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Requital of a favor
まだ多少ふらつく足取りで、白神空は街へ帰るべく、緩やかな山道を下っていた。
浴びるほど酒を飲んだ後の怠い身体に風が心地良い。緑の匂いを移し取った風に肌を撫でられていると、体に残る酒精がそれにつられて出て行ってしまうようで、すっきりするのと同時に多少名残惜しくもある。
「ちょっと飲みすぎたわねぇ……」
間延びした口調でひとりごち、空はこめかみを軽く押さえた。
昨夜は狸たちの宴会に参加して大いに騒いだのだが、そこで振舞われた桜蜜酒を飲みすぎたのがどうもよくなかったらしい。夜通し飲んでいて寝ていないのも悪いのだろう。空の嗅覚はすっかり麻痺してしまい、いつもなら嗅ぎ分けられるはずの匂いが判らなくなってしまっている。
そうして、気がつけば見覚えのない道に迷い込んでいたのだった。限りなく獣道に近いような道とは言え、普段の空ならば迷うことなど有り得ない。酒のせいで嗅覚のみならず、方向感覚も鈍ってしまっているのだろう。
「お酒って怖いわね……」
心にもないことを呟き、空は一人でくすくすと笑った。
狸たちの住処を出てきたのが昼前だった。迷いさえしなければ一時間ほどで街に着いたはずなのだが、既に太陽が中空から傾いて久しい。このまま行くと日が暮れるまでに帰り着けるかどうかすら怪しい所だが、当の空は至って呑気で、珍しい植物やら鳥やらを見かけるたびに立ち止まり、果ては藪の中にまで踏み込んでいく。華奢な姿とは裏腹に野性的だ。
そうやって空が道なき道を下っていると、同じようにして山を登ってくる男が見えた。古い型のライフルと大きな皮袋を背負っている。
空と男はほぼ同時に相手に気がついたが、それぞれ正反対の反応を見せた。空は人懐こく微笑み、片や男は警戒心をあらわにしてライフルに手をかけた。
その噛みあわない状態のまま、しばしの沈黙が場を支配する。
「……人間か」
「別に何もしないわよ」
男がライフルから手を離したのと、空が両手を軽く上げて敵意のないことを示したのはほぼ同時だった。互いを見て自然と笑いが漏れる。
「どうしたんだ、若い娘がこんなところで。迷ったのか?」
「ちょっとね。街の方に出たいんだけど、どっちに行けばいいか判る?」
男は山に慣れているらしく、現在位置と方角を軽く説明した後で、ここを下っていくと少し広い道に出るからそこを道なりに行けばいい、と下方を指差した。
空が礼を言おうとしたとき、男に背負われている皮袋が突然暴れだした。正確には皮袋の中身が、だが。
「な、何が入ってるのよ、それ?」
驚いている空に困った顔を向け、男は皮袋を下ろして口を開けてみせる。その中には白い鳥が窮屈そうに羽根を畳まれて押し込まれていた。
「……鶴?」
そう尋ねると男は頷き、抱きかかえるようにして鶴を袋から出す。
背中の古びたライフルで撃ったのだろうか、片羽の付け根に痛々しい弾痕があり、周りの羽は無残な赤い色に染まっている。時折弱々しく羽を羽ばたかせようとしているところを見るとまだ息はあるようだが、それも時間の問題かもしれない。
「この子をどうするつもりなの?」
「どうするって……剥製にするのさ」
非難のこもった空の視線から逃れることもせず、男は仕事だから仕方がないと呟く。
ハンターである男によれば、剥製や毛皮はいつの世も変わらず需要があるのだという。動物の数が減った今ではかなりの高値がつくようになっており、剥製一つ仕上げるだけで一ヶ月や二ヶ月は遊んで暮らせるのだそうだ。
男が翼を撫でると、鶴は嫌がって弱々しい抵抗を返す。血に染まった羽毛が幾枚か抜け落ちて地面に散らばる。鶴の小さな丸い瞳が自分を見つめているような気がして、空はいたたまれなくなる。
「――ねえ、その鶴、あたしに売ってくれない?」
「……あ?何だって?」
「倍額で払うわ。いいでしょう?」
金額も聞かないうちにそう言い切って、空はポケットを探って小さな薄型の財布を取り出した。中には数枚のクレジットカードが特に秩序もなく収まっている。空は基本的に現金を持たない主義だ。その中から適当な一枚を選んで男に押し付ける。
「代金よ」
「……ああ」
男は面食らいつつもカードを受け取る。それと引き換えに鶴は空の腕の中に収まった。
空が鶴を抱きしめるのを見て、男は呆れたような声を上げる
「随分とお人良しだな」
「お互いにね」
そう切り返すと男は少し肩をすくめ、皮袋を小さく畳んでライフルを背負い直すと何も言わずに山道を登っていった。
男の姿が見えなくなったのを確認すると、空は鶴を抱いたまま近くの樹の根元に腰を下ろした。
翼の傷以外に目立った外傷はないが、鶴は随分と衰弱している。だが、それでも空が自分を助けてくれたのが判るのか、安心したように細い首をくたりと横たえて空にもたれかかってくる。
傷の具合を確かめようと空が翼に触れると、鶴は暴れることもなく自ら翼を開いて見せた。いい子ね、と空が声を掛けるとそれに答えるように嘴を振る。
剥製にすると言っていただけあって、傷は大きなものではない。出血はかなりあったがそれは弾が貫通していたからで、弾が残るよりはむしろ幸運だ。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
空はそう声を掛けると、傷口に唇を寄せた。固まりかけた血を舐めとる。鉄の味が舌の上に広がり空は少し眉をしかめたが、止めることはせずに傷口に唾液を塗りこめて行く。
