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<東京怪談ノベル(シングル)>


− 二人だけの時間 幸せの刻 −


 くすんだ青い空に浮かぶちぎれ雲。見上げた空はすっかり夏の色を失い、人の声が減ったこの辺りの静けさはもう秋だと知らせていた。そして夏よりも高くなった波。その音が今はただ、静かに響き渡っている。
 空の色を映す海は何となく夏の海よりも綺麗に見えた。それでもまだ此処数日の気温が高いせいか、脚で感じ取る水温は生温い。
 おまけに繁殖を終えた大量のくらげがサーファーを困らせていたり、既に海の家は全て閉まっている……そんな海水浴には遅い時期。

 その日、森杜彩は兄と共に海へとやってきた。
 昨日の晩唐突に告げられた行き先。特別遠い場所でもないが、初めて聞いた地名。
 今朝は朝食を済ませすぐ家を出ると、電車を乗り継ぎ昼前には目的の海へと到着した。田舎町で緑に囲まれた自然溢れる場所。日本を取り囲む海の名前で言うならば日本海側だ。
「綺麗なところですね」
 着いて早々彩が言葉にすると、隣で兄が嬉しそうに微笑んだ。それだけで今日一日の思い出がもう出来上がってしまったような、そんな気持ちに彩はなる。しかしそう考えている間に兄は砂浜へと歩いていってしまい、彩は頭を振ると後れを取らぬようにとその背中を追いかけた。
 海水浴客などいない砂浜にレジャーシートを敷くと、二人は着替えを済ませる。
 彩は兄から貰い受けた、紺色で胸の部分に大きく名前の書かれた"すくみず"――これでも貴重な遺物らしく、それ故無くさぬ様持ち主の名前が書かれている…のだと、健気にも彩は思っている――と呼ばれる水着を着た。
 当の兄は去年と同じく赤い褌を一枚、時折前垂れを風に靡かせ……今はレジャーシートの上、彩の隣に寝そべっている。
 暦の上では秋とはいえ、今日も日中の気温はそれなりに高く、この状態で風邪をひくことはまず無いだろう。
 今でこそこんなにのんびりもしているが、これでも一度は二人で波打ち際まで歩きに行き、特に海に入るでもなくそのまま引き返してきた。それが丁度一時間程前。
「――お兄様」
 彩はそう言いシートにそっと両手をつくと、仰向けになって目を閉じる兄の顔を覗き込むように見下ろした。そろそろおなかが空く頃だと思ったからだ。
 覗き込むと同時に、彩の長い銀髪が真上にある陽の光を若干遮り、兄の顔に影が落ちる。
「おなか空きませんか? よろしければ、そろそろお昼にしません?」
 すると兄はゆっくりと瞼を開け、目の前の彩をジッと見るとまたそっと微笑む。
 そして彩の顔にゆっくりと片手を伸ばし、その頬に触れるか触れないかのところで手を下ろすと

