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同質異質
毎日はいつも同じではなく、少しずつ違っているからこそ毎日と言える。
御影・涼(みかげ りょう)はガタン、という音をさせて窓を開いた。それと同時に、びゅう、と風が室内に吹き込んで涼の茶色の髪を揺らした。急に吹き込んできた風に涼は青の目を細め、一呼吸置いてから窓の外を見つめた。いつもと変わらぬ、破壊されたままの世界。
「変わらないね」
小さく、涼は笑った。苦笑にも近い笑み。しかしそれでいて、真っ直ぐと前を見据えている。
「破壊された街……か」
「だが、破壊されたからといって全てが終わった訳ではないだろう?」
突如、涼の後ろから声が響いてきた。振り返ると、そこにはウォルフ・シュナイダーが黒髪を窓から吹く風に揺らしながら、銀の目を細めつつ立っていた。涼はそっと笑う。
「起こしちゃったかな?」
「いや、結構前から起きてはいた」
「そっか。ならいいけど」
ウォルフは涼の言葉を聞き、眉間に皺を寄せる。そんなウォルフを見て、涼は小さく笑った。ウォルフは小さく溜息をつき、窓をガタン、と閉める。突然の出来事にきょとんとする涼に、ウォルフは小さく呟くように言う。
「紅茶が切れている。買いに行くぞ」
「俺も行くの?」
涼が聞くと、ウォルフは一瞬眉間に皺を寄せてから口を開く。
「行きたくないのならば良いのだが」
さっさと背を向けて出ていこうとするウォルフに、涼は苦笑しながら小走りで追いつく。
「行くよ。折角だから、美味しい紅茶を教えて貰おうかな」
涼はそう言って後ろ手にドアを閉め、鍵をかけるのだった。
破壊されている街の中でも、人はちゃんと生きて生活している。涼とウォルフがよく訪れる、このマーケットがいい例である。破壊されようが、人は人として営みをやめる事は無いのだ。
「凄いよね」
小さく、涼は言ってから微笑む。ウォルフが不思議そうな顔で涼を振り返る。涼はその様子に気付き、更に笑う。
「何だか、人って凄いなと思って」
「……何を」
「だって、どんなに苦しくても辛くても。生きようという意思がそこにあるから」
涼が言うと、ウォルフは「ふっ」と小さく笑った。皮肉を含んだような笑みだが。
「お前は本当に面白いな」
「そうかな?」
ウォルフに言われ、涼はきょとんとする。ウォルフは頷く。
「お前だって……」
ウォルフが言葉を続けようとした瞬間、涼の視線が一点で制止した。少し離れた所で、女性が倒れている。
「……あの人……」
近付こうとする涼の腕を、ウォルフはぎゅっと掴んで止めた。
「どうしようとしている?涼」
「だって、あの人」
涼の目は、女性を捕らえて離さない。
「今日は紅茶を買いに来ただけだ」
冷たい、ウォルフの言葉。涼は小さく眉間に皺を寄せる。
「それだけの為に来た訳じゃないよ?」
「それだけの為に来たんだ。……涼、お前は自分の事を分かっているのか?」
その言葉で、涼ははっとした。ウォルフはただ単に冷たく言い放っただけではない。自分のことを思っての、制止なのだ。……だが。
「分かっているけど、放っておくのは嫌なんだ」
涼はそっとウォルフの手を解いた。そしてゆっくりと倒れている女性の元に近付き、覗き込む。
「大丈夫ですか?」
女性は涼が声をかけると、ゆらりと体を起こした。そう、ゆらりと。
「捨てられたの」
小さく低く、女性はうめくように呟くように言った。涼は背中がぞくりとするのを感じた。……これは、生きている人間ではない。
「残留思念……」
ぼそり、と涼は呟いた。ウォルフの心遣いが、改めて思い返される。ウォルフは全て知っていたのであろうか。全て知っていたからこそ、涼に制止をかけたのであろうか。否、今はそのどちらでもいい事だ。大事なのは……そう、大事なのは。
(巻き込まれてしまったという事で)
涼は苦笑する。目の前の女性が、余りにも自分を巻き込んできたから。
(流れ込む感情が)
拒否すらも受け付けてはくれぬ、感情。女性のそれが、負のものであるが為に尚更それは聞き入れられぬ。
『……辛い』
(分かったから)
『哀しい』
(それは、よく分かったから)
『寂しい……!』
涼は耐え切れず、その場に膝をつく。だが、そのまま倒れこむ事は無かった。寸前の所で、ウォルフの手がそれを阻んだのだ。
「涼!」
ウォルフは涼を支えたまま、キッと前を見据えた。
「……美しくないな」
小さく、ウォルフは呟いた。眉間の皺は、より深く刻まれている。
「ウォルフ……彼女は」
涼は、小さく言う。女性の感情を知ってしまった今……流れ込んだものを受け止めてしまった今、ただただ涼の中にあるのは女性の思い。辛くて、哀しくて……寂しいと言う女性の心。
「涼……今日は一体何をしに来たんだ?」
ウォルフの問いに、涼はぐっと言葉を詰まらせる。ウォルフは真っ直ぐに女性と向き合っている。涼を支えたまま、ただじっと。
「こんな、美しくないものと対峙するためか?」
「そうじゃなくて……ただ」
涼の言葉を、ウォルフは遮る。
「お前をこんなにさせる為か?」
「……俺は」
