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hate crime
人の口は時に、どんな優秀な情報機関よりも早い。
「そういや先生。聞いたかい?」
腰痛の持病で常連の患者となっている老人が、背を向けた格好でいつもの世間話を始める。
カール・バルクが診療所を構えるスラムは決して治安がいいとは言えず、そんな場所に居を置く医師の多くは無免許の自称医師、故にカールのように正規の医師免許を持って開業医を営む者が珍重……基、重畳されるも然るべきだろう。
「貴方の耳より早く、私が知る情報などある筈がないでしょう」
カールはそのまま貼ると冷たい湿布を掌の間に挟んで暖めながら、やんわりと老人に話しの先を促した。
「よく言うね」
短く笑って老人は続ける。
「や、なんでもさ。万屋の路地の奥に崩れそうなビルがあったろ、危ねぇから子供等を近付けんように申し合わせてある。彼処で立て籠もりをしてるらしいんだよねぇ」
「それは、また。どこのグループですか?」
スラムには大小取り混ぜたグループが存在する。
多種の民族が混じり合うに、マフィアを後ろに付けた物、黒社会の末端として動く物、腕自慢の猛者が寄り集まった物、と性質も様々なだけに、抗争に及ぶ事も多い。
一触即発の火種を抱えていたような対立があったろうか、と頭の中で考えを及ばせるに、老人は片方の手を「ちゃうちゃう」と振った。
「最近はどっこもおとなしいモンさ……膠着状態っつうけどな。新参、つうより流れ者さね」
とんとん、と腰を叩いて、老人はカールに膏薬を貼るように促す。
「それはまた……中立地帯だと何処も手を出しかねているでしょうね。青年団は動いていないのですか?」
青年団、というと素朴な響きだが、主として商業地域に設けられる、俗に中立地帯と呼ばれる場所、抗争禁止の不文律を持つ場所の自警を担うグループの事である。
対立組織の抗争激化の折には、中立地帯と言えども周囲を巻き込んでの闘争がないとは限らず、それを視野に組織されたなかなかの猛者揃いである……退役軍人の八百屋のせがれや、海を色々な意味で荒らし回っていた魚屋の三男坊など、メンバーは地元住民の構成だがそう侮れたものでない。ちなみに手芸屋の看板娘は元・暗殺兵の長女だ。
「それがなぁ、人質もいつの間にか当のビルに入り込んでた難民でなぁ。しかも犯人がエスパーと来た日にゃ、坊主共の手にゃ負えんて」
エヴァーグリーンのお膝元でこそある、その安心と安全の傘の下、否、せめて影なりとの恩恵に与ろうと、勝手に住み着いた彼等はいわば居るはずのない人間である……プラハに税金を納めていなければ、当然、生活を確と保証されているワケでもない。
「となれば、エヴァーグリーンに頼るしかないが。早いトコ足下の火の粉に気付いて欲しいモンだ」
出動要請は出せない。
彼等は飽くまでも、存在を黙認され続けなければいけない為だ…故に、エヴァーグリーンに噂が流れるよう、わざわざカールに世間話をしに来た、ようである。
だが、老人……楽隠居した情報屋はその期待を別の形で叶えられようとは思ってもみなかった。
「……詳細は?」
穏やかな声音、そのトーンは変わらない……が、ひやりと底冷えする空気を内包した気配を訝しんで肩越しに、かかりつけの医師の姿を見てぎょっとする。
微笑みもいつものそれと同じまま、カールは笑わない瞳で老人を見据え、丁寧に問う。
「もっと詳しく教えて下さい」
情報には代価が付き物である。少なくとも、それを生業として来た老人にとって当然の事なのだがこの際は無視すべき理だ……が、知ってる事を洗いざらい話すから瞬きくらいして欲しい、とささやかすぎる要望を提示しても、罪はなかろう。
抜け落ちた床からロープを使ってビル内に侵入を果たし、カールは音無く、コンクリートの床に足を付けた。
壁の所々は崩落し、割れたガラスと混じって長靴の底にじゃりとした感触を伝える。
元はホテルだったという。
打ち捨てられて久しく、調度は盗まれたか閑散として襤褸同然のカーテンが風にひらめく程度である…一階は吹き抜けとなり、二階からエントランスを一望出来る作りとなっている。
