|
A drinker and a drinker
見下ろす遠くには街が見える。街はくしゃくしゃと丸められたように縮こまった箱庭だ。薄汚れたスラムがビル街の周りを取り囲み、その周りには打ち捨てられた廃墟が立ち並んで、風景から街だけをいびつに浮き上がらせていた。
廃墟を抜けた先には、豊かとは言えないまでもそこそこの緑のある山や森が広がっているというのに、街はそれを拒絶して孤立している。いや、街のほうが拒絶されているのかもしれないが。
共存の意思のまるで見えない風景に、白神空は苦笑した。
数え切れないほどの動物たちを育む自然も、人にはその門戸を開かない。周りの木々は涼しげに梢を鳴らしてそ知らぬふりをしているが、個人レベルで自然と共に生きている人間はともかく、もはや種族として人間を受け入れる気はないのだろう。
「…………」
自分はどちらだろう。空は考え込むように銀の髪を指に絡めた。
人か獣か。能力で獣化しているときの意識は獣のそれに近いと感じる。もちろんそれは空の感覚上のことで、本来の獣の意識がどのようなものかなどと確かめる術はないのだが。
自分は人間だと空は思っている。だが、あまりに常人離れした身体能力や獣化能力を自覚するとき、ヒトという種族からの疎外感を感じるのもまた事実だった。
「――まぁ、いいわ」
あたしはあたしでしかない。
難しく考えるのは性に合わないと、空は振り払うように頭を振った。銀髪がさらりと音を立てて波打つ。そもそも、今日はこんなことを考えるために来たのではない。
空は近くの切り株に腰を掛けると、手にしていたピクニックバスケットからワインのビンを取り出した。小ぶりのワイングラスと何種類かのチーズもバスケットの中から現れる。今日の空の目的は、景色のいいところでワインを嗜むことなのだった。
以前この山に住む狸の依頼を受けてからと言うもの、空はよくこのあたりを訪れるようになった。街の人工的な自然に溢れた公園より、こっちのほうがずっと居心地がいいのだ。
空が今いるのは山の中腹ほどだが、狸たちの住処である洞窟は少し下ったところにある。眼下に広がる景色のうち、瓦礫と緑の入り混じった一角は狐たちの住処だ。帰りに寄ってみるのもいいかもしれない。
空はしばらく景色とチーズを肴にのんびりとワインを飲んでいた。辺りはごく平和で、穏やかに静まっているように見えた。
しかし。
「――っ!」
突然、空の背中が殺気を感じてびりびりと痺れる。
空気の不自然な流れに、空が咄嗟に転げるようにして横に避けたほんの一瞬後、鋭い鍵爪が切り株の上に振り下ろされていた。
みしみしと音を立てて四本の爪の形の刻印が切り株に刻まれていく。ワインのビンは無残に砕け、中身がまるで血のように地面に飛び散った。
襲撃者は一撃目を外したのが悔しいのか、身にまとう殺気がさらに強いものになる。
「う……嘘でしょ……」
襲撃者を見上げて空は思わずそう呟いていた。
それは身の丈二メートルは軽く超えている、巨大な熊だったのだ。
熊は巨体を揺らして空に向き直り、凶暴な光に満ちた目を向ける。酒の匂いに誘われたのか、人の匂いに誘われたのか。どちらにしても、あまりいい事態とは言えない。
じわじわと間合いを詰めてくる熊に空は焦る。
「ちょ、ちょっと待ってよっ!」
「問答無用ッ!」
「……へ?」
間髪入れずに帰ってきた声に、空は思わず辺りを見回す。だが、人影はない。狐や狸や、もちろん鶴の姿も見えない。
「何、よそ見しとるんじゃ」
声の聞こえるほうに首を向けると、そこには熊。
「…………」
どうやら、この熊も少し変わった動物――いわゆる『もののけ』の類であるらしい。
