|
Cherry blossoms in underground
少女に声を掛けられたときになぜか既視感を感じた。
どこかで会ったことがあったかしら、と首を傾げながら、白神空は昼食のサンドイッチの最後のひとかけらを飲み込んだ。
公園で遊ぶには少々年の行った少女は、空が自分に気付いたのを見てにっこりと笑う。二つ分けに結んだ栗色の髪とくりくりとした目がなんとも愛嬌がある。空もつられて笑顔を返した。
少女は嬉しげな様子で近付いてきて、空の顔を覗き込んで言った。
「ねえ、おねえさんってエスパーなんでしょ?お願いしたいことがあるの」
「……お嬢ちゃん、あたしを知ってるの?」
自分でそう言ってからやはり既視感を覚えて空は首をひねる。
しばらく記憶を探っていると、ようやく以前受けた毛色の変わった依頼に行き着いた。少女の年頃も、どこかとある動物を思わせる容姿も、話の切り出し方まで一緒なのはおそらく……。
「……ちょっと聞いていい?」
「なあに?」
「もしかして、お嬢ちゃん……動物だったりする?」
少女は一瞬動きを止めた後、にいっといたずらっぽく微笑んだ。そして、くるりとその場でターンしてみせる。
「当ったりっ!」
楽しげにリズムをつけてそう言った少女の頭には、いつのまにやら角の丸い耳が二つ。そしてスカートの裾からはふさふさした栗色の尻尾が覗いていた。
「狸だよっ」
少女は得意げに微笑んで耳をぴこぴこと動かしてみせる。
昼間の公園で人が少ないとは言え、全くの無人と言うわけではない。空は慌てて少女を抱き寄せるようにして尻尾と耳を隠す。
「ちょっと、馬鹿っ、見られたらどうするのっ」
空の髪が触れてくすぐったいのか、少女は身を捩って笑いながら頭の上の耳にちょんと触れた。どろん、と言う擬音が似合いそうな白い煙がわずかに立ち昇って、耳と尻尾は跡形もなく消える。
安心して息をついた空の胸に顔を埋めるようにして、少女は無邪気に微笑んだ。
「おねえさん、いい匂ーい」
ぎゅっと空に抱きついてぐいぐいと顔を押し付けてくる。見た目に違わず子供っぽい少女に苦笑しながら、空は少女の頭を撫でた。こんなに可愛らしい子が持ってきた依頼だ。受けないわけには行かない。
「――いいわ。お願い、聞いてあげる」
そう囁くと少女はぱっと表情を輝かせた。
「ほんと?あのね、あのねえっ」
飛び跳ねんばかりに喜ぶ少女を抱きすくめて、空は耳元で囁いた。
「その代わり、おねえさんのお願いも聞いてくれる?」
「おねえさんの……?」
少女は首を傾げる。その頬に手を添えて軽く唇を合わせるキスをすると、少女は目を丸くし、その後で幼い顔に似つかわしくない艶のある笑みを浮かべた。
「お願いって、こういうお願いなの?」
「そうよ。おねえさんと楽しいことしましょ」
少女は笑いながら空の首に噛り付くようにして抱きついて頬にキスをしてきた。快い了承に気を良くして、空はサンドイッチの袋をくしゃりと握りつぶした。
「よう、姐さん。こっちだぜ」
錆びて軋んだ音を立てるドアを開けるとすぐ、馴染みの情報屋が声を掛けてくる。その声に酒場の客たちの視線は入り口に集まり、ある者は空の肢体に下世話な視線を向け、ある者はさして興味も無さそうに自分たちの話題に戻った。
煙草の煙で白く濁った空気の中をかき分けて、空はカウンターの端で飲んでいる情報屋の隣に座った。飲み物を勧められ、適当なカクテルを注文する。
「随分と待たせるじゃねえか」
「まあね。一人で寂しかったの?」
「そりゃあな。姐さんの姿が見えねえと飲んでても張り合いがねえ」
からからと笑い、情報屋は温んだビールを煽った。
「――で、調査の件だけどな」
音を立ててジョッキをカウンターに置くと共にビジネスが始まった。情報屋の目つきが鋭いものへとすりかわる。結果だ、と差し出された幾枚かの書類に軽く目を通し、空は顔をしかめた。
「……随分悪どい会社ね」
「ああ。そのスジの奴らがバックについてるらしくてやりたい放題さ。姐さんが調べろって言った洞窟も、登記書からして騙し取ったようなもんだしな」
「…………」
書類に記された華々しい悪行の数々に、空は思わずため息をつく。
この悪徳業者が少女達の――狸の住む洞窟とその周りの土地を買い占め、大規模なボーリング作業を開始した。温泉でも出るらしく、老若男女楽しめる一大テーマパークを建設するらしいが、狸たちにとっては迷惑千万な話である。そこで、その業者を何とか追い払って欲しいというのが今回の依頼だった。
人間と言うものは他の生き物の縄張りを侵さずに生きていくことの出来ない生き物なのだろうか。全く、罪深い。
