に詰め込まれた上、ドアの前にはこれでもかという程トラップが敷かれたのが昨日の事である。
 最も、瞬間移動の出来る真咲にとって障害に為り得ない代物だが、全員の心意気を示しているらしい。
 とはいえ暇な事この上ない…真咲は首を左右に傾け、更に大きく伸びをすると、おもむろに立ち上がった。
 額に巻かれた包帯が灰皿の横に、右の一の腕を覆った白が解かれて床にとぐろを巻く。
 右の掌を軽く開閉し、真咲は「大丈夫だ」と、中空に向かって宣言した。誰も聞いていないというのに。
 そのまま、椅子の背にかけていたジャケットを取り上げると、窓を開く…酸素の存在が危ぶまれていた室内の空気が外気と入れ替わる勢いに煙が排出されるのと一緒に、真咲は2階から地面への高低差など微塵も意に介した風もなく、窓から飛び降りた。
 そして難なく地上に降り立つと、額の傷を覆っていたガーゼをピッと勢いよく剥がし、その場に捨てる。
「だいたい休暇なんてものは、退屈に過ごすもんじゃないだろうが」
養生しろと殊更口喧しかった医師にの顔が咎めるようにふと思い起こされ、面と向かってそう言って叩かれた言をもう一度繰り返した。
 取り敢えず、馴染みの店は知った顔に会う可能性が高いから適当な場所で腹ごしらえをして、と胸算用に集中する彼の背後で、「火事だーッ?」の声が上がったが、それがよもや自室から漏れる煙によるとは思い及ばぬまま、真咲はその場を後にした。


 足を向けた先は、あまり治安の宜しくない地域。
 愛想のない親父が一人で切り盛りしている露天に近い店で、軽い食事を済ませる。
 夜の仕事に従事する人間が、人間として必要な栄養を摂取する為の店なのか、家庭的なメニューが多く、更には意外な事に美味だった。
 厨房だけで一杯な狭い家屋、軒先にテントを張りだして無造作に積まれた椅子と机を客が適当な場所に持ち出して陣取り、思い思いに食事をする様は、夜が主体の生活ととはまた表情を変えて妙な生活感と人間味がある。
 のんびりと食後の一服を終え、真咲は釣りはチップ代りにと紙幣を一枚テーブルに置き、店主に目配せて席を立った。
 歩きながら新たな一本を銜え、何気なく踏み込んだ路地で足を止めた。
「居ない?」
零した呟きは、違和感から。
 手配の回っていた犯罪者を発見しての尾行の最中、今更構える程の緊張も覚えず、相手に気付かれている可能性は皆無だった筈だ。
 が、後を追う形で踏み込んだ、そのビルの間を真っ直ぐに続く狭い通路に、人の姿はなかった。
 視界から消えた暫時の間に、逃げ込めるような扉や階段はなく、走ったとしても姿が見えなくなるような距離ではない。
 訝しみながらも、不自然に足を止めたりはせずにそのまま進む、背後から。
 カシャン、と左の耳にのみに響く、奇妙な金属音。
 遠い昔に何処かで一度、耳にしたようなそれに引かれるように振り返った、其処に街並みは消えていた。
 其処に在ったのはただ、赤い色彩のみ。
 とろりと地に拡がる、血。それを舐めるように追う炎。
 特有の錆びたような血臭が鼻を突き、迫る熱が肌を炙る…五感に訴える幻影は、寸前までの記憶から真咲を切り離し、誘起された記憶の渦が脈動と共に内側から鈍い痛みを引き出す。
「……ッ!」
目元を覆うように両手で視界を遮り、身を折り曲げて痛みの波を堪える、真咲の前に人影が立った。
「アタシに何か御用?」
胸元を大きく開け、谷間を強調したようなワンピースは黒地に大きな極彩色の花柄、お世辞にも品が良いとは言えぬ女のその問いに、真咲は応えない。