これは空なりの治療の方法だ。消毒と言う意味もあるがそれだけではない。
空自身、一般の人間とは比べ物にならないほど回復力が強く、大抵の怪我なら一週間ほどで治ってしまうと言う少々特異な体質である。そもそも空の体液に治癒力を高める効果があるらしい。それは唾液でも同様で、傷口に塗るだけで効果を発揮するのだ。
ぺろぺろと傷口を舐め続けているとやがて出血は止まった。血の味がなくなった後はざりざりとした皮膚の感触だけが舌に伝わる。やっぱり鳥肌なんだな、とおかしくなって空は少しだけ笑った。
しばらく続けて、もう大丈夫だろうと言うあたりで唇を離す。鶴は弱々しくぱたぱたと翼を動かしてみせ、空の膝の上からひょいと飛び降りた。
「もう大丈夫ね?」
そう尋ねると、鶴は一度首を垂れてお辞儀をし、ひょこひょこした足取りで藪の向こうに消えていった。
その夜、空は何とか帰りついた自分の部屋で懲りずに一人酒を飲んでいた。ストレートのウィスキーをまるで水のように飲み干していく。
普段からこれくらいは飲んでいるが、嗅覚が麻痺するほど酔ったことはない。狸の酒には人間の身体には良くない成分でも入っていたのだろうか。そう言えば途中から頭に靄がかかったような記憶しかない、もしかしてヤバかったのかもしれない、と今更ながらに思う。
そのうちウィスキーのビンは空になり、物足りない空がどこかの酒場にでも繰り出そうかと考え始めた頃、控えめなノックの音が聞こえた。
「……?」
時刻は深夜だ。空耳かと思いもう一度耳を澄ますと、また小さくノックの音がする。
突然の訪問者にいい思いをした事はあまりない。警戒して神経を尖らせる。
だが、ドアの向こうからは一筋の殺気すら漂っては来ない。鉄や硝煙の匂いもまるでなく、ただかすかに甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。
どうやら害意のある相手ではないらしい。三度目の、少し戸惑ったようなノックに合わせて、
「はい、どうぞ――」
空は部屋のドアを開けた。
来訪者は空の姿を見ると、丁寧に身体を折り曲げてお辞儀をした。
それは白い着物に身を包んだ女だった。柄のない白地の着物に帯だけが赤い。女が顔を上げると豊かな黒髪がさらりと背中に流れる。古風な素焼きの酒徳利を胸の前に抱えており、空と目が合うとはにかんで目を俯けた。
敵ではないようだが、全く見覚えのない相手だ。空は首を傾げる。
「ええと……、どちら様かしら?」
失礼かな、と思いつつ尋ねると、女はふうわりと微笑んだ。
「今日、あなた様に助けていただいたものでございます」
「助けて、って……?」
「無法者の手より救い出していただきました」
女はいたずらっぽく笑い、片手で羽ばたく仕草をしてみせる。それでようやく空にも女の正体がピンと来た。
「もしかして、あの時の鶴……なの?」
はい、と女は頷く。
「ささやかながらご恩返しに参りました」
普通ならば昔話でもあるまいし、と笑い飛ばしてしまうような展開だろう。しかし、狐や狸が化けるのを目の当たりにしている空は、鶴だという女をあっさり現実として受け入れ、部屋に上げた。
女は部屋に入ると床にちょこんと正座し、三つ指をついて空に深々と頭を下げる。
「この度は本当に有難うございました。あのときあなた様が通りかかって下さらなければ、わたくしは今頃物言わぬ剥製に……」
「別に大した事じゃないわよ」
ただの気まぐれ、と空は苦笑する。実際その通りだった。蓋を開けてみれば依頼人は動物、という仕事が続いていたのでつい同情してしまっただけだ。
「それでも命の恩人には変わりありません」
女はそう言い、袂を探って素朴な素焼きの猪口を取り出すと、持っていた徳利から酒を注ぐ。それもまた古風なにごり酒で、麹のとろりと甘い香りが部屋中に満ちた。
「お酒がお好きと伺いましたので」
女はくすくす笑って空に酒を勧める。空も笑いながら猪口を受け取って一息に飲んだ。
「一体誰に聞いたの?」
「狸さんや狐さん方にお話を……、その……」
女は頬を染めて視線を移ろわせる。狐や狸から何を聞いたのか大体想像がつき、空はにやりと笑った。
「じゃあ、お酒以外のあたしの好物も、知ってるわよね?」
念を押すようにわざと間を置きつつ尋ねる。女は恥ずかしそうに袖で顔を隠し、消え入りそうな声で、はい、と頷いた。
そういうことならば話は早い。酒もいいが、こちらのほうがもっといいに決まっている。
空は猪口をテーブルに置き、顔を隠す女の腕を掴んだ。そのままそっと女の肩を押して床に横たえる。着物の袷から手を忍び込ませると女はわずかに体を強張らせるが、その緊張を解くように頬にキスを落として、空は帯を緩めて着物をはだけさせた。
女の肌は白い。空の肌も白いが、それとは異質な白さだ。触れれば溶ける雪のような儚い白。女の体からは甘い匂いが漂って、頭の奥がじんと痺れる。空は思わずぺろりと唇を舐めた。
「綺麗ね……」
そう呟いて、空は女の唇に自分のそれを重ねた。
無粋なほど眩しい朝の日差しに眠りを妨げられて、空は不機嫌に薄目を開けた。カーテンは閉めてあったはずだが、いつの間にか窓まで開け放たれている。
「…………」
ふと、思い当たって隣を見る。
案の定、というべきか、そこにはもう女の姿はない。ただ白い羽が二、三枚、置き土産のようにシーツの上に散らばっていた。
羽を拾って鼻先に持ってくるとかすかに女の甘い匂いがした。
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