空の思考を情報屋の呑気な声が遮る。
「しかし、業者を立ち退かせるだけとはね。姐さんらしくない仕事じゃねえか」
「そうかしら」
そうだよ、と情報屋が笑ったときに、空の注文したカクテルが運ばれてきた。血のような赤色をしたその液体を一舐めし、空は赤い唇を微笑ませる。
「依頼人がね、可愛い子だったのよ」
笑う空に情報屋は呆れたように眉尻を下げる。姐さんらしいと苦笑する情報屋に書類を返し、空は言った。
「でね、もう一つ頼みたい仕事があるんだけど」
「……ん?」
「この会社を適当に告発しといてほしいの。そうねえ……公安当局が一番手入れが早いわね。そこにお願い」
さらりと吐かれた台詞が不可解だったのか、情報屋はぽかんと口を開けてまじまじと空を見つめた。
「告発しろっても……証拠がねえじゃねえか」
「叩けば埃が出るような会社でしょ。いくらでもでっち上げようがあるじゃない」
楽しげに笑う空とは対照的に、情報屋はがしがしと頭を掻いてカウンターに肘をついた。重苦しいため息が漏れる。
「出来なくはねえけど……情報屋の仕事じゃねえな……」
迷う情報屋ににじり寄ってぴたりと身体を付け、空は耳元に息を吹きかける。
「報酬は弾むわよ。……言い値で払うわ」
「………」
情報屋はちらりと空を見て、今しばらく迷って視線を彷徨わせていたが、ようやく決心したのだろう。ぱん、と音を立てて膝頭を叩いた。
「……よし、他ならぬ姐さんの頼みだし、何とかするよ」
「ふふっ、ありがと」
ちゅ、と音を立てて情報屋の頬に口付け、空はカクテルのグラスを手にとって中身を一息に飲み干すと席を立つ。去り際に情報屋にひらひらと手を振って、酒場から出て行った。
情報屋に一仕事頼んだ翌日にはもう、空は件の会社にいた。
忍び込んだわけではなく、きわめて合法に会社の内部に潜り込んだのだ。何のことはない、用心棒として雇われたのである。悪徳業者らしくと言うべきか、その筋との揉め事もしょっちゅうあるようで、空がエスパーだと知るとさして素性も調べずに喜んで雇い入れた。
雇われて数日のうちに空が働く機会がもう何度かあったことからしてもまともな会社ではない。社員も、サラリーマンと言うよりはその辺りのゴロツキと言った方が通りが良さそうな者ばかりだ。
本日何度目かの会社周りの見周りを終えて休憩室に戻り、安っぽいパイプ椅子に腰を下ろして空はため息をついた。ここ数日の間に例の登記書のしまい場所も見当が付いた。後は公安の捜索が入るのを待つだけだ。いい加減、ガラの悪い社員達にもこの狭い休憩室にも飽き飽きしている。
うん、と小さく声を上げて空は思いきり背伸びをした。そのとき丁度部屋に入ってきた用心棒仲間の男が、猫のように伸びた空を見て堪え切れない風に噴き出す。
「暇そうだなあ」
「暇よ」
空はそう言って肩をすくめる。男は少し考え込む素振りを見せた後で、にやつきながら空の隣にどかりと腰を下ろした。空の肩を抱き寄せるようにしてその耳に囁く。
「いいこと教えてやるよ。この会社、そろそろヤバイらしゼ」
空の眉が僅かに吊り上がる。
「……ヤバイって、どういうこと?」
神妙な顔で尋ねると、食いつきがよく満足したのか、男は途端に饒舌になる。
「まぁ判るだろうけど、大分スレスレのことばっかやってるだろ?それに公安が目をつけたって話。二、三日中に手入れ食らうらしいぜ」
だから俺は今日で辞める、と、男は空の顔色を窺うように言葉を切った。空はぎゅっと眉をしかめて疑わしそうな顔を作る。
「何でそんなこと判るのよ」
「友達に公安の人間がいてな。ま、信じないならそれでもいいが」
俺は面倒ごとは御免だ、と男は呟いた。そして言うだけ言ってすっきりしたのか、やけに晴れ晴れとした表情で席を立つと部屋を出て行った。
男がいなくなって部屋に一人になると、空の口元には自然と笑みが浮かんだ。どうやらことは空の思惑通りに運んでいるらしい。
そして男の言った通り――正確にはその翌日に、前触れもなく公安のロゴの入った何台もの車が社屋の前に止まり、捜査員達が次々と社内に乗り込んできた。一般社員たちは呆気に取られておろおろと歩き回っている。流石の幹部達もこの情報は全く得ていなかったらしく、ただ呆然と立ち尽くすのみだ。
そして空はと言うと、捜査員の目を盗んで例の登記書がしまわれている金庫がある部屋まで忍んで行き、金庫の中身をチェックしていた捜査員に当身を食らわせた。そして目的の書類を手に入れると、天舞姫に変身して窓から悠々と飛び去ったのである。
空を舞いつつ、簡単な依頼だった、と空は笑みをこぼした。