空が驚くと言うよりは納得して一人頷いていると、熊はその仕草が癪に障ったらしく、肩を怒らせてうなり声を上げる。
「最近、この辺りの山を荒らしとる人間ちゅうのは、貴様じゃな?そんな不届き者はわしが成敗してくれるわ!」
「荒らすって……あたしは知らないわよ」
「しらばっくれるな!」
一声、天に向かって咆哮を上げ、熊は巨体を揺るがして突進してきた。辛くも飛び退って避けた空だが、熊に正面からぶつかられた木が音を立てて根元から倒れたのを見てさすがに顔色が変わる。
熊は尚も空を睨み付け攻撃の意思を示す。空は小さく舌打ちした。戦う理由はないが、応戦しなければやられるとあっては仕方がない。
空は二、三歩後ろへ跳んで熊との距離を取ると、きつく目を閉じて瞬間的に意識を集中した。頭の奥から身体の末端に向けて電流のような刺激が走り、それに呼応して空の身体が変化する。
細胞が発熱し焼かれるような感覚を覚えるが、それも一瞬。筋肉が、骨格が、瞬く間に人のそれではないものに変わる。
空が再び目を開けたとき、その姿は凛々しい銀の毛並みを持つ狐の獣人へと変化していた。
熊は空の突然の変化に驚いて振り上げようとしていた爪を止めたが、空が手招きして挑発すると怒りが懐疑を上回ったのか、勢いを増して突進してきた。元来単純な性質のようだ。
狙いをつけて振り下ろされた爪をするりと避け、空は逆に一撃を食らわそうと熊の懐に飛び込む。
だが。
「え……っ!」
目の前を毛むくじゃらの腕が薙ぎ払ったかと思うと、空の身体は後方に撥ね飛ばされた。受身を取る間もなく木に背中を打ちつけ、息が詰まる。倒れこんだ空を間髪入れずに鋭い爪が襲った。
咄嗟に身をひねったが避けきれず、胸元から肩口にかけて鋭い痛みが走る。薄い生地の服が音を立てて引き裂かれ、白い肌があらわになる。爪痕から赤い血が滴って空の毛並みを赤く染めた。
熊は鼻息も荒く、じりじりと空との距離を詰めてくる。爪を収める気配はない。
空は痛みに顔をしかめつつ、周りの様子を伺った。天舞姫に姿を変えて逃げられないかと思ったが、木の生い茂った林ではそれも無理そうだ。
――仕方がない。
空は血の流れる肩を押さえてため息をついた。
もともと、生きることにそれほど執着があるわけではない。刹那的に日々を送っているおかげで思い残すこともないし、ここで人生に終止符を打つのもまた一興だろう。冷たい弾丸に貫かれて終わるよりは、熊の血肉となるほうがよほどいい。
あっさりと諦めた空は、目を閉じて熊の牙が身体に食い込むのを待った。
しかし、空の身体に触れたのは牙ではなくざらりとした生暖かいものだった。空が驚いて目を開けると、熊が赤い舌で自分の身体を舐めまわしているのが判った。
空が事態を把握出来ないでいる間に、熊は空の衣服を乱暴に剥ぎ取ってのしかかってくる。
これは襲われているのだ、と空が気付いたときにはもう、四肢を押さえ込まれていて逃げ出しようもなかった。
「本っ当に!済まんかった!」
四つん這いにうずくまり、頭を地面に打ち付けるようにして熊は何度も頭を下げる。土下座する熊と言うのもなかなか珍しい、と空は少し笑った。
空を押し倒して一通り事を終えた熊は幾分落ち着いて、話の通じる状態になった。空がだるい身体を押してこの山によく来ている訳――狸や狐の依頼を受けたことも含めて話して聞かせると、やっと熊の誤解も解けたらしく、先ほどからこうして平謝りに謝られていると言う訳だ。
ひたすら乱暴を詫びる熊に、空は気にしていないと笑う。
「間違いは誰にでもあるしね。殺されなくて良かったってところかしら」
結構気持ちよかったし、と言うのは心の中だけに留めておくことにする。
