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<東京怪談ノベル(シングル)>


■曙光■
 あと数日で一年が終わるという日も、クレール・フェリエは日々の業務に追われていた。
(今日は徹夜だな)
 積み上がった書類にため息が出る。この分では新年は研修室で迎える事になりそうだ。
(今更、珍しくもないが)
 ここに来てから、外で新年を迎えた年があっただろうかと思い返し、紅茶を入れる手が止まった。
(そういえば、ここに来て最初だったか、次の年だったか。新年でなく、前日だったが)


「はい、頼まれていた本」
「持って来てくれたのか? 悪いな。ありがとう」
 礼もそこそこに、受け取った資料を広げるクレールに、訪れた研究員は軽く眉を寄せた。
「ねえ、明日は新年よ? ずっとここに篭っているつもり?」
「ああ、特に外出する予定も無いし」
 顔を上げもせずに書き込みを続けるクレールを、研究員は暫く眺めていた。やがて、すいと歩み寄ると、丁度クレールが目を通していた書籍を閉じる。
「何だ?」
 無表情に問うクレールに、研究員はぴっと指を突きつけた。
「あのね。あなた一人残っていたら、戸締りができないでしょ。皆出かけるのに、迷惑なの」
「でも‥‥」
 クレールに反論する隙を与えずに、研究員は傍らに脱いであったコートとマフラーを押しつけた。
「大体、詰め込んでばかりじゃあ却って頭に入らないわよ。ちょっと早いけど、ほら行った行った」
 強引に図書室から追い出され、仕方なくクレールは屋外に向かって歩き始めた。