カールは壁に背をあて、影が落ちぬよう気を払いながら肩越しに階下を見下ろせば、左眼に固定した電子単眼鏡が、視点の動きを読んで目標物に照準を合わせる。
出入り口から最も遠い壁際に、老若を併せて五人……家族と思しき年齢層だ。
「お前等、動いていいんだぜ?」
そして、カールが倒すべき相手は三人。
「逃げても追ったりしねぇよ」
一人はクスクスと笑いながら、短銃を玩んでいる…旧い型のリボルバー、元は家族が護身で持っていたのだろうか。
「動けるモンならな」
別の口から発せられる嘲りの口調に、壁に頭をつけた形で座り込んでいた老人が口を開いた。
「頼む、子供らだけでも自由にしてや……ッ」
「だから言ってるじゃんよ、動けるなら逃げろってさぁ」
嘆願を謀る口調で遮り、犯人の一人がピン、と弾いた指先から、銀の光が回転する軌跡で飛ぶ…ごく細い、針だ。
それは老人の眼前でピタリと止まった。
「じぃさん動いてみれば? 俺ら、力強くねぇから、そっちのガキ共まで気ぃ回らなくなるかもよ?」
人質の右眼の寸前、針先を向けて中空に止められたのは念動力に因るらしい。
人体で最も脆い眼球、針の一本で重篤なダメージを与えられる上、切っ先に対して本能が持つ恐怖が抵抗を封じる。
前情報の通り確かに、力の強いサイキックではない…が、それを有効に使う知恵の程度はあるようだ。
「じぃちゃぁん……」
喉を震わせて、最も幼い子供が視線すら動かせないまま助けを求めて呼び掛ける。
「泣くんじゃないの」
固い声でそれを封じたのは母親か…子供の肩に腕を回して抱く手に力が籠もるのが、解った。
「ガキの泣き声ってキライなんだよな、ぎゃぁぎゃぁうるさくってよ」
ふん、と鼻を鳴らしてガツリと、頭すら動かせない子供と母親の間の壁を蹴る。
「泣いたら、誰かの目ん球に、針がぐっさり刺さっちまうかもな」
「うっかり?」
楽しげな仲間の問いに、肩を揺らす。
「そー、うっかり。こんなふーに?」
じり、と老人の動きを止める針が位置を進めるのが、光の反射が変わる事で知れた。
抗いがたい怖れに閉じた瞼に針先がぷつりと埋まり、赤い血の珠が銀を包み込むように膨れる。
カールは足下に転がるコンクリート塊を強く蹴り出した。
「何だッ!?」
落下に勢いを増し、固い音で床を削りながら滑るそれに犯人達の注意が人質から逸れる寸隙を突く形で跳躍したカールは、目していた落下地点を過たずリーダー格と思しき相手の背後を取った。
「力を使う前に、弾が君の脳を破壊するだろう」
警告とその後頭部に銃口を突きつけるは同時、感情の籠もらない淡々とした口調が紛れないカールの本気を告げている。
「てめぇ……ッ!」
虚を突かれた相手が激昂に次の動きに移る事すら許さず、カールは引き金にかけた指にほんの少し力を込め……ようとした、瞬間。
「退いて退いて退いてーぇッ!」
騒がしい声と共に、頭上から。
固い革靴の底でカールと対峙していた犯人の側頭部を踏みしめるように……落ちて来た。
衝撃と重みにたまらずに倒れた犯人に、害を加えた当人はその傍らにしゃがみ込み、害を被って白目を向いた相手の胸倉を掴んでぐらんぐらんと揺らす。
「あぁぁッ! うっかりしとって、ちぃと目測を誤ぅただけなんや、堪忍〜ッ! しゃんとしぃやーッ」
「……兆くん」
思わぬ知人の登場に、カールの肩から力が抜ける。
「あぁッ、カールさん、こんなにしてもうて……」
えぐ、と半泣きに金の瞳を濡らし、冷徹な銀の瞳で周囲の情景をはね返して、兆ナナシはカールを見上げた。
「止めを刺すつもりなら止めないけれど」
「あぁッ!?」
そう窘めめいた言葉に慌てて襟首を絞めていた手を離せば、剥き出しのコンクリートに重力のまま後頭部をぶつけて、白目が完全に閉じてしまった。
怒濤の流れを止める間もなく、仲間の一人を人事不省に陥らされた残りの犯人が、その打撃音に漸く我に返る。
「てめぇら、動くんじゃねぇッ!」
叫びと共に針が飛来し、カールとナナシの眼前、先と同じく動きを封じる形で制止する。
「……なんですのん? コレ」
子供の興味のように、ちょんと細い銀を指で示すナナシにカールは感情に欠ける声で堪えた。
「彼等は能力者のようでね……使える能力は針一本を支える程度らしいが」
「それって能力言えますん?」