それにしても、と空は自分の姿を見返してため息をついた。治癒能力の高い空は、受けた傷はもうほとんど塞がってかさぶたも取れかけている。だが、無残に破かれほとんどボロ布と化した衣服はどうにもならない。
「……この服、結構気に入ってたんだけど」
その台詞で熊も空のため息の意味に気がついた。慌てて周りを見回すが、山の中に人間の服が落ちている訳はない。
熊はすっくと立ち上がったかと思うと、気合の入った唸り声を上げた。すると、熊の身体が一回り縮み、硬い毛も跡形もなく消えて人間の姿になる。それでも獣らしさの十分に残る姿ではあったのだが、熊は自分の変化に満足げに頷くと、空に向って言った。
「ちょっと、待っててくれんか」
「いいけど……」
「二十分くらいで戻るけえの」
言うが早いか、巨体に似合わぬスピードで熊は林の奥に消えていく。
そして、言ったとおり二十分もかからずに、新しい服を手に戻ってきた。熊は一晩で山三つを超えると言うほどの足を持つ動物だ。わざわざ町まで行って調達してきたのだろう。空が着るには少々幼いデザインのワンピースだったが、有難く頂戴して袖を通す。
空が何とか人前に出られる格好になったのに、熊は安心したため息をつき、また深々と頭を下げ始めた。
「今回は本当にわしの早とちりで……」
「あーもうっ!いいってそんなこと!」
下げた頭を無理矢理上げさせると、空は熊の逞しい腕に自分の腕を絡める。
「最初にちゃんと話しなかったあたしも悪いんだし、おあいこよ」
「……しかしのう……」
「いいの!パーッと飲んで仲直りでチャラね、行くわよ!」
空は楽しげに宣言すると、熊を引きずるようにして歩き出した。
立て付けの悪いドアが軋む音を立てると、酒場の客たちの視線は入り口を向く。各々が知り合いや、そうでなくても話し相手になりそうな人間が来ないかとわずかな期待を込めて開くドアを見つめる。
ドアを潜って現れた空を見て、カウンターの隅でビールを飲んでいた男が声を上げた。
「おう、姐さん。随分とお見限りじゃねえか。暇なら飲まねえか?」
空は男に向って笑って見せたが、男が笑い返す前に空の後ろから熊がのそりと顔を出したので、男の笑みは途中で怪訝そうな表情に変換された。
空はカウンターの店員にビールを注文すると、男に向けて申し訳なさそうに眉を寄せてみせる。
「嬉しいけど、今日は連れがいるのよ。また今度ね」
ひらひらと手を振って奥の席に向かう空とその『連れ』を、男はぽかんと口を開けて見つめる。
「……姐さん、随分趣味が変わったな……」
男はそう呟くと、不可解そうに肩をすくめてぬるいビールを煽った。
空たちが席に着くと程なくビールが運ばれてきた。
「乾杯!」
ジョッキを打ち合せ、互いに途中で息をつくことなく飲み干してしまい、二人は顔を見合わせて笑った。
「なかなかやるのう」
「そっちこそ」
二杯、三杯と注文し、どれだけ杯を重ねただろう。酔いが回れば饒舌になるのが常だ。
他はどうか知らないが、あの山の周りにすむ動物は大抵人語が判るもののけなのだと熊は語った。放射能の影響か、そうでなければもともとそういった力を持っていた個体だけが生き残ったのだろう、と。
「正直、わしは人間は好かんが――」
と前置きして、酔いの回った赤い顔で熊は空の目を見つめる。
「あんたは普通の人間とは違うのう。わしには判るぞ」
確かに『普通の』人間ではないな、と空は苦笑する。さりとて、熊が買いかぶっているほどに立派な人間でもない。
「あたしは、あたしよ」
日々を気ままに享楽的に生きている、白神空という人間。それ以上でも以下でもないと笑って、空はジョッキを傾けた。
|
|
|