涼は俯く。ウォルフ手は、倒れそうになっている涼の体をびくりともする事なく、しっかりと支えている。ウォルフは女性を見据えたまま、眉間に皺を深く深く刻む。
「美しくないものは、見てみぬフリが出来る。だが……」
ウォルフはちらりと涼を見る。涼は大きく深呼吸をし、自らの身体を落ち着かせていた。ウォルフの視線には気付かずに。
「……涼」
「……うん、大丈夫」
涼は再び大きく深呼吸し、目をすうっと開けた。開かれた目は、ただただ真っ直ぐと女性を捕らえている。
「もう、大丈夫」
涼はそっと支えて貰っていた手を解いた。立ち上がり、じっと女性を見つめる。
「もう、あなたも大丈夫ですから」
『辛いの』
「明るい所に行きましょう」
『哀しいの』
「楽しい所に行きましょう」
『……寂しいの!』
涼は微笑む。見る者を安心させる、柔らかな笑みだ。そっと傍でウォルフが口元だけで笑った。ウォルフには先が見えていた。危険が無いかどうかを知るために行った危険予測は、想像以上の未来を映し出していた。
「大丈夫です。……明るく、楽しく、ただただひたすらに優しく温かなところですから」
涼はそっと手を差し出した。女性は、その手に戸惑いつつもそっと手を伸ばしてきた。涼はその手をぎゅっと掴む。途端、女性の体全身から光が溢れてきた。ふわふわと、光は空気に溶けながら天へと昇ってゆく。
「……美しいな」
ぽつり、と溶けてゆく光を見て、ウォルフは呟くのだった。
夜、紅茶の香りが部屋中を包み込んだ。昼間マーケットで無事買った、紅茶だ。
「いい香りだね」
涼が声をかけると、ウォルフはただ小さく笑った。至極当然の事だ、と言わんばかりに。涼はそれに小さく笑い返し、そっとヴァイオリンケースを手に取った。寝る前の一時の、日課のようなものだ。
「何かリクエストは?」
「いや、任せる」
ウォルフはただ一言そう言い、ゆったりとしたソファに身を沈めた。手には、先程入れられた極上の紅茶。涼はすっと弓を持ち、そっと弦を引いた。ヴァイオリンの音色が室内に響く。音合わせだけなのに、美しく響く音。ウォルフはそっと目を閉じた。香りと、音の美しさを寄り堪能する為に。
だが、それは不意に終わってしまった。ウォルフは何事かと目をそっと開けた。涼はヴァイオリンを手にしたまま、じっとウォルフを見ていた。
「どうした?涼」
「今日、何か言いかけたよね?」
涼の言葉に、ウォルフは眉間に皺を寄せつつ首を傾げる。
「ほら、あの女性と出会う前に」
「……何か、言ったか?」
「うん。……俺の事、面白いって言って」
ウォルフは眉間の皺を和らげる。ようやく思い出したのだ。
「思い出した?」
「ああ。……あれは、お前が余りにも面白い事を言ったからだ」
「そんなに俺、面白い事を言ったかなぁ?」
ヴァイオリンを肩から降ろし、涼は考え込む。ウォルフは紅茶を一口啜り、微笑む。
「涼は、人が凄いと言っていただろう?」
ウォルフの言葉に、涼は頷く。確かに、自分はそう感じた事を口にしたのだ。人という生命に対する思い入れの強さに、感動のようなものすら覚えたのだから。
「では、涼は何なのだ?」
「何って……」
「お前も、人ではないか」
あ、と小さく涼は声を漏らした。確かに、その通りだ。
「お前自身も、お前が『凄い』と漏らした人ではないか。だから、お前は面白いと言ったんだ」
ウォルフはそう言って、再び紅茶を口に運んだ。涼は、涼自身の中を納得が突き抜けていくのを感じた。自分が凄いと感嘆した『人』という存在は、同時に自身のことでもあったのだ。
「そうか……そうだよね」
涼はそう呟き、再びヴァイオリンを構えた。そっと目を細め、震える弦を見つめる。
(こうして音の出る弦も……音を出す弓も)
すう、と弓を引く。奏でられるヴァイオリンの音色。
(全てが音として存在しているんだ。旋律を導き出す音達が、音達として……)
ウォルフはそっと目を閉じた。ヴァイオリンが、室内に、そしてウォルフと涼の体内に響き渡る。
(音は音として)
響き渡るヴァイオリンの音色。
(匂いは匂いとして)
充満する、紅茶の匂い。
(俺は……俺自身として)
涼は涼として。ウォルフはウォルフとして。ただそこに在るだけでも、もの凄い事なのかもしれない。今、こうして紅茶の香りが満ちている事が。今、こうしてヴァイオリンを響かせている事が。全てが在るだけ、凄い事なのかもしれない。
(きっと、それすらも『面白い』と言うのかもしれないね)
涼はちらりと目を閉じて音楽と匂いを堪能しているウォルフを見て、小さく笑った。自分を面白いと思うウォルフも、実は面白い存在なのではと不意に思ってしまう。きっとそれを言ったら、いつものように眉間に皺が寄ってしまうことだろう。
(それでも)
涼はそっと目を閉じた。そうする事によって、ヴァイオリンの音色が、紅茶の香りが、より深く深く浸透していくかのように感じた。
いつもと同じ、だが違う今この瞬間の音と、匂いと、そして自分自身とが。
<同質でありつつそれは異質であり・了>
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