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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


Trick or Memories


 一人の青年が、プラハでもあまり治安の良くないとされる地域、所謂スラムを疾走する。
 癖の無い漆黒の髪は毛先だけが色薄く、建物の隙間から覗く夕陽に透ける。両の瞳は色を違え、片や金、片や銀と貴石の如く面を飾る。均整の取れた体躯が、地を蹴り飛ぶように疾駆する姿は、人目を引く。
 周囲の視線を集めているとも知らず必死の様子、サイバーの特色を最大限に生かした俊足で所々鋪装の剥げた悪路を物ともせずに往く。
 やがて、目的の場所、その中へと到る扉を見付けて飛びつくように開いた。
 ハーフサイバーである彼の主治医の診療所だ。
 入って直ぐに細く真直ぐな廊下がある。普段なら二歩の所を一歩で、右手にまた扉。それへも飛びつき勢い良く押し開ける。
「カールさん、デートしませんかッ!?」
 言い様、室内に居た人物に両手で差し出したのは移動サーカスの広告。質の悪い紙に二色刷りの広告では、ピエロが綱渡りや空中ブランコ、玉乗りをする動物を背景に、手招きをしている。
 青年にデートへと誘われた診療所の主、カール・バルクは青年と広告とを見比べて、医療器具の乗ったアルミのプレートを診察台に置いた。
「兆くん? 仕事だったんじゃないのかい?」
「ミッションやったら終わりました! 帰りにこれ貰たんです」
 青年、兆ナナシは子供の様に頬を上気させ、午後の診療を終えたらしいカールの傍へと駆け寄る。
「急げば未だ間に合いますし。カールさん、今日はもう終わりですやろ?」
 言うが早いかナナシは勢いに押され気味なカールの腕を掴み、力に任せて引き摺るように扉へと向かう。
「兆くん……」
 戸惑うような声にナナシはカールを見上げた。
「……行きたない、ですか……?」
 途端に萎れる笑顔に、カールが首を振る。ナナシの頭に手を置いて、柔らかく撫でた。
「そうだね。ちょうどこの後は予定も無い事だし。折角の君の誘いを断る手も無い……行くよ」
 穏やかに微笑んで言うカールに、ナナシは再び破顔して、急ぐべく足を踏み出した。