少女と落ち合う場所は、彼女らが住処にしていると言う件の洞窟の前だった。ちょこんと切り株に腰掛けて待っていた少女は、空の顔を見るなり嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「はい、終わったわ。もう大丈夫よ」
そう登記書を渡したが、少女はきょとんと首を傾げただけだった。難解な単語が多いので理解できないらしい。この書類があればもう悪い人間はやってこないのだと教えると、少女は感激したように空に抱きついてきた。
そして、それと共に、
「やったぁ!」
「これで平和が戻る!」
そう口々に叫びながら、周りの薮やら木の陰から大量の狸が走り出てきたのだ。二本足で立つ狸たちの姿に驚いていたら、瞬く間に周りを囲まれる。
「ばんざーい!」
一際大きい狸の一声に続いて万歳万歳と声が上がる。狸たちは皆嬉しそうに笑い、空の周りをぐるぐると駆ける。
「めでたい!」
「宴だ!」
「宴会だ!」
狸は口々にそう言うと、一斉に洞窟の奥目掛けて駆け込んでいった。
「……随分と陽気なのね」
狐と違って、と言う言葉は飲み込んだが、空が少々呆れているのは少女に伝わり、少女は照れくさそうに空の袖を引っ張った。
「狸だから。……あのね、それより、おねえさんも宴会に出てよ」
「いいの?」
「もちろん。だっておねえさんのおかげだもん」
ついて来て、と身を翻した少女について、暗い洞窟の入り口を潜る。
入り口からしばらくは立っても歩けるほどの高さと幅があったが、すぐに天井は低くなり始めて身をかがめなければ通れないほどになる。少女はいつの間にか本来の狸の姿に戻っていたので楽々と進んでいくのだが、既に空は四つん這いにならなければ進めないほどの狭さになっていた。
しぶしぶと膝を突き、空は頭をぶつけないように狭い洞窟の中を進んでいく。一番狭い部分をどうにか抜けると、明るい空間が広がっていた。高い天井には一部穴が開き、そこから眩しいほどの光が降り注いでいる。
「うわぁ……」
空は眩しさに目を細めつつ、空洞の中央部にそびえた大木を感嘆のため息と共に眺めた。満開の桜なのだ。崩れた天井から時折舞い込む風が枝を揺らす。ひらひらと、一枚の花びらが空の目の前まで舞い降りてきた。
「綺麗ねえ……」
思わず空が呟くと、少女はそうでしょうと得意げに胸をそらす。
「この桜は一年中咲いてるんだよ」
温泉が沸くというくらいだ、地熱とミネラルには事欠くまい。養分過多と、加えて放射能等の影響もあるのだろう、この狂い咲きには。
しばらく見惚れていると、つんと袖を引かれた。視線を落とすと少女がにこにこと笑って、素焼きの器に入った酒らしきものを差し出してきた。
「なあに、これ?」
「桜のお酒。蜂蜜で甘くしてあるんだよ」
一口飲むと優しい甘さが舌を覆い、二口飲むと桜の香りが清々しく鼻に抜ける。さっぱりとした旨い酒だった。狐の果実酒といい、動物は酒を作るのが旨いのだろうか。
旨い酒と綺麗な桜ですっかり上機嫌になった空は、次々と運ばれる酒を片端から飲み下していく。狐の宴と違って目立った芸はないが、はらはらと散る桜はそれだけで十分な肴だ。狸たちも皆楽しげに笑い、時には踊りだすものもいる。
狸たちと談笑し杯を干しているうちに酔ったのだろうか、空は身体が火照りだすのを感じて杯を置いた。隣にいた少女が怪訝そうに空の顔を覗き込む。
「おねえさん?」
「……なんだか、すごく暑いのよ……」
そういう空は少々目の焦点が合っていない。暑い暑いと身を捩り、ついには上着のボタンを外し始めてしまった。狸たちは困惑して尻尾を逆立てる。
「暑いの……」
「ちょ、ちょっと、おねえさん?」
いきなり抱きつかれて少女は戸惑った声を上げた。空は眠たそうなとろんとした目で少女を見つめ、妖艶に微笑んだ。
ある一匹が空の飲みかけの杯に目を留める。
「……人間にはあんまりよくなかったかなあ」
「かもしれないね……」
桜蜜酒には隠し味にほんの少し茸を混ぜてあるのだが、それがどうやらおかしな作用を発揮したらしい。
上着を脱ぎ捨てて肌を惜しげもなく晒し、少女を押し倒して濃厚なキスを仕掛けている空を横目に、狸たちは顔を見合わせて首を傾げた。一体どうしよう、と言う雰囲気が漂うが、一匹の狸が呑気に言う。
「まあ、一緒に楽しむかぁ」
「………」
一瞬の沈黙の後、わあっと声を上げて狸たちは宴を再開する。あるものは飲み、あるものは歌い踊り、あるものは空と少女の交わりに混ざるべく人に化ける。
ますます盛り上がり始めた饗宴を余所に、桜はただはらはらと花びらを散らせていた。
|
|
|