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<東京怪談ノベル(シングル)>


「悲哀の狭間で」


それは静かな秋の夜だった。
ささやかなすすきが風に鳴る音、肌を冷やす空気、そして、痛みを伴うこの稼業。
森杜彩(もりと・あや)は、唇を噛みしめて、全身を石のように固くした。
苦しみに歪む表情で、荒い息と共に、自分に覆い被さる中年のこの客は、それでもどこか快楽を追うようで、目をそむけながらただ耐えるだけの彩には、それすら拷問のようだった。
今日の客は、何かに祟られたと、そう言っていた。
見立てたところ、都会の急激な建設事業の一環で、祀られていた社を知らず知らずのうちに壊され、焼き払われてしまった神馬が男に取り憑いていた。
神馬の怒りは尤もで、この世界を我が物にしようと思っている人間の所業すべてが、憎悪の対象になっているようだった。
こうなってしまっては、新しい社を造ったところで、その怒りは解けまい。
この男はその先駆者だった。
強引な地上げと詐欺に近い土地の買い占めの果てに、神の住む神聖なる場所まで穢してしまったのだ。
人間より遥かに昔から、この世界にいたものの住処を。
「ど、どうか・・・どうか、お願い致します〜〜〜」
情けなく男は畳に頭をこすりつけ、彩とその父に懇願した。
父は無言でひとつだけ頷き、顎で彩に行け、と命じた。
拒むことなど出来るはずはなかった。
客の夜伽をすることで、祟りを浄化し、正常な状態にその怨念を糾すこと、それがその行為の目的だった。
だがまだ若干18歳の彩の細い身体に与えられるむごい仕打ちは、本人の心をも傷付けていく。
何も感じまい――――そう思いながら早幾年。
こんなことばかり続けていれば、いずれ身体も心も壊れていくのではないかと、そう思っていた。
いっそ。
(壊れてしまえばいいのに・・・)
そう願うことも多かった。
そうすれば、胸の奥に秘めたこの想いを、誰にも知られることなく夜の闇に沈められるのに。
それが、彼女にしては珍しい、油断の瞬間だった。
はっと目を見開いた時には遅かった。
男の身体から、真っ白な翼ある馬が姿を現すところであった。
構えるより早く、その馬の瞳が昏く輝いたのをまともに瞳に吸い込んでしまう。
ふうっと意識が消え入るのを許さず、激しく打ち鳴らす耳障りな音が、頭の中で響いた。
『貴様の身体、貰い受けたり!!』
哄笑が辺りに反響する。
「いやああああああーーーーーーーー!!!」
耐え切れず、彩は絶叫した。
もはや目の前の男は人間の形をしていなかった。
変形された馬と人の間のような形を成していて、その下半身が彩の体と溶け込んでいる。
『魂までも啜ってやろう・・・恐怖と絶望に慄き、叫ぶがいい!!』
ぐにゃりと彩の身体が歪んだ。
彩はまた絶叫した。
体の骨を無理矢理すべて入れ替えられるような恐ろしい激痛に、もう耐えられなかった。
手は馬のひづめを持ったモノへと変化し、全身に白い毛が生え始める。
背中からは鮮血がほとばしり、バキバキと音を立てて、真っ白な翼が生えてきた。
「やめてーーーー来ないでーーーーーー!!!」
『わはははははは!!!』
高らかに笑い声が彼女を襲う。
だが、彼女は気付いてしまったのだ。
その声が、自分の口から発せられていることに。
今日の浄化は失敗だ。
しかも、自分のせいで。
涙にぬれたその目が、助けを求めて障子の向こうへと投げかけられたその時。
静かに静かに、それは開けられた。
「お、兄様・・・?」
彼女が間違うはずはない。
その月を背にした神々しい姿は、紛れもなく彼女の義兄だった。
涙がそっと頬を伝う。
だがそれすら、白い馬の毛に阻まれ、床にまで落ちきることはなかった。
「どうか・・・私ごと・・・討って・・・下さい・・・・」
半分息のような声で、彩は義兄に訴えた。
身体は醜く変化を続けている。
こんな姿を見られていることにさえ、あまりの恥辱に胸が張り裂けそうだった。
兄にはこんな自分を見られたくない、そう思って、すべての願いをこめて、兄を見上げた。
兄は、何も言わずに自分を見下ろしている。
ただ、湖面のように静かに。
ああ、と彩は思った。
こんな時でも、自分は兄のおもちゃに過ぎないのかと。
自分が自分でなくなるその姿まで、兄はその目で見つめている。
こんな、道具のような立場にも、もう疲れてしまった。
このまま生きて行ったとしても、兄にとっては永遠に妹でしかあり得ない。
この想いを打ち明ける日は、一生来ない。
それだけならいい。
兄がひとりである間は。
だが。
その横に誰かが現れたら。
兄の隣りで微笑む、幸せそうな女性がそこにいたら。
彩の瞳から、また涙が落ちた。
ならば。
彩は4本の足となった両手両足でゆらりと立ち上がった。
「討って・・・くだ・・・・っ?!」
ガン、と頭を殴られたかのような衝撃が彩を襲った。
前足を高く掲げ、荒い息を繰り返し、自分の意志とは関係なくいきなり自分が兄に襲い掛かったのだ。
「や、やめてえええええ!!」
叫んだつもりだった。
だが、喉から出た声は声ではなかった。
しわがれた馬の鳴き声だった。
彩は泣きながら兄に向かって走り続けた。
この前足の一撃で、兄の身体は壊れてしまうかも知れない。
兄のいないこの世界など考えられなかった。
「いや・・・いや・・・いやああああ!!!」
その時だった。
静かな瞳でこちらを見つめていた兄が、す・・・っと何かを胸元まで引き上げた。
精巧な彫金を施した朱塗りの弓である。
そこに、緩やかに一本の矢をつがえる。
キュイイイ、と引き絞り、彼は風を撫でるように優しく、その弦を放した。
それは自分の元を目掛けて飛んで来る。
それを見、彩は心の底から安堵した。
(感謝・・・します・・・)
そうして、命の終わりを信じ、目を閉じた時。
ふわりと身体が軽くなるのを感じた。
何かが身体から引き剥がされ、絶叫が聞こえた。
だがそれも、夢の中の出来事のようだった。
遠く遠く、遥か向こうで、音も光も閃いては消えていく。
「もう、大丈夫だよ」
耳元で、甘い優しい声がした。
さらわれていく意識の向こうで、残った力を集めて少しだけ瞳を開くと、そこにはいつもより数段優しい瞳があった。
「ゆっくりおやすみ」
彩は少しうなずいた。
助かったのだ・・・それも、兄の手で。
温かい兄の腕の中で、ほんの一瞬の至福を感じ、彩は深い深い眠りの世界へ旅立ったのだった――――