 二人が駆けるようにして急ぎ辿り着いたのは、移動サーカスの開かれている広場である。『審判の日』以前は賑やかな一帯だったが、面影はまるでなく、荒れるに任せた結果広大な空き地となっていた。
 そこに目を付けたのか、空いた土地を生かして設置された移動サーカスは、中央に大きなサーカスのテントが、周囲にも小さなテントや、簡易に作られた建物がある。そのどれもが陽気な色合いで日の沈んだ暗い空の下でもライトに照らされ、尚明るい雰囲気を浮き上がらせて訪れる人々を視覚的に誘う。
「わぁ、面白そうや」
 聴覚を刺激するのはテンポの良い音楽。古いスピーカーが流しているであろう音楽は時折掠れ、大きく小さくゆったりと音量を変える。
「ノスタルジックな光景だね」
 走り出しかねないナナシの手に引かれて、カールが呟く。
「何処から見たらええやろ……」
 きょろきょろと辺りを見回すナナシは前方に立つ姿に目を止め、カールの腕を引いた。
「ん?」
「カールさん、あれ」
 ナナシの指差す先でピエロが帰って行く親子に手を振っている。
「これとおんなじ格好してはりますね」
 片手に握った広告を開いて、ナナシはカールにイラストのピエロを示す。
「ああ、そうだね。彼ならここについて詳しいだろう。聞いてみようか……ここで待っておいで」
 肯くナナシに微笑んで、カールがピエロに歩み寄る。
 ナナシはカールがピエロと話すのを見ていたが、体に何かが触れた感触がして振り返る。
 足元に小さな少女が風船を持って立っていた。ナナシに触れたのは少女が持っている風船だったらしい。目の前に揺れる赤い風船を指先で軽く突くと、ふわりと揺れた。
 少女は大きな青い目でナナシを見上げる。
「どないしたん? お母さんとはぐれたん?」
 片膝を付き視線を合わせて問えば、少女は瞳を瞬かせて笑った。ナナシもつられて笑う。
「あら、駄目よ」
 声に顔を上げれば少女と良く似た面差しの女性が近付いて来る所だった。
「ごめんなさいね」
 女性はナナシに頭を下げて自分に差し伸べられた少女の小さな手を握る。ナナシは首を振った。
「ママ、おにいちゃんのめきれいね」
「目? ……あ」
 言われて女性がナナシの顔を見、黙る。
「……そうね、綺麗ね」
 ほんの少しの沈黙の後、母親は少女を出口の方へと促して言う。
「本当に、ごめんなさいね」
「いえ、気にせんで下さい」
 母親の、繰り返された謝罪が、自分の瞳の片方がサイバーアイであるのに気付いたからであると判って、ナナシももう一度首を振った。
「綺麗て、言われるん、嫌やないんやけど」
 母子が去って行くのを見送って、ナナシは呟く。
 サイバーアイであると言う事は、元の瞳を負傷したりなどして失っていると言う事だ。
 ナナシは他人が自分を見て思う程、自分の瞳がサイバーアイである事に特別な感情を抱いた事はない。
 ナナシの瞳を好きだと囁く声を思い出した所へ、その声の持ち主がナナシを呼ぶ。
 顔を上げてカールを見れば、苦笑気味だ。
「カールさん……?」
「兆くん」
 カールの苦い顔に、ナナシは首をかしげる。
「残念だけど……、今日はもう仕舞いらしい」
「仕舞いて……えぇッ?! やって、広告……」
 ナナシは慌てて手に持ったままの広告をあらためる。
「今日は最終日だから、早仕舞いをするそうなんだ」
「あ……、今日最後の日やったんです、か……」
 次第に語尾が力なく消えて行く。見る間に落ちる肩にカールが手を置く。
「何処かで美味しいものでも食べて行こうか。お腹が空いているだろう?」
「――はい。仕方、ないですよ、ね」
 慰めるように叩く手は暖かい。だが、楽しみにしていただけに落胆は大きく、ナナシはカールの言葉に笑おうとするが、うまく行かない。
 移動サーカスがどんな物なのか、ナナシは趣味で集めている映画のディスクの中でしか知らない。映像の中でそれは、きらきらと光と鮮やかな色を振り撒いて、子供達の笑顔と喧噪に溢れた場所だった。
 遠い、映像の中でだけ出会える世界と思っていた――それが、自分が居る現実に現れた……突如として降って来た幸運に、どれだけ胸が高鳴ったか。
 不覚にも涙が滲みそうになり、ナナシはカールの袖を掴んだ。
「行こう、兆くん」
 ナナシは無言で肯く。顔を上げればカールが優しい笑みで迎える。
 ――なんや、小さいお子みたいですやん。
 急に気恥ずかしさが昇って来て、ナナシは視線をカールの背後へと逸らした。
 施設の撤去作業が始まっていた。忙しく立ち働く人々を背景に、満足に表情を浸した客が疎らに見える。
 ――カールさんに、悪い事してしもた。
 自分の沮喪が一段落すれば、今度はカールに対する申し訳なさが浮上してくる。
 一日の仕事を終えて、疲れている所を無理に引っ張って来たと言うのに徒足を踏ませてしまった。
「カールさん」
「兆くん」
 詫びようと上げた声に、カールの声が重なる。
 見ればカールが小さく指差している。指先を目で追えば、先刻のピエロが立っていた。どうやらこちらを見ているようだ。
 口の周りに塗られた赤い染料がくっきりと笑いの形を作る。 
 ピエロは手袋をした白い手で、二人を招く。その姿はまるで広告の絵から抜け出た様に。
 手招きながら少しずつ後ろに下がって行く。
「来い、ゆう事ですやろか」
「……そのようだね。行ってみようか」
 カールの背を押す手を感じながら、ナナシはピエロの手招きを追った。


 ピエロは、一つの建物の前で止まった。
 カールが入口に掲げられた看板の文字を読む。
「ミラーメイズみたいだね」
「ミラー……メイズ?」
「その名の通り、鏡で出来た迷路だよ」
「シーッ」
 それまで無言でいたピエロが、二人の会話に割り込む。
 厚い白手袋をした人さし指が上がり、真っ赤な唇の前で「静かに」と立てられた。
 注目を集めたピエロは首を竦めて辺りを見回してから、何時の間にやら手にしていた蝋燭の載った燭台をナナシに手渡し、また人さし指を唇の前に立てる。今度は「内緒」の意らしい。そして、二人の背を押し始めた……ミラーハウスの中へと。
「……内緒で入れてあげるから、早く行きなさい、と言う事らしいね」
 殆ど言葉を口にしないピエロの意を汲んでカールが代弁する。
「……おおきに」
 にこにこと二人を見送るピエロに、ナナシは小さく礼を言い、カールと足早に中へと入った。


