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<東京怪談ノベル(シングル)>


A Lost Arpeggio -失われし挽歌-


 この右手に血は通わぬ。
 脳からの指令も届かず、触覚を通して外界の情報を受け取ることもない。
 従って、望んだ音を奏でることはできない。
 この役立たずの右手は、それでも、依然として私の身体の一部なのだ。
 かつては、私の音楽の一部だった。
 そう、かつては。

    *

 革命の時代に生きたロシアの作曲家、ラフマニノフが、幻想小品集Op.3の冒頭にエレジーを書いている。左手のアルペジオと右手のメロディが見事な対比を成す、三部構成の小品である。
 頭を巡るのは、エレジー変ホ短調の、物悲しくも美しいメロディだ。
 あの音。
 求めているあの音は、しかし彼の手によって奏でられることは二度とない。
 幼い頃から共に人生を歩んできたスタインウェイのグランドピアノも、今は弾き手を失って、じっと沈黙するばかりだ。
 定期的に調律する以外で、スタインウェイがその深い音色を響かせることはなく、いつからか完全に――、一切の音は消え失せていた。
 彼の周りから。音楽そのものが人生であった、クレイン・ガーランドの周りから。
「夢を……」
 黒い光沢を放つピアノの前に座り、左手で拙いメロディを奏でながら、クレインはぼんやりとつぶやく。誰にともなく。あるいはピアノに語りかけているのかもしれなかった。
「夢を見る……今でも……」
 クレインは譜面台の前に伏せる。
 銀色の髪がぱらりと鍵盤の上に落ちる。鏡面のような譜面台に、アルビノの赤い瞳が映り込んでいた。
 黒い手袋で覆われた右手では、決して鍵盤に触れない。左手が、本来右手で奏でられるはずの主旋律をなぞる。アルペジオを欠いたエレジーの旋律は、風に吹かれて当て所なく彷徨う枯葉か何かのように頼りない。
 あの日から譜面台に立て掛けたままになっている楽譜は僅かに日焼けしている。五線の脇に彼の筆跡で綴られた、addoloratoの文字。悲しみを込めて。
 ……失われた音楽への悲しみを?
 クレインは目を閉じた。
 まだ夢を見ているのかもしれない……、と思う。
 どこからが夢で、どこからが現実か、わからないのだ。区別できなくなることがある。
 夢の印象があまりにも強烈なせいかもしれない。バイオリズムが低下している時期にそのような状態に陥るらしいことだけは確かだが、どちらにせよ……、
 音のない世界など、夢であろうが現であろうが変わりはすまい……。
 ああ、まったく、眠くて仕方がない。
 心象風景、記憶、その他の何か、が奇妙に融合した世界に放り込まれ、クレインは途方に暮れる。シュールレアリスム絵画か、心理学者が精神分析に用いる図像のような……、ああ、音がない。音のない世界だ。こんな退屈な場所では、眠くなるのも無理はないだろう。
 だから、きっと、まだ夢を見ているのだ。
 左手が奏でるエレジーの音色。
 不安定な旋律は、クレインを過去へと誘う。

    *

 不幸な事故は、立てつづけに起こった。
 まるで、『誰か』がそう仕組んだとでもいうように。
 出口のない悪夢は、おそらく配偶者の死去から始まったのだろう。
 双子の片割れが死んだらこんな具合だろうか……それは致命的な欠落だった。たった一音の不在が不協和音を生む。存在しないことで致命的な結果をもたらす。彼女は、クレインにとってそういう人物だった。
 意気消沈していたクレインに与えられたのは、慈悲ではなく、さらなる悲劇だった。両親に誘われて旅行へ出向いた先で、酷い事故に遭ったのだ。
 事故について語る言葉はない。ただ酷かった、としか言い様がない。物理的にも、説明するのは不可能だ。事故当事の記憶はすっかり抜け落ちてしまっているのだから。
 クレインの左半身は不随となった。
 幸い、半身不随程度で、可能性のすべてが奪われてしまう時代ではなかった。選択肢はいくらでもあった。事故で駄目になった部分をサイバー化する。いっそのこと新たな人生を歩むつもりで、身体を丸ごと取り替えてしまう。経済的に不可能ではなかったし、容易にサイバー化できる現代において、身体が(文字通り)『体現』する個性といったものはさほど重要ではないと、クレイン自身も考えていた。性別や年齢や外観は、金を積みさえすれば可変の時代なのだ。外観が『持って生まれた個性』の一つ足り得る時代は、サイバー化技術の普及で終わってしまったのだ、と。そう思っていた。
 しかしいざ自分がその立場に立ってみると、事を割り切るのは容易ではなかった。
 殊に、使い物にならなくなってしまった右手は……、
 今まで共に音楽を奏でてきたこの右手だけは、
 どうしてもサイバー化できなかったのだ。
 ピアノを弾く者にとって、楽曲は、脳が記憶しているというより指が記憶しているといったほうが正しい。脳の指令がなくとも、鍵盤に十本の指を添えれば勝手に曲を紡ぐ。そういう感覚だった。
 右手までサイバー化してしまったら、今まで弾いてきた曲をすべて忘れてしまうのではないかと……、そんなことは有り得ないと頭でわかっていても、恐怖を拭い去ることはできなかった。
 あるいは、何も考えていなかったかもしれない。右手を機械化するなどという選択肢は、元より彼の中には存在していなかったというだけで。
 使い物にならない右手の代わりに、彼は、音楽家としての未来を放棄することを選んだ。
 ピアニスト、クレイン・ガーランドは、事故による半身のサイバー化を境に、表舞台から姿を消した。

    *

 誰もいない伽藍とした屋敷で、一人途方に暮れ、クレイン・ガーランドは彫刻のような己の右手を見下ろしている。
 あの日。右手が使い物にならなくなったと知らされたあの日も、彼は同じように冷たい右手を見下ろしていた。
「弾けない……」
 ぴくりとも動かない右手に絶望して、そんなつぶやき声を漏らしたのだった。絶望の深さ故に、かえって無表情な声色になっていたと思う。
「弾けない……」
 求めていた音は、さらさらと、砂のように右手の指の隙間から零れていった。
 さらさら、さらさらと。
 音が零れるのを留める術はない。
「弾けない……!」
 クレインは右手を鍵盤に叩きつけた。
 不協和音が響き渡った。
 求めていた音は、そこにはなかった。



 けれど未だに、私は音を探しつづけている。
 救いを見出さんかとするように、左手で、エレジーの旋律を弾きつづけている。
 アルペジオを欠いた幻想小品集Op.3、変ホ短調の主旋律。
 挽歌は、あの日から失われたまま。
 私の音楽は、指の隙間から砂のように零れ落ちていき、
 それらを取り戻すことは、二度とできない。



fin.