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melodic mind
分からなかった、あの言葉の意味。
告げられた言葉は、自分の中には落ちては来なかった。
胸の底にある水は、波紋を立てる事もなく、ただいつまでも凪いだまま――……。
どうして、私は……。
*
どこからか、強い語調の声が聞こえてきた。
「……?」
声の発信地とはまだ距離があるのだろうか――何を言っているのかまではよく聞き取れないが、どうやら男と女が言い争いでもしているようだ。女が甲高い声を発し、それを受けて、男が叩き付けるような低い声を放っている。
双方、紡いでいるのは、怒声。
歩を進めるに従い、やがて彼らが言っている内容が徐々にはっきりと聞き取れ始める。
どうやら、単なる痴話喧嘩のようだ。
「……何をやっているんだか」
ぽつりと呟き、ディアーナ・ファインハルトは呆れを含んだ溜息を漏らした。
連邦所属の騎士である身のディアーナ。だがここ数日は特に任務もなく穏やかな日々を過ごしており、本日は本日で正式な「非番」の日だった為、部屋に篭り切るのも何だか勿体無いかと思い、特にあてもないままふらふらと外を散策していたのだ。
右手で肩にかかる金色の柔らかな髪を背中の方へと払い除け、暫し物陰に立つようにしてディアーナは男女の言い争いを聞いていた。
(あてはなかったとはいえ、別に男女の痴話喧嘩の現場になど辿り着きたかった訳ではないのだが……)
思うが、何となくその場から離れられなくなる。仕方なく、澄んだ青い瞳を少し伏せるようにして、耳に届く言葉を拾った。
「私の誕生日だっていうのに、遅刻して来てその態度! もう許せないっ」
「だからちゃんと謝ってるだろう! 昨日遅くまで仕事だったんだから仕方ないだろっ? 何回言ったら分かるんだっ」
「それのどこが謝ってる態度なのよ! 今日が私の誕生日だって事も忘れてたんでしょっ」
「覚えてるに決まってるだろっ」
「じゃあ何で手ぶらなのよ! 今年の私の誕生日には凄いプレゼント用意するって言ってたのに!」
「別に手ぶらな訳じゃ……っ」
(……何をやっているんだか……)
デートに遅刻してきた男を許せない女。しかも今日は女の誕生日、というある種特別な日で、だからこそ彼女は男の遅刻が許せないらしい。
先に呟いた言葉をそのまま再度胸中で繰り返すと、ディアーナはその道をそのまま何事もないような顔で進んで喧嘩するカップルの横を通り過ぎる、という選択を捨てて別方向へ向かおうと思い、一旦は踵を返したのだが――すぐにまた足を止めた。
そしてふと思いついた自分の行動に、思わず笑みを零す。
「何を考えているんだか、私も」
呟いて、片手に提げていた物へ視線を落とした。
独特の緩いカーブを描くそれは、ヴァイオリンを収めたシェル型のケースだ。
あてもなく歩いて、景色がよく心地良い風が吹く場所に上手く辿り着けたら弾こうと思って持って来たのだが、……まさかこんな場所で弾くことになるとは。
思いながら少し周囲を見渡して、軽く溜息をつく。
景色がいいどころか、あるのは灰色の建物と石畳。爽やかな風が舞い込むでもなく、そこに満ちた空気にはむしろどこか埃っぽさが感じられた。
ヴァイオリンを奏でるロケーションとしては、あまり良好とは言い難い。
が、再度自分が立つ場所を確認したディアーナは、その場に片膝をつき、持っていたケースを、砂埃が目立つ石畳の上に静かに置くと蓋を開いた。
紫色のベルベットで裏打ちされたケースの中、眠りについたかのように鎮座しているのは、オレンジ系のニスが艶やかに煌く、造形美を有するヴァイオリン。
「誕生日だと言うのに遅刻してくる男と、その落ち度を突っつき回して駄々をこねる女か……」
呟いて、取り出した弓を張り、次いでヴァイオリンを取り出すと、A弦、今しがたあわせたA弦とD弦を同時に弾いてみてD弦、D・G弦を同時に弾いてG弦を……という風に調弦を済ませていく。
そうしながら、さて、弾くと決めたのは良いが一体何を弾こうかと思案し――ふと、脳裏にある曲の譜が浮かんだ。音符の上に多くの点がついているのが目立つ譜だ。
あれなら暗譜も問題ないか、と思い、綺麗に音を合わせ終えたヴァイオリンを左肩に乗せて、構える。
そして、一つゆっくりと呼吸してから、弓を弦の上へと滑らせた。
――――……
紡がれるのは、優美で明るい雰囲気の、典雅なワルツの形を持つ音色――クライスラーの「美しきロスマリン」。
音符の上の点は「スピッカート」という技法を使用する事を表している。ボウを弦の上でバウンドさせるようにして奏でるのだが、弦の当て方にムラがあると綺麗に音が紡げない。
けれど、ディアーナはそれを美しく弾きこなしていく。
この曲の「ロスマリン」というのは「ローズマリー」の事で、可愛い女性を示す語だとか言われているが……知識としてそれは知ってはいても、演奏中のディアーナにとってそれは深く気にするほどの事でもなかった。
ただ、譜面の隅から隅までをさらうように、忠実に、かつ丁寧に音を織り成していく。
運弓の動きに合わせて、緩くウェーブを描いている金色の髪が背中と頬を撫でるようにさらさらと動く。
埃っぽい空気は微かに振動はするが、音が風に乗って広がり行く事もなく、冷たい建物の壁に当たってその場で響き渡る。だが、さほど悪くは感じない。
緩やかにその場で音が渦を巻く。けれどそれは、行き場なくその場で朽ちていくのではなく、やがて周辺の建築物が伸びた先にある重い灰色の雲を抱く空へと吸い込まれるように昇っていく。
「――――……」
上質な小品の最後の一音までも丁寧に紡ぎ終え、ディアーナはゆっくりと弓を下ろした。
喧嘩をしている恋人達の、その頑ななお互いの心を解きほぐすような効果があれば、と思ったのだが……。
(上手くいっただろうか?)