「外から見るんとちゃいますねぇ。もっと狭いか思うたのに」
「そこがミラーメイズの面白い所だよ。単純な作りのようでいて、その実鏡の設置は計算されているものだから」
 壁の全てが鏡で出来ている。ミラーハウスが何たるかを、ナナシは以前に見たムービーディスクで知ってはいたが、実際に自分が体験してみるとそれは予想以上に不可思議な光景だった。
 鏡同士が向き合ってそれぞれを映し、しかもそれが単純に向き合うものでないが故に、幾つもの虚像が連なっている。しかも鏡は全てが実態をそのままに映すのではなく、姿を長く伸ばしたり逆に縮めたりなどして歪めるものや、表から見れば硝子のように向こうを透かし裏から見れば鏡になっているマジックミラー等が混ざり、更に視覚の混乱を誘う。
 明かりと言えば蝋燭の炎以外には殆どない暗い中、鏡が映し出す室内は確かに迷路だった。
 ナナシは天井を見上げる。そこにも鏡片がタイルのように敷き詰められている。足下は流石に鏡ではなかったが、黒く塗られて、所々に蛍光塗料で小さな星形が描かれていた。星がぼんやりと光を放ち、それが天井に映る。蝋燭の光、蛍光塗料の淡い光が細かい鏡片に無数に映り込み、星空の下に居るようだ。
「キレイや……」
 ナナシはほう、と溜息を付いて見入る。
 瞳を下ろせば四方に自分を映し出す鏡が並び、果てを感じさせない広がりに、引き込まれるよう。
 何枚もの鏡の内、一番近いものにナナシは手を触れさせた。鏡の中の自分が同じく動く。手を横に上げて振れば、やはり鏡に映った自分も奥の奥まで全く同時に手を動かす。
 鏡の前で色々な格好をしてナナシははしゃぐ。
「こういう迷路は元々照明をある程度落とすものだけれど……ここまで暗いと出口を捜すのは難しいね」 苦笑するようなカールの声が遠い。
 ――遠い?
 ナナシはすぐ隣に在った筈のカールの声が遠く感じた事に驚く。
 慌てて振り向いて、カールの姿を捜す。直ぐに然程離れていない後方に金の髪の長身を見付け、ほっとして手を伸ばす。
「……あッ」
 手は鏡に阻まれてカールには届かなかった。マジックミラーだ。
「カールさん!」
 名を呼ぶが、カールは聞こえていないのか奥へと進み、姿を消した。
「あ!」
 カールが姿を消したとほぼ同時、手にしていた蝋燭の炎が消えた。
 ただでさえ暗かった内部が、闇に沈む。
「は……ぐれてしもた?」
 呟きが声になると、急に不安になった。小さい呟きが妙に響いて聞こえたせいもあるだろうか。
 蝋燭の炎が消え、暗い部屋――鏡に閉ざされた空間。
 深い穴のように幾つも連なる鏡に、ディスクで見た映画が思い出される。
 恋人達が閉館間際の遊園地でミラーメイズに足を踏み入れる。
 二人ははぐれ……一人は閉じ込められる。恋人を呼ぶが、相手は構わずに行ってしまう。
 ――自分を置いて。
「な、何考えとんのや」
 ナナシは首を振った。
 鏡のせいで出口が無いようにも見えるが、外見の通り実際はそれ程広くはないし、蝋燭が消えたとは言え、全く明かりが無いわけではなく、出口は必ずあるのだ。閉じ込められて出られないと言う事など有り得ない。
 しかもカールがナナシを置いて一人で迷路を出て、帰ってしまう等と……。
 否定しかけて思考が止まる。
 ――カールさん、怒ったはる?
 カールからすればミラーメイズなど子供騙しだろう。サーカスやパレードならまだしも、碌に明りも無い、せせこましい迷路に連れ込まれて、挙げ句にナナシとははぐれ――。
 カールはいつも優しい。ナナシが何を言っても、大抵は笑って赦してくれる。
 滅多に不機嫌になったり、怒ったりなどしない。
 カールの表情を思い出そうとすれば、浮かぶのは穏やかな笑顔ばかりだ。
 だが、こんな時でも笑っていられるものだろうか。
 そこまで考えてナナシは再び首を振る。
「カールさん、捜さんと」
 ナナシは手にした燭台を握り締めて、鏡に衝突しないように手を伸ばした。


