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Dizziness Junkey ---憂鬱なる朝に---
女子用ブレザーを着用する時、大概はブラウスに袖を通しボタンを留め、タイを締めることから始めるのが普通――なのだろう。寝巻きにしているシャツを頭からすっぽりと抜きながら、俺はそんなことを思考する。
シャツの次にスカートを穿くのが常套というものなのだろうか? そんな事は知らない。知ったことじゃない、知るはずも無い、そして知らずに過ごすはずだった。永遠に。きっとそんな人生が俺、緑川勇と言う列記とした男性には待ち構えてくれているはずだったのだろうと思う。残酷な神様によって捻じ曲げられた俺の人生から見れば、そんな当たり前の事すらも遠い昔の事になってしまうわけなのだけれど。
俺はあえて、濃いグリーンのブレザーに袖を通した。下半身がすーすーと寒気を訴えるが、そんなものは御機嫌に無視する。無視だ。この上なく無視。そんなもの知るか、俺に今現在必要なのは少しでもこの現実から逃避するための思考だけだ。そして男子としての尊厳に別れを告げる時間だ。
クローゼットに掛けられたハンガーを眼にするたびに、それを何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに――ああ、このいざと言うとき、俺は踏み切れないでいる。なんと情けないことか! でも俺は悪くない! びた一文として悪いことなんてあるもんか!
そもそもどうして俺がとっくの昔に卒業した母校、羊ヶ丘学園高等部の――よりにもよって女子用制服に身を包まねばならないかと言えば、数日時間を遡らなければならない。
誰も訊ねてくるはずのない部屋に、唐突に、その客人は現れた。年の頃は俺と同じ、二十代後半から三十代に届くだろうかと言うところ。どこにでもいそうなありふれた顔に柔和な笑みを貼り付け、そいつは俺に名刺を示した。そこに記された言葉はあまりにも現実離れしていて、俺にはにわかに信じがたかったんだが、それでも認めないわけにはいかなかった。
CIAエージェント。
それは一体何処の言葉でしょう。
「……それで、エージェントさんがなんの御用でしょうか」
高い声の調子に似合わずぶっきらぼうな俺の言葉に、男は苦笑してみせた。あからさまに俺が信用していないことが見て取れたのだろう。まあ、それは誰でも判るレベルだ。それほどまでに、俺は警戒心を露にしていたのだから。
相手と向かい合うようにソファに腰掛ける俺の身体は、浅くしか乗っていない。と言うのも、すぐに何かしらの行動に出られるようにとの配慮だった。動きやすくしていれば、どうにでも、対処は出来る――たとえば突然の武力行使にも。まだ身体に慣れているという実感は薄いものだったが、負けるとは思わなかった。癪なことだが、俺の身体はオールサイバー……しかも、軍用程度の能力を兼ね備えたものなのだから。
「君は羊ヶ丘学園の卒業生だそうだね、緑川君――否、『勇ちゃん』とでも呼んだ方が良いのかな?」
「帰って下さい」
「おやひどい、ささやかなジョークだったのに」
「つまらないです」
肩を竦めて見せる様子に俺は舌打ちをする。
しかし唐突な言葉だ。確かに俺は羊ヶ丘学園の生徒だったが、だからなんだって言うんだろう。あの巨大な小中高一貫教育システム採用型の総合学園。なつかしい、もう十年も前の事だ。あの頃は楽しかった、なんて思い始めたら人間は歳を取ったことになるのだろうか。
テレビで見たが、最近はサイバーやエスパーの受け入れも始めたらしいと聞いている。もっとも母校だということ以外、俺には何の感慨も無い。無関係に自分から離れた所で動く現実の一つだという認識しか、そこにはない。大体どうして唐突にその言葉を出すのか、訝る俺に笑みを向けて。男は続ける。
「そんなわけで、いってらっしゃい」
「訳がわかりません」
「さっきの名刺でも判っただろうが、私はエージェントでね。現在はちよっとした調査のために、学園に教師として潜入をしている。だがやはり立場が違う以上、生徒間には関われなくてね――新密度も上がりにくい。そこで、生徒側にも調査員を入れることになった」
「…………」
「お察しの通り、そこに君が候補として上がったというわけだ。丁度良いだろう? こう無職に貯金を食いつぶす生活が、いつまでも続けられるとは思っていないだろう? オールサイバーは燃費が悪い、電気代も馬鹿にはならないんだからね」
それは、そうだ。
身分証明が無い以上全うな仕事には就けない。俺は、戸籍上、人の記憶上にある『緑川勇』とはまったくの別物になってしまっているのだから。
「こちらに手を貸してくれれば身分保障もするし、もちろん報酬も出そう。君はただ高校生として生活をしてくれれば良い。学校外ではアルバイトでもなんでもしてくれて構わない、一切関知などしない――悪い話ではないと思うがね」
「それはそう、ですけれど――」
「そうそう、サイバー法にはこんな一文があるんだよ。『非合法の医師、俗に言う闇サイバー医師によってサイバー化された者は、例外的に強制廃棄を認める』とね」
…………。
選択肢、ねぇじゃねぇかよ。
「判った――判りました、よ」
「それでは制服や教科書は追って届けさせよう。君は私の妹として転入することになる――そうだな、一週間後からだ。覚悟は決めたまえよ?」
にやり。
妹? 覚悟? ちょっと待て。
そうだ、俺は――
「ま、待って、ちょっとたんまッ」
「ああ、流石に中等部のセーラー服は辛いと思ったから、編入は高等部だよ。安心したまえ」
「出来ねぇよ!」
「まあ人生諦めが肝心だ」
「絶望させたいのか希望を持たせたいのか絞れよ!!」
「それでは一週間後に学校で、勇ちゃん?」
「勇ちゃん言うな!!」
ぱたん。
軽やかに。
男は去っていった。
後日届けられた濃緑色のブレザーを捨てるかどうか、俺が一時間以上迷ったのは言うまでもない。
憂鬱な着替えの時間、スカートに足を突っ込む瞬間、俺は自分の運命を今までになく――悔やみ、呪った。
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