 審判の日以後、とりつかれたように、がむしゃらに勉強を始める者は少なくない。
 特に、他所から移ってきた者は、切実な理由を抱えている場合が多かった。早く手に職をつけて生計を立てる為に、或いは何かに没頭して忘れていたいものがあったり。
 その中でも、何かに追い立てられているかのようなクレールの猛勉強ぶりは、かなり目立つ方だった。
(心配してくれたんだろうが)
 研究所の門を出た所で足を止め、クレールはため息をつく。先ほど、本を貸してくれた研究員は、最近はクレールの顔を見るたびに言っていた。
「根を詰め過ぎると体に悪いわよ。たまには気分転換に出てみれば?」
 何度言っても聞かないので、とうとう有無を言わさずに追い出されてしまった。
(図書室にいる方が落ち着くのだが)
 行きたい所も、おしゃべりをしたい相手もない。これで1日をつぶさなければならないのは、結構骨が折れる。
 プラハに移って、それなりに日は経っているが、いまだに現地の地理には不案内で、適当な散歩コースも思い浮かばない。
 それでも、何かの折に目にした、かつての観光名所を中心に、適当に足を向けてみる事にした。
 中世の建造物を数多く残していた、歴史的な都市。今はもう壊れてしまったものもあるだろうけれど、時の重みを刻み込んだ美しさは、人々の目を楽しませる。その構造を直に目にする機会があったなら。
(まだ、諦めきれないのか)
 旅行が趣味でもなかったのに、あやふやながら何故記憶にひっかかる名があったのか思い出し、苦い笑みが浮かぶ。
 だが、今はすべて忘れて純粋に名所巡りを楽しんでみようと試みた。建築の勉強のためではなくて。
 プラハの顔ともいえるプラハ城を中心に、カレル橋を渡って旧市街広場にあったティーン教会。その間ニも幾つか教会や聖堂があったはずだ。天文時計のからくりは、今も変わらず動いているのだろうか。
 覚束無いながら目標を定めて歩き出すと、案外プラハも元のままでは無かった。
 審判の日にプラハ研が無傷だったのは、超能力のバリアで守ったからだと聞いた。その効果が及ぶ範囲を出れば、プラハもやはりあの大災害に遭っていたのだ。
 かつてのプラハをクレールは知らない。だが、完全に廃墟と化していれば、過去と比べる必要は無かった。
 そこに至る道そのものが失われ、健在なのかどうかさえ分からない場所もある。
 郊外へ足を延ばして、ボヘミアガラスの工房も覗いてみた。かつての名産品も、今では稀少になってしまったが、技術を失わないようにするためか、僅かながら生産は続いている。
(喪われる前に来たかったと思うのは、罪だろうか)
 古い、様々な時代の建造物がこじんまりとまとまっていた街に。
 生き延びられたのが不思議なくらいだが、それはクレールに限らない。世界中にどれだけの人が生き残っているのか分からないが、ほんの一握りの人が助かったのは、幸運に過ぎない。
 プラハの周囲にすら、瓦礫と化してしまった場所がある。寂れた心で、たまたま目についた教会に入ってみた。
(ああ)
 中では老人が一人、静粛に祈りを捧げていた。
(生きている)
 修道僧ではなく、どこにでもいる普通の老人だった。だが、新年を控えて敬虔に祈る姿は、ゆるやかで、けれどゆるぎない生命の力を感じさせた。
 暫く立ちつくしていたが、やがてそっと教会を後にして街の中心部に向かう。
「ずるーい、それあたしの分だよっ」
「だーめ、分けてあげないもんねー」
 菓子を取り合って、子供達がクレールにぶつかりそうになりながら駆けていった。
 新年の準備のせいか、露天商と客の掛け合いが殊更に威勢が良い。広場の喧騒がこれほどのものだとは、クレールは知らなかった。
「ねえちゃん、ここは初めてかい?」
 ぼんやりとしていると、空の果物籠を積んだ車から声をかけられた。
「ああ、まあ」
 曖昧に答えると、男は肩を竦めた。
「そりゃあ、残念だったな。ここは、クリスマス前の方が賑やかなんだ。来年はクリスマスに来ると良い」
 言いながら、男は林檎を一つ投げてよこした。
「今日はこれで店じまいなんだ。持ってきな」
「‥‥ありがとう」
(そんなにひもじそうに見えたのだろうか)
 貰った林檎を暫し見つめ、コートのポケットに押し込むと、クレールはもう一度ゆっくりと広場を見渡した。
 完全に無傷では無かったプラハ。廃墟をも抱えながら、人々の暮らしは穏やかだった。
 閉ざされた、何も知らずに一点の曇りもない底抜けの明るさではなかったが、陰鬱な翳りが感じられない。
 だからこそ、この街は生きているのだ。日常にささやかなゆとりすら失った、滅び行く街ではなく。
(もっとも、あたしはすぐにはそうなれそうにないが)
 いつかは、自分もあんな風に、露店の主人と値を掛け合ったりする日がくるのだろうか。教会で祈りを捧げ、新年を祝って明け方まで騒ぎ立てて。
 今はそんな姿は想像すら出来ないけれども。
 街の空気はクレールの頬を緩ませはしなかったが、ほんの少し清々しい気分を胸に送り込んだ。


(あれから、もう10年程になるか)
 あの時、結局クレールは最も賑やかな瞬間は確かめずに帰ってきた。
「昔はねえ、年が明けると同時にそこら中の家から花火が上がって、そりゃあ華やかだったのよ。今は流石に花火は無いけど」
 後で馴染みの研究員が教えてくれた。花火はなくとも、友人知人を問わずに家の窓から、街路を歩きながら、新年を祝い合い、明け方まで続く騒ぎは変わらない。
 今年は、中東との戦争が終わって初めて迎える年だ。相当な賑わいになるだろう。
 その騒ぎに加わったものかどうか。
 ふと思い立ち、クレールは外に出てみた。夜明け前の室外は身を切るばかりの寒さだが、それに耐えて東の空を見つめる。
 人の手で生み出された数多くの美しいものが失われても、夜が明ける瞬間は変わらずに美しい。
(まだ、そう思える心が残っているとはね)
 冷気と共に清冽な空気を胸一杯に吸い込み、クレールは含み笑いを漏らしていた。

■ライターより■
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