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<東京怪談ノベル(シングル)>


A Terrible and Toroublesome Day: 01


 その日はとんでもなく厄介な出来事がつづく一日だった。
 マーフィの法則、というものがある。
 失敗する可能性のあるものは必ず失敗する、Anything that can go wrong, will go wrong――もっと言ってしまえば、悪いことはつづくとか、重なるとかそういう意味だろう。トーストのバターを塗った面が下に落ちるのだ。
 半分ジョーク、科学的に立証されているかどうか怪しいにしても、今日の俺は,
まさに『マーフィの法則』の好例なんじゃないか。
 そんなことを思いながら、緑川勇は盛大な溜息をつくのであった……。

    *

 サイバー化される以前は一日も欠かしたことのなかったトレーニングを、ここのところ怠りがちになっている。
 理由は二つ。
 一に、単純に「それどころではない」。二に、効果の程が疑わしい。
 生身でのトレーニングにはそれなりに意義があった。むしろ武道家にとって、肉体のメンテナンスは何事よりも優先されるべきであろう。
 が。
 その『メンテナンス』という言葉が違う意味合いを持ってしまった今――むしろ字義通りの意味になってしまった今、勇をトレーニングへ駆り立てるものはない。あるとしたら重苦しい義務感くらいのものか。
 サイバー化された肉体は、すなわちメカと同義だ。メンテナンスといったら、そのものずばり機械整備になってしまうわけで。
 ジョギングで心肺機能が上がるわけでも、腕立て伏せで筋力がつくわけでもない。今の彼に必要なのは単純な反復運動ではなく、鋼の身体をいかに用いるかという、実戦に基づいたデータをインプットすることである。
 そして、それ以前にすべきことは山のようにあるのだ。
 例えば、衣類をはじめとした日用品の補充とか。エネルギー源の確保とか。多額な借金を返済するため、働き口を探す、とかだ。
「……はぁ」
 勇は人知れず溜息をついた。
 トレーニング云々以前に、人として最低限の生活水準すら満足に保てていないのだ、俺は。
 表を出歩くのには未だ慣れていなかったが(そのうち慣れるだろうという気もしなかった)、背に腹はかえられない。
 休日にウィンドウショッピングへ出かける中学生の少女、といった趣で、勇は街へ出た。