ピースメイカー、ナインス部隊に属するに、人間離れした能力を操る上司や同僚に囲まれているナナシにとっては、ごく素朴な疑問だったらしい……が、その問いは痛く彼等の自尊心を傷つけた。
「ただの人間の癖に!」
「え? ボクもエスパーらしですよ? サイバーでっさかい、ちぃとも能力ないですが」
けろんとした同類宣言は予想外だったか、後に詰まる。
「したらお仲間やゆーコトで。どうでしょう、騒ぎも大きゅうなってなってきとるし、場所変えて落ち着いたトコでオハナシ聞かせて貰い……」
ナナシの言う落ち着いた場所、とは拘置所の事だが。
それを察した訳ではないだろうが、犯人はナナシの提案を侮りと取ったか声を荒げた。
「うるさい! 嘘をつくな! より優れた能力を持つ者の奴隷の分際で……ッ」
「うるさい?」
ひやりと空気の温度が下がる、声の低さでカールが言葉を発する。
「優れた能力? お前達が能力を使ってする事と言えば、人を傷つけるか殺すばかりなのに?」
針は変わらず眼前にある。だが、それを意に介した風なく、カールは微笑んで言う。
「能力など使わずとも、同じ事を私も出来るよ……ホラ」
銃を手にした腕が水平に上がる動きは、攻撃の意図を感じさせない程に自然だった。
が、連なる銃声は気絶している一人の腿を撃ち抜き、床を穿ち、直線上に立つ一人の横腹を抉る。
流れのまま、カールは残る一人の頭部に銃口の位置を合わせようとした。
「カールさん……ッ」
横腹を撃たれた犯人がナナシの針を支えていたのだろう……カールの眼に針先が埋まる、寸前にナナシのクローが細い金属を二つに断ち切る。
「ボクが!」
短く主張したナナシが、サイバー化に特化された身体能力をフルに使って短い距離を駆ける。
組み合う間すらなく叩き伏せられた犯人に変わって、銃口の先に毛先を金に薄めた黒髪が収るに、カールは無言で銃を下ろした。
「カールさんらしないです」
迎えに来た同僚に三人組を引き渡し、難民家族の保護手続きを知人の医師に依頼したナナシは、カールの傍らに立って口を開いた。
「何がかな?」
傷つけたと同じ手で、怪我人の応急処置を終えたカールは道傍の水道でその手を清めつつ…その口元にはいつもと同じ、穏やかな笑みを履いて問う。
「人質事件やらゆうて。先生に電話してナインスの誰ぞに連絡つけたら直ぐ終りますやん……やのに自分でさはろうとするや、おかしいです。あんな、やり方で」
「拘束されてから時間が経っていたらしいからね……彼等の精神状態を考えれば、長引かせるのは得策じゃないと思ったんだよ」
考える間、すらなくすらすらと1割の真実を含んだ言葉が紡がれる。
「なら、なんで」
納得しない、靱さを持つ声が重ねられた。
「そんな怒ったはるんですか?」
笑みの質は変わらない……が、その奥底に燻る瞋恚を、金と銀の眼は見透かして見据える。
…カールの怒りの正体は、エスパーに対する憎しみ。
弟を、祖父を。そして近しい者達を、カールから奪うのはいつも能力を持つ者達だ。
連なる鎖となる程に度重なった憎しみは、今尚、カールの心を容易に血の色に染め上げる。
人ならぬ、力に酔い溺れ、命の尊厳を見失うならば自身のそれで贖わせよう…誓いの如きは復讐の念。
「……カールさん?」
黙り込んだカールを、ナナシが覗き込んでふと眉尻を下げた。
「……堪忍です。そんな、悲しまんで下さい……」
言って、きゅと肩口に腕を回して抱き付いて来る。
まるで子供をあやすように、背をぽんぽんと叩かれるに、カールは思考から毒気を抜かれて苦笑した。
「兆くん? 私は、泣いた覚えはないのだけれど」
「でも痛そうや」
耳元に近い声が、しんと胸に響く。
「君は、本当に……」
自分でも、知らない心を察するのが巧みだ…容赦なく暴き出してそして、許すのが。
苦笑混じりの思考を言葉にする事はせず、カールはナナシの背に腕を回す。
「話して楽になる事でしたら……ボク、聞くしかでけへんけど」
甘えを促す提案に、カールは緩く首を振った。
頬に触れる黒髪が、艶めいて心地よい。
「……少し、このままで居て貰っていいかな?」
許されたそれを手放す事はせず、カールは救いを両手で強く抱き締めた。
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