「尾行に向いてナイんじゃない? アンタみたいな小綺麗な顔と格好して人目を引くようなヤツが、頭ン中身を微塵も覗かせないなんて不自然でショ?」
蓮っ葉な口調で、ニィと真っ赤に紅を施した唇を笑いの形に歪める。
「アタシの幻覚、そんなに気持ちイイ? もっとヨクしたげるわよー……そうね、その懐の銃で、そのキレイなお顔吹き飛ばしてみてくれる? きっとよく似合うわよー」
歪んだ悦楽を、意を奪った者に対してぶつけて女が笑う。
 ぎしり、と軋んだ動きで掴むように、目元を押さえていた右手が動いた。
 女の意志に逆らうかのように、込められた力が細く長い指の節を強張らせていたが、それがふ、と身体の横に垂らされる…動かない、その手の先からぽつり、と赤い滴りが落ちる。
 傷が開いたのか、ぽたぽたと、肌を染めて流れを作り、地に落ちるその手が、ホルダーに下げた銃を取り出した。
「そう、とっても気持ちイイから、早く……ね?」
強請る口調で先を促す、女の声に応えるようにことさらゆっくりと撃鉄が上がり……その銃口は、正面に向けられた。
「……死ぬか?」
幻影に捉えた筈の獲物の、低く響く声に女は短く息を呑んだ。
 左手の指の間から、圧力さえ感じさせて凄味を持った黒い瞳が覗く。
「この俺に指図するとは覚悟、出来てるんだろうな?」
黒々と沈む闇色、深すぎて光るような強さに一歩退いた、その足下1cmの場所を弾が穿った。
「テメェ、人を舐めるだけに飽きたらず、男の癖に気色の悪ィ変装かましやがって! 法の裁きの前に俺の精神的苦痛の代償、今ここできっちり払わせっぞあァン!?」
すっかり気を呑まれて動けない女…基、男に向かって繰り出された真咲の拳は、紛う事なく濃い化粧の施された顔面の中心に叩き込まれた。


 ざわざわと、路地を覗き込む野次馬を尻目に、真咲は襟元の内側につけたままの通信機をONにした。
 標的はテレパス、能力を使って各地を点々としながら詐欺紛いの犯罪を重ねていた為、手配が回っていたのだ。
「……ッたく、ろくでもないな最近のヤツは」
手配逃れの為の変装というには、あまりに力の入りすぎた女装に不快感も顕わに、こんなのを抱えて戻りたくない、と正直過ぎる思考から車を呼ぼうと考えたのは自然な流れだったろう。
「誰か居るか?」
部隊自体が休暇中、とはいえ連絡係は誰かしら、一人は詰めているのが常である。
『リーダーですか? 今、何処にいはりますのん?』
特徴的な公用語が僅かなノイズ混じりに耳元に届く。
「客を一名、招待した。今から言う場所に迎えの車を寄越せ。手配No.は−−」
続ける詳細を復唱する声に誤りがないのを確認し、通信を切ろうとした真咲を部下が呼び止めた。
『お休みにまであんじょうご苦労さんでしたなぁ。で、部屋で療養さはってる筈のリーダーの部屋から火事騒ぎ起きて、当の本人はもぬけの空で……そんなスラム街で捕り物やったはる、件についての報告はありませんのん?』
やんわりと独特な口調の底に、怒りが見える。
 真咲は無言のままぶちりと通信を切ると、満身創痍に逃亡の気力もなくして壁に凭れて崩れる男の頭の横をがつりと蹴り付けた。
「おい、お前」
「す、スイマセンもう二度とやりません〜ッ!」
ヒィッと喉の奥から悲鳴を洩らした標的に、凄味を効かせて真咲は言う。
「絶対に逃げるなよ? ここに居ろ……もし、逃げたらどうなるか解ってるだろうな?」
こくこくと何度も頷く男に、通信機を渡し、真咲は胸を張って宣言した。
「じゃ、俺は逃げるからな」
…無断外出は、もうしばらく続くようである。