    *

 で、本当にウィンドウショッピングになってしまった。
「何を着ればいいんだ……」
 入るべき店すら特定できないまま、延々と一時間。
 勇は途方に暮れていた。
 悪目立ちしない方向だと子供服か、小さいサイズのユニセックスか。しかし表にディスプレイされている服を見る限り、その条件を満たす店がないのである。この間勢いで飛び込んだ先で無難な服を手に入れられたのは、僥倖だったのかもしれない。とりあえず街へ出てみればなんとかなるだろうと思っていたが、どうにもならなかった。
「……服は後回しだ、後回し」
 一人つぶやき、勇は店の前から離れる。
 そういえば少し腹が減ったかな。
 ボディの維持が目的なら栄養剤で十分だが、心理的な欲求を無視するのも何だし、己を人間たらしめている節食という行為を切り捨てたくはない。
 そうだな、自炊にしよう。今まで通りの食生活というわけでにはいかないだろうが。必要な栄養は糖質が多いようだし。
 食材を揃えることを考えたら、少し気分が浮上してきた。料理は気分転換に良い。
 面倒くさいことは後回しだ、とにかく何か食べよう、と足を向けた先に軽食を扱っているらしいこじんまりとしたレストランがあった。店頭に求人広告が張り出されている。
『ウェイトレス募集』。自給は、職種からすればまあ上等といったところか。
「ウェイトレスね……」
 制服を着て、いらっしゃいませ、などとにこやかに挨拶したり、注文を取ったりしている自分の姿を思い浮かべた。なるほど、可愛らしいウェイトレスだ。……傍から見れば。
「飲食店はパスだ」
 うんざりした顔で踵を返す勇。
 特別な知識や経験なしに始められる仕事といったら、やはり肉体労働だろうか。体力には自信がある。夜間なら自給も良いだろうし。やはりここは無難に――
 ふと、建物のガラスに映った自分の姿が目に入った。
「…………」
 この外観で、誰が道路工事のアルバイトに雇ってくれるというのだ。
 勇はやれやれと頭を左右に振る。
 女性しかできない仕事はどうだろう。例えば――例えば、風俗店とか?
「……そういう選択肢もあるのか……」
 半ば絶望的な、諦観するような気分になって、げっそりと溜息と共に吐き出した。
 風俗店で『同性の』相手をしてやるなどという気はさらさらない。考えるだけで鳥肌が立ってくる。生物学的には女かもしれない、だが人格は男なのだ。冗談ではない。
 しかし他にどんな仕事ができると?
 身元不明の、どこからどう見ても中学生かそこらの少女を雇ってくれるような物好きがいるだろうか? ましてや、いかがわしくない仕事など。
 いるかもしれない。ひょっとしたら。
 何しろ『審判の日』以降、どこも深刻な人材不足だと聞くし……。
 と。
「お嬢さん、こんなところで何してるの?」
 難しい顔をして思考に沈んでいた勇の耳に、軽薄な男の台詞が飛び込んできた。
 ナンパか。
 いつの時代にも頭の軽い連中はいるらしい。
 ――などと他人事のように、勇は男の声を聞き流している。芳しくない状況だったら手助けしてやろう、くらいの気持ちで。……まさかその呼びかけが自分に対するものだとは思いもせず。
「つれねェなぁ。君のことだよ、お嬢さん」
 肩を叩かれ、
「はぁ?」
 思い切り相手を小馬鹿にしたような返事をしてしまった。
 ……『俺』のことか!
 しまった、と勇は思った。顔が引き攣っていたかもしれない。
 不要なトラブルは極力避けたいのに。今の態度で、相手によろしくない印象を与えてしまったのは明白だった。
 さんざん無視された挙句、「はぁ?」などと返されては、プライドがずたぼろになっても仕方ないというものだろう。ナンパなどという俗っぽいことには無縁の勇だって、そのくらいは想像がつく。
 程度が低い上に、あるかなしかのプライドを傷つけられてしまった男の行動など、決まっている。暴力で屈するのみ、だ。
 案の定。
「暇ならちょっと付き合えよ」
 男は横柄な口調で言って、勇の細い腕を取った。
「は……離して下さい」
 問答無用で振り切るわけにもいかず、勇は自信なさげに抵抗する。その、いかにもか弱い少女といった様子が、男を余計に刺激してしまったようだ。
「そう言わず、な?」
 下卑たにやにや笑いと共に、男は強く腕を引いた。
 勇は助けを求めるように通行人へ視線を向ける。が、誰も彼も見て見ぬフリをして素っ気なく通りすぎていくのみだ。
「俺――いえ、私、忙しいですから」
「いいとこ連れてってやるからさ」
「離せって――」
 言ってんだろこの野郎! と心の中で毒づき、勇は男の腕を振り払った。思わぬ力に、男は一瞬呆気に取られたようになる。まずかったか。構いやしない。
「すみません、私、行かなければならないところがありますから」
 勇は足早にその場を去る。もちろん男は追いかけてきた。
「おい」
 しつこい!
 今すぐにでも走り出したいのを堪え、勇は無言ですたすたと歩みを進める。無闇に走ると他人を巻き込んでしまいそうだったので。
「待てって」
「急いでますから」
 できることならこの場で叩きのめしてやりたかった。が、警察沙汰になるわけにもいくまい。何しろ今の彼には、身分の証明をするものすらない。
「ちょっとくらい良いだろ?」
 勇はちらりと周囲へ視線を走らせる。
 逃げ込むには――あれだ。あのビルが妥当だろう。
「友達と待ち合わせしてますから!」
 口から出任せを言うと、勇はビルに向かって猛然とダッシュした。通行人がぎょっとして道を開ける。
 一気に道を横断し、ドアを潜り、ばたんと後ろ手に閉め、勇は深く息をついた。
「逃げ切った……かな」
 油断は禁物だ。ガラス越しに通りを確認した。男の姿は見当たらない。勇を追いかけるだけの根性があったようにも思えない。逃げるが勝ち、だ。
 勇はほっと胸を撫で下ろした。
 今更思い出したように顔を上げ、ビルの中を見回す。見回して、
 自分の判断が誤っていたことを悟り、勇はその場で硬直した。
 ――Anything that can go wrong, will go wrong.
 よりにもよって、逃げ込んだ先が……、
 女性向けのファッションビルだとは。


    to be continued...