……小さく肯定の意を呟き 頷いた。


 昨日の夜行き先を告げられた事と多少出発の早さも関係し、鞄から取り出された弁当箱は少し小さめの物だった。
「すみません、生憎時間がなく……有り合わせになってしまいました」
 そっと苦笑いを浮かべながら彩はお絞りに取り分け皿、割り箸に紙コップと手際よく物を並べていく。その隣で兄は既に弁当箱の蓋を外し、中身を見ては歓喜の声を上げていた。
 時間がなかったと言う割にはそれなりに手の込んだものが詰まっている。五目いなり寿司に玉子焼き、唐揚げを初めとした揚げ物とサラダ。別の容器にはフルーツも入っていた。恐らくもう少し早くに聞かされていたのならば、前日に何か下ごしらえでもしたのだろう。
 それら全てを彩が手際よく皿に取り分けると手を合わせ、
「いただきます」
 揃って潮風に吹かれながらの昼食。
 それを終えると再び兄は寝そべった。彩はその隣で皿や割り箸、弁当箱を黙々と片付けていく。
 大体の片づけを終える頃、ふと髪を梳くような感覚に振り向いた。背にした兄がいつからか、長く垂れた彩の髪を自分の指に巻きつけ遊んでいる。
「お兄様、なんですか?」
 微笑みながらそれに応じると、彼は満腹のせいか…眠気眼で小さく言う。
「お話し、ですか? えぇ……喜んで」
 何か話をしてくれないかと求める彼に、彩は片付けの手を止め兄へ向き直ると正座する。そしてコホンと一つだけ小さな咳払いをすると、今一番に目に付いた物について話すことにした。
「くらげ……なのですけどね、とても美味しいそうですね」
 こんな時期の海に居る限りは刺される印象が第一だが、よくも考えてみれば食用くらげは多い。
「食用は三種類ほどあるそうなので、今度調理してみたいと思っているんです。そうしたらお兄様にも是非」
 そう言い兄を見ると彼は嬉しそうに頷いていた。
「後、知ってますか? くらげって漢字で水の母とも書きますけど、海の月とも書くのですよ。考え方によっては生物を表すのと食用とで書き方が違うらしいのですが……なんだか、素敵ですね」
 彩の言葉に兄は少し吹き出し笑って見せた。彼にしてみれば、食べる話の後に素敵だどうだで、話の飛躍具合が少し可笑しかったらしい。
 それでも彩は一生懸命に、傍らの兄のため話し続けた。最初の内彩の話には小さな相槌が打たれていたものの、いつからか一人で喋り続けていることに気づく。
「――――」
 そっと横に目を向けると、兄は自分の腕を枕に瞼を閉じていた。完全に眠ってしまったらしい。
 困惑と同時、内心は今しばらく兄が目覚めぬよう…心の奥でそっと願っていた。こうして静かに、ただ傍で見ているだけでも幸せで、その証拠に彩の表情は自然と綻んでいく。それは決して普段彼の前では見せたことの無い表情。
 それは居候で実は義妹、兄にとっては道具としての使い魔――そんな自分の立場を知っているが故、ひた隠している想い……その表れ。
 眠る兄の息は静かに規則正しく、彩はそっと目を伏せると自然と呼吸を合わせてみた。浅く、ゆっくりと。

 ――呼吸の数と幸せは 比例する。


 辺りの緑が風に吹かれてざわめいた。それは心のざわめきのように。
 寄せては返す波の音が、次第に大きくなっていくのを感じていた。
 風は長い髪を優しく揺らし、その髪を少し押さえると彩はふと空を仰いだ。
 水色に、僅かなオレンジの混じった空。いつの間にこんな時間だったのか。
 流れる時間と流れゆく雲の早さに戸惑いを感じた。
 ずっと続けばと思う。
 今この瞬間、そしてこの先……こうして兄といられる生活が。

「お兄様……」

 微かに呟きそっと右手の爪先で頬を撫でる。
 あの時兄がほんの僅かに触れた場所。彼自身は触れたかどうか、恐らく判っていないだろう。それでも、彩にはその感触が今も確かに残っていた。くすぐったいような、けれどそれはとても温かいような。
 そしてゆっくりと目を閉じその感触、この幸せな時間を胸に刻み込む。
 次に目を開けた時、彩の前に広がるその景色は今日一日を穏やかに終わらせてくれる気がした。

「お空が とても綺麗です――」

 そっと微笑み……まだ空に浮かばぬ月の代わり、海に浮かぶ無数の月を夕焼けと共に見る。
 返事は無くても構わない。
 今はただ、こうして自分をこうして隣に置いてくれれば良い。
 そして伝えることの出来ない沢山の言葉は、ただ静かに心の奥底で反芻されていく。
 数分後。シートについていた彩の手に、寝返りを打つ兄の手が意図的なのか、それとも偶然なのか。


そっと触れ やがて陽は落ちゆく――…‥