 迷路は思った以上に複雑だった。通路は広くなったり細くなったりと法則が無く、ここだ、と踏み込めば袋小路、あれはと手を伸ばせばまた鏡。
 時折カールがナナシを呼ぶ声がする。だが、どういう仕組みか声は辺りに反響して、何処から聞こえているのか判り難い。
 何とか聞き分けて、声を頼りに進んでも突当たり、カールの金髪を見たと思って追っても行った場所にカールの姿は無い。
「ほんまに迷路なんやなぁ……」
 途方に暮れて辺りを見回すが何処をどう歩いて来たのかさえ判らない。カールを見失った事で動揺したせいか、冷静に周囲を観察して動く事が出来なかった。これがミッション中ならナインスメンバーとして失格である。
 ナナシはエヴァーグリーンの平和条約巡察士としてピースメイカー・ナインス部隊に所属している。
 野盗等の犯罪者の監視や、捕獲、難民の救助等数々の任務をこなした。命に係る危険も多くあり、ナナシはこれまでにその危険を幾多潜り抜けて来た事か。
 それに比べれば、命の危険どころか怪我一つする怖れもない迷路の中で迷子になるとは。
 しかも、自分でも正体の知れない不安に捕われている、などと。
 ――皆が知ったら笑うやろか。
 隊長を始めとする、隊員の笑う顔が浮かぶ。いつもならそれだけで自分も笑えたろう。それくらいの余裕は取り戻せる、筈だった。
「……ッ!」
 消せない不安に任せて、ナナシは左手を壁に打ち付ける。
 壁――鏡は、破砕音と共にナナシの手を中心に罅を幾重にも走らせた。
「あ、あかん……ッ!」
 感情の高鳴りに、一瞬鏡だと言う事を失念していた。慌てて割れた鏡に張り付く。
「どないしょ、粉々やん!」
 鏡は無惨に細かな罅で覆われていた。ひび割れる事によって出来た鏡片がそれぞれにナナシを映す。
「……え?」
 鏡片の内の一枚が、自分と違う格好をしているのに気付く。
 ナナシの色違いの瞳……生身の、金の瞳が光を受けるように揺らめいた。
 視線が、動く。
 何かを示すように。
 ナナシは鏡の中の自分が示す先を見る。
「……あ」
 ずっと捜していた姿が、少し先の通路を横切ろうとしている。
「カールさん……!」
 ナナシは持ち前の瞬発力を発揮して、カールに飛びつく。
「見付けたぁ……ッ」
「兆くん!」
 しがみついて背に顔を押し付けるナナシに、カールの安堵の声が降る。
「良かった。こんな所に居たんだね」
「……、あかん、ですやん。はぐれたら」
 涙が滲んで来るが、止められなかった。自分の涙声を自覚しながら、ナナシは一層強くカールに抱き付く。
「君が私を置いて先に行ってしまったんだよ?」
 苦笑するような声は、だが優しかった。労るように背を摩る手も。
「さぁ、出ようか。あんまり遅いからピエロも心配しているかも知れないよ」
 ナナシは頷く。先程までの不安は消失していた。
「それにしても本当に良かった」
「何です?」
「いや……君が、私を置いて出てしまったのかと思って」
 カールの言葉にナナシは僅かに背を硬くする。
 それは、ナナシも思った事だ。
「そんなん、あるわけないですやん」
 ナナシの素っ気無い声に、そうだね、とカールはくすくすと笑う。
「こんな場所だと、抱えている不安が露呈するものなのかな」
 ナナシが真意を問おうとした所へ、出口の明かりが見えた。
「ほら、迷路の終わりだよ」
 急速に光を取り戻した視界に目を細めるカールを見上げ、ナナシは問いを飲み込んだ。


 迷路から出た二人を出迎えたのは先程のピエロだった。
「早仕舞いの所を、済まなかったね……遅くなってしまったし」
 カールが詫びるが、ピエロはにこやかに首を振った。気にするなと言う事なのだろう。
「あ……鏡」
 ナナシは迷路の中で割ってしまった鏡を思い出す。
 詫びて、弁償をしなければ、とピエロに呼び掛けようとした所に、ピエロはかくんと戯けたお辞儀をした。
「興業、最後のお客様へ」
 殆ど喋らなかったピエロに気を取られ、声を失ったナナシに、ピエロがすい、と身体を横に退く。
 手を上げて指した先には闇の降りた場に、光を撒く回転木馬。
「夢の終わりに、ひと廻り」
 歌うように言って、ピエロはそのまま電池が切れたように動かなくなる。
「懐かしいね。どうせだから乗って行こうか」
「え、でも」
 鏡の事も言ってないし、と言う間もなくカールがナナシの手を引く。
「大丈夫。ピエロならきっと待っていてくれるから」
「……そうですね」
 ミラーメイズを出た時も出口で待っていた。最後の客を送り出すのに、待っていなければならないのだろう。
 ナナシは色と光りの洪水に瞳を細めながら、装飾の施された木馬に手を掛けて、身軽に跨がる。
 カールはすぐ後ろの木馬に乗ったようだ。振り返れば、跨がらずに横座りに足を組んでいる。
「カールさん、危ないやないですか、そんな乗り方」
「仕方がないだろう。私のこの衣服は跨がるのには向いてないんだから」
 カールはUMEの人々のように丈の長い衣服を着ている。
「それに、そんなに早く回るわけじゃないからね」
 それもそうか、と納得した所に木馬が動き始める。
 ゆっくりと上下する木馬と、回転する土台。
 木馬に乗っていると天井や壁の照明で眩しい程に明るい。転じて見れば回転木馬の周りは既に他の施設の撤去が殆ど終わったのか、夜に閉ざされたように明かりは少ない。
 それでも未だ消されずにぽつりぽつりと点るライトが、撤去に動く人々や、残された資材を暗く照らすし、動く木馬のせいでそれらが闇に揺らめいてゾートロープを思わせる。
 ナナシは光景に目を奪われて、言葉もなく木馬に揺られていた。


 木馬が止まり、二人が降りてピエロの姿を捜せば、そこにはピエロが胸に挿していた薔薇が置いてあるだけだった。


 移動サーカスへ行った日から数日後。
 ナナシはカールの診療所に定期検診に訪れていた。
「結局弁償せんままやったんですけぃど、ええんやろか」
 ピエロは見付からず、他の人間に鏡が割れた事を伝える事も出来なかった。
 他の人間に出会った途端、終わりだからと出されてしまったのである。
「……それなんだけどね、兆くん」
「はい?」
 カールは神妙な顔つきでナナシに一枚の紙を渡す。
「これ、サーカスの」
「そう、施設のマップ。移動サーカスの割には、規模が大きかったようだね」
 サーカスのテントの周りには幾つもの施設の名前が記されている。
「あれ」
「気付いたね」
 カールが検診の為の用具の準備の手を止めて頷く。
「ミラーメイズが、ない?」
 マップの何処にも、二人ではぐれた迷路の名はなかった。
「最終日だけあった、と言う事もあるのかも知れないと思って、あの日にあそこへ行った患者が居たから話を聞いてみたんだけれどね……」
 移動サーカスが訪れる機会など滅多に無い。故に最終日にも遊びに行った者は多かったらしく色々と話を聞けたのではある、が。
「誰も見ていないって言うんだよ」
「入ってないんやなくて、見てへんて?」
「そう」
 入らなかったと言うなら判るが、見ていないと言うのは。
「広かったから見んかったゆうわけや……ないですよね」
 珍しい興業に訪れたなら隅から隅まで見て回るだろう。話を聞いた中で一人くらい見ていないと言う者があるなら不思議も無いが、全員が見ていないと言うのは。
「ハロウィンには未だ早いと思うんだけれどね」
「悪戯……ゆうには派手やないですか」
「うん」
 たまたま最終日に突然施設が追加されたと言う事もあろう。たまたま話を聞いた人間が見落としていたと言う事もあるだろう。
 だが今一つ得心が行かない。
 ――それでも。
「……やけど、楽しかったですし」
 はぐれたり、不安な思いはしたけれど。
「そうだね」
 二人で同じ場所。そこで見たもの。感じた事。一人ではなかったから、決して嫌な思い出にはならない。
「それに」
「それに?」
「割ってしもうた鏡、弁償せんで済みました♪」
 嬉しそうに言うナナシに、カールが吹き出した。


――終