肩からヴァイオリンを下ろしてひょこりと建物の影から顔の上半分だけを覗かせて、今まで声でしか存在を認識できなかった恋人達の様子を窺う。
「……あ……」
今ディアーナがいる場所から、5メートルほど離れた場所。そこに二人はいた。自分と同じ髪の色と長さの女性の後ろ姿が見える。どうやら男の方はその彼女の向こう側にいるようだ。
恋人達のそのどちらの顔も見る事はできないが、何やら妙に二人して静かになっている。
(……私の音楽では役に立たなかっただろうか?)
そう、ディアーナが思いかけた時。
「……バカ」
小さな声が聞こえた。どうやら、女が紡いだものらしい。
その言葉で、まだ喧嘩を続行するのかと思ったディアーナの眉が僅かに寄せられそうになったが、それはその後に続いた男の声を聞く事で即座に解消される。
「ゴメン。今日の待ち合わせまでには仕上がる予定だったんだけど、店の方でちょっと手違いがあったみたいでさ、ギリギリに仕上がって。だから、遅刻した」
「そうならそうだって先に言えば良いのに」
「驚かせたかったんだ……ゴメン。貰ってくれるか?」
「当たり前よ」
「…………」
「…………」
暫しの沈黙。その後、嬉しそうにくるりと振り返った女性の左手薬指には、細い銀色のリングが嵌っていた。それを、空に翳すようにして幸せそうに見ている彼女の様を見て、ふっとディアーナは笑みを零した。
どうやら、男の方が遅刻した原因は、あのリング、だったらしい。
さっきとは打って変わって幸せそうに笑いあう恋人達を見て、ディアーナはヴァイオリンと弓をケースに収めて立ち上がった。
「にしても、いいタイミングで音楽が聴こえてきたわね」
「本当にな。誰か知らないけど、感謝しなきゃ」
「思い出の曲になりそうね。プロポーズの時に流れてきた曲、とかいって」
「何て曲か俺は知らないけどな」
聞こえて来る声を背に、少しだけ肩を竦めると、ディアーナは悪戯っぽく笑いながら元来た道を歩き始めた。
ヴァイオリンは弾いたし、「聴衆」を満足させる事ができたという事に、ディアーナ自身ももう十分に充実した気持ちになっていたからだ。
何キロメートル、何十キロメートル歩くよりも、ずっと。
(……よかった)
なんだかとても満ち足りた気分を抱えて、ディアーナは帰宅の途についた。
けれど、その満ち足りた心の奥底にわずかばかりの翳りがある事に――ディアーナは気づいていた。
その夜は、日中に沢山歩いたせいかいつもよりすんなりと就寝できた。
いつもはこんな時代に身を置いているせいで神経が過敏にでもなっているのだろうか――あまり良い夢は見ず、何処かから落下したり、逃げている途中に壁に囲まれて身動きが取れなくなる夢などを見る事が多いのだが。
今日は――……
夢の中でも、ディアーナは今日の昼間のように、ヴァイオリンを弾いていた。
周囲は、白い光に覆われている。だが、そこに沢山の人がいるのはわかった。
その聴衆の前で奏でているのは、150年近く前に作られた曲――マスネ作曲・タイスの瞑想曲。
戦火の中、残った楽譜を見て懸命に覚えたその曲。
いくら楽譜が焼かれて消失しても、頭の中に刻み込んだ譜は誰にも消すことは出来ない。
それを示すかのように、ディアーナは譜面を必要とはせず、ただ一心に弦とネックの上を踊るように動く自分の左の手指を見つめていた。
もう、何度も弾いた曲。頭の中の譜面を追わずとも、指が動きを覚えている。
奏でられるは、見事なまでに整った音色。ほんの少しも揺れたりもたついたりする事がない――
完璧な、旋律。
弾き終えた途端、白い光から発される割れんばかりの拍手に包み込まれる。その場にいる者たちの顔は見えないが、誰もがディアーナの音色を褒め称え、両の掌を惜しみなく打ち合わせている。
けれど。
(何だろう……)
どれ程の賞賛の拍手や絶賛の声を受けても、ディアーナの中にはそれらがただ、虚ろに響くだけだった。
嬉しくないわけではない。自分の腕前を褒められるのだ、嬉しいに決まっている。
だが。
(……何か、違う)
脳裏にある譜面どおりに弾く事は出来た。揺らぎがなく、端正な音色だったと自分でも思う。
けれど。
ただ、それだけの曲。譜面を忠実に再現しただけの、曲。
それ以上の曲にするための何かが、足りないのだ。
ディアーナ自身はそれがよく分かっていて、けれどもその原因が何なのかは分からないままだった。
悩み、葛藤しつつも、軍人としての生活もある為にただそれ一つにいつまでも心を囚われているわけにも行かず、とにかく、弾いていればいつかは答えに辿り着けるかもしれないと、戦時中、音を出せば敵に居場所を知られる可能性もあるという状況下にありながらも、サイレンサーを使うなどしてなるべく音を殺しながら、時間さえあればヴァイオリンを弾き奏でていた。
けれど。
まだ、その答えは見つからない。
「…………」
ヴァイオリンを肩から下ろして、聴衆たちに頭を下げる。その間も拍手が続いているが――それはディアーナの心の上を滑っていくだけ。
昼間、恋人達の言葉を聞いた時に満ち足りた、その心の奥底に潜んでいたのと同じような翳りを感じる。
(やはり、私にはこれ以上は弾けないのか……)
胸中に、諦めにも似た思いが広がる。緩く唇を噛み締めた――その時。
ふっと、周囲の白い光の中に、一つ、黒い影が浮かび上がった。
顔は、見えない。けれどもその影の輪郭と、影が持つ空気を、ディアーナはよく知っていた。
ゆっくりと、噛んでいた唇を、開く。
そして黒い影へと、語りかけた。
いつか――自分が、一人の男性騎士に向かい紡いだ言葉を。
「私は騎士だ。戦争があれば剣を取って戦わなくてはならない。いつ死ぬともわからぬ身だ。貴公はそれでもいいというのか?」
それに、少しも逡巡することなく、影は答えた。
「もちろんだ」
自分を求めてくれる、彼の声――言葉。
優しくも強い、その、心。
まっすぐに自分に向けられる、その、心。不安や迷いを抱かせる余地のない、その言葉。
自分の全てを受け止めて、包み込んでくれると、信じられるその――想い。
(ああ……)
黒い影の言葉を受けて、ディアーナは眩暈のようなものを覚えた。
どうして、今まで分からなかったのだろう。
答えは、ここにあったのに。
(あの時、私はあの、彼の答えの意味が分からなかった)
どうして、それでもいいと言えるのか、分からなかった。
死んでしまったら終わりなのに。騎士として命を常に危険に晒している自分などを選んでくれた理由が分からなかった。
けれど、今、やっと分かった。
理由や理屈ではなく、それは。
愛情――という名の、強い想い。
自分がいつからか、何処かへ置き忘れてしまっていた、心のカケラ。
(貴公が、持っていたのか)
優しさも、愛情も、そして――強さも。
きっと、それが今まで、自分に足りないと思っていた、もの。
「…………」
ふ、と。
閉ざされていたディアーナの蒼い双眸が、開いた。
眠りの縁にいた意識が、現実へと戻ってくる。
そのまま、ディアーナは体を起こして寝台から下りると、テーブルへ歩み寄り、上に置いていたヴァイオリンケースへ手を伸ばし、蓋を開いた。
(今なら、きっと――できるはず)
艶やかな光を宿す愛器を構え、ディアーナは眼を閉じて一つゆっくりと呼吸してから、弓を弦の上へと乗せた。
紡がれしは、此の世界の何処にも譜面が存在しない旋律。
生まれ来るは、奏者の胸の奥底に在る、柔らかな波紋描きし心という名の水辺。
哀切、憂愁――愛慕。
種々の想い乗せ、音色響き渡るは冴えたる月色の下――……
今までのディアーナが奏でる音とは、明らかに違っていた。
今までどおり、正確ではある。技巧も安定している。
けれど、それだけではない。
譜面がないから――譜面を辿れないから、変化したのではない。
(やっと、見つけた……)
私の、答えを。
欠けていた心のピースを、ようやく嵌める事が出来た。
完成した心の譜面に描かれている曲を紡ぎながら、ディアーナは、その唇に柔らかな笑みを浮かべた。
それは今までにない、一点の翳りも曇りもない満足そうな微笑だった。
月夜に響く、ディアーナの手で紡ぎ出されるヴァイオリンの音色は、まるで、彼女が自分の心を歌い上げているかのように、情感満ち溢れた見